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10/26(土) 日本近代史最大のタブー

2013/10/26(土) ニュース


<今日のツイートテレビ 日本近代史最大のタブー:明治維新と田布施システムの秘密>

                                                                        Font MSP ゴシック サイズ11

2013/10/26(土) ツイートTV
日本近代史最大のタブー:明治維新と田布施システムの秘密




1 お断り:エタや朝鮮の人達を差別している訳ではありません
2 歴史を動かす原理はお金や財宝と家系を維持するための権威
3 日本は古来から渡来人が神の権威で地域を支配する小国連合
4 ザビエル以来、金銀の輸出先は中国朝鮮からヨーロッパへ
5 金銀を取り付くした欧米は明治維新で天皇日銀を支配し現在も






<ニュースウォッチ12:今日のニュース>
1 お断り:エタや朝鮮の人達を差別している訳ではありません

2013/10/26(土) 日本近代史最大のタブー:明治維新と田布施システムの秘密を解明か
2013/10/26(土) ツイートテレビ ニュース 日本近代史 最大のタブー 明治維新 田布施システム 秘密 解明



より大きな地図で 明治維新と田布施システムの秘密を探る旅 を表示






穢多の猿は(部落学序説)

http://eigaku.blog.ocn.ne.jp/jyosetu/2005/09/post_1a05.html



服部順治@JunjiHattori
NHKのダイイング・メッセージの中で「年寄りの左足がサルにかまれ、サルの捕獲作戦を行う、は天皇エタのスパイを捕まえてくれ!」を解説する。サルとは穢多の中の猿引を意味し秘密裏に国外スパイ活動を家業とする立派な家柄。秀吉や山内一豊の妻も? eigaku.blog.ocn.ne.jp/jyosetu/2005/0…


服部順治@JunjiHattori
ひぇーNHK狂ってる!と思ったが、熟考してひらめいた。これはNHKのダイイング・メッセージなのだと!宮崎駿監督の引退でジブリが創価学会に乗っ取られたと同じでNHKも。オリンピック招致問題で「金」の亡者に囚われてる。年寄りの左足がかまれサルの捕獲作戦は天皇エタのスパイを捕まえて!


服部順治@JunjiHattori
おっと、それでもしつこく続けるぞ!ロイヤルユダヤと天皇エタら金融マフィアの陰謀:続き2013/8/31憲法を無視して進めようとするオバマと金融マフィアの思惑2/2: youtu.be/tlo9vnGHyZA 9.11とユダヤ博物館
http://wajuntei.dtiblog.com/blog-entry-1392.html

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穢多の猿は(部落学序説)

http://eigaku.blog.ocn.ne.jp/jyosetu/2005/09/post_1a05.html

穢多・茶筅・宮番・猿引・非人
【第3章】穢多の定義
【第3節】穢多の外延
【第2項】穢多とは誰か 1.穢多・茶筅・宮番・猿引・非人

それでは、「穢多」は、具体的にはどのような人々のことを指すのでしょうか。

長州藩の支藩である徳山藩では、司法・警察をあらわす「非常民」は、いくつかの言葉に限定されています。通常、近 世幕藩体制化にあっては、「非常民」は、「穢多」という言葉に統一されています。

長州藩本藩もその傾向がみられます。

これは、幕府の方針に基づくものであると思いますが、長州藩本藩の場合は、一般的に、「穢多の類」として、「穢多」・「茶筅」・「宮番」・「猿引」・「非人」の5種類の人々があげられます。北川健著《『防長風土注進案』と部落の歴史》という論文の<長州藩の賤民身分の種類>の中で、これら5種類の民は、詳しく、取り上げられています。

【穢多】

「穢多の類」の4人に3人は、「穢多」(下位概念としての穢多)に属します。長州藩の「穢多」(上位概念としての穢多)身分の中では「中核的な存在」になります。その中世的前身は「かわた」と言われていた人々ですが、「万治・寛文」期(1660年前後)に、諸藩と同様、「かわた」あらため「穢多」と「公称」されるようになりました。彼らには、「夜廻役」・「牢番役」・「長吏役」などの、近世司法・警察の仕事、「警吏・捕吏・刑吏」という「役務」が課せられました。

北川と違って、筆者は、死牛馬処理権に伴う皮革の仕事は、「穢多」身分に伴う、「役務と家職」の「家職」であると考えています。藩主から、「死牛馬処理権」に伴う「給付」を受ける代償として、藩主から、「夜廻役」・「牢番役」・「長吏役」などの、近世司法・警察の「役務」が課せられたと考えています。

北川は、その他に、「穢多」は「門開き」や「千秋万歳」にも従事したといいますが、それも、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」に課せられた、現代的な表現をすれば、「公安警察」の「調査活動」に類した「穢多」の所作であると思われます。

北川は、その他に、「穢多」が、「非人」・「宮番」を管轄する立場にあったことを指摘していますが、「穢多」は、その役務遂行上、「法」に準拠して行動していますので、「穢多」・「茶筅」・「宮番」・「非人」が違法行為を行うときは、当然、彼らに対して摘発と捕亡の所作をしなければなりませんでした。

そういう意味では、「門開き」や「千秋万歳」による調査活動や、「非人」・「宮番」の取締りは、「穢多」の本来の役務に内在するものと判断できます。

【茶筅】

「穢多」に次いで多いのは、「茶筅」です。
「穢多の類」の8人に1人は、「茶筅」になります。
「茶筅」の言葉の由来を茶道の道具である茶筅に求める説がありますが、如何にも短絡的で、「茶筅」の本当の意味を語り伝えているとは思えません。竹細工製品である茶筅を藩主に献上したり、「茶筅」が配属された村で「家職」として認められている竹細工をして茶筅を販売しても何ら不思議ではありません。最近は、「竹細工」を「家職」ではなく「役務」として捉える歴史学者もいるようですが、「皮革」が「役務」ではなく「家職」に過ぎないのと同様、「竹細工」も「役務」ではなく「家職」に過ぎません。

長州藩の資料の中に、「御茶屋」というのが出てきます。

言葉の上では、「旅人が峠の茶屋で休憩するお茶屋」というイメージがありますが、長州藩でいう「御茶屋」というのは、代官所や藩直営の宿白施設のことです。民間で運営される場合は「本陣」といいます。

「茶筅」というのは、「御茶屋」で「使役」されている、司法・警察官である役人を指して、比喩的に使われている呼び名であると推測されます。

「穢多」にしても、「茶筅」にしても、語源から、その本質を把握することはできないのではないかと思われます。「穢多」・「茶筅」・「宮番」・・・等の表現は、アドホック(adhoc)として使用されていると思われるからです。

アドホックというのは、「間に合わせの言葉」という意味です。

定義が難しいときに、便宜的に使用される言葉という意味です。「穢多」・「茶筅」・「宮番」・・・等の表現が、アドホック(adhoc)であるということは、次の項で具体的に説明しますが、アドホック的な概念は、いくら語源を探っても、その概念の本旨にはたどりつくことはできないのです。

長州藩の支藩である岩国藩では、「道の者」・「久保の者」という表現がありますが、これは、「穢多」の配置形態を指す言葉で、「穢多」が、現在の警察でいえば、本体を離れて、駐在所にいる状態が「道の者」で、警察署や機動隊の宿舎にいるときは「久保の者」と表現されているのです。岩国藩では、「道の者」を「茶筅」に、「久保の者」を「穢多」に置き換えて解釈することができます。北川は、《長州藩の茶筅と宮番の偏在の基礎》という論文の中で、「狭義には「道の者」とは本藩領でいう「茶筅」である」と断定しています。

北川は、「茶筅」の職務は、「地下中廻番」・「村廻り」・「捕亡吏」で、近世司法・警察の仕事、「警吏・捕吏・刑吏」という「役務」を担っていたといいます。「茶筅」と「穢多」は、共通の「所作」をしていたというのです。

近世司法・警察の配置形態からみて、少数点在の場合は「道の者」(茶筅)、集団で存在する場合は「久保の者」(穢多)と表現されていたと思われるのですが、徳山藩の北穢多村は古地図上では「久保地」と表現されています。「久保の者が住む地」という意味でしょうか・・・。

しかし、宗教学的にみると、長州藩の「穢多」と「茶筅」は質的な違いがありそうです。

というのは、「穢多」は「穢多寺」に所属し、「茶筅」は「茶筅寺」に所属するからです。近世幕藩体制下の「穢多寺」を継ぐ、浄土真宗のある僧侶は、「穢多と茶筅は、昔も今も通婚しない」といわれます。「穢多」の末裔は「茶筅」の末裔と婚姻関係を結ばないし、「茶筅」の末裔は「穢多」の末裔と婚姻関係を結ばないというのです。

中上健次が、『紀州木の国・根の国物語』で、「差別、被差別とは何なのだろう、とは問うた。いま改めて、被差別部落とは何だろう、と問う。そして、被差別部落民とは何なのだろう。・・・被差別者でありながら、被差別部落民を差別している」と語らざるを得なかった、長州藩における類例のひとつかもしれません。

【宮番】

「穢多」・「茶筅」の次にあげられるのが「宮番」です。
北川は、「神社の掃除・警番・火事に従事」すると共に、「村内捕亡吏」をしていたといいます。以前、長州藩本藩領の浅江村においては、近世司法・警察の「養成所」のようなものがあって、浅江の穢多村は、優秀な「宮番」を輩出していたと書きましたが、「宮番」は、穢多がその役をになっていたと思われます。

筆者は、「茶筅」の役務に対する給付は、藩(代官所)から支出され、「宮番」の役務に対する給付は村方から支出されたと思っています。
しかも、「茶筅」の職務内容と「宮番」の職務内容は、相当大きな違いがあります。「非常・民」としての権限は、「茶筅」の方が保有しているように思われます。

【猿引】

北川によると、「猿引」は、「いわゆる猿回し。萩城下の郊外に存在。文政年間(1820年代)に8軒とある」といいます。「猿」というのは、近世幕藩体制下では、「密偵」のことであって、萩城下だけでなく、城下・宰判・藩の境を越えて、情報収集の仕事に従事していたのではないかと思います。「猿廻し」は表向き、実際は、長州藩の正式の「密偵」であったわけです。

長州藩本藩領の浅江村の「末裔」である村崎義正は、その「猿回し芸」について、「国政、厳しい差別、極貧のなかで耐えに耐えて生き残った猿回し芸」といいますが、萩城下の「猿引」とはかなり違いがあります。萩城下の「猿引」は、その「役務」遂行のために、猿と共に旅に出るときは、藩から、数両の路銀を受け取ったと思われます。「穢多の類」の中でも、高級取りのひとつです。浅江の穢多村と「猿引」との関連は、文献上で、まだ確認できていません。

【非人】

長州藩においては、非人は、「人を非す」役で、各種処刑に携わったと思われます。徳山藩においては、「非人」の役は、すべて「穢多」の役務として遂行されました。

長州藩の本藩では、上記の「穢多」・「茶筅」・「宮番」・「猿引」・「非人」の5種類の「非常・民」として存在しますが、周防国に2カ国、長門国に2カ国配置された支藩においては、徳山藩と同じく「穢多」という概念に収斂されています。


支藩は、当然、近世幕藩体制が構築されたあとで作られるため、幕府から「藩」として認証されるために、幕府の「法」に従って、その司法・警察体制を「穢多」という呼称に統一したためであろうと推測されます。

長州藩に隣接する幕府領(愛媛松山藩)等は、「穢多」という呼称に統一されています。職務の遂行上、区別が必要な場合は、「○○穢多」というように、「穢多」の前に、職務の内容を明らかにする言葉を付加して表現されました。「棒突穢多」・「盗賊番穢多」・「警固穢多」・・・、というように。

「穢多とは誰か」という問いに、長州藩の事例だけで答えると、「その解釈は、長州藩の例外事項でしかない・・・」という批判がなされる場合が多々あります。

長州藩に限らず、藩単位で、「非常・民」について考察するときは、同じ状況に陥ると思われます。長州藩の四境に接する藩をとりあげてもすぐに分かるのですが、「非常・民」の外延を表現する呼称には、諸藩の「非常・民」を比較してみるとき、大きな矛盾が存在していることに気づかされます。同じ概念を使用していても、その意味するところはまったく異なっている場合が多々存在するのです。

次回で、長州藩の「非常・民」と、長州藩(山口県)の周辺地域(広島県・愛媛県・福岡県・島根県)の「非常・民」を比較検証してみましょう。「穢多」・「茶筅」・「宮番」等の呼称が、如何にアドホックな」(間に合わせ的な)言葉でしかないかが分かってきます。

「穢多」・「茶筅」・「宮番」という言葉を、「意味論」に立って、語源的な意味を追求することを放棄して、「記号論」に立って、「非常・民」を指す単なる記号として捉えるとき、「穢多」・「茶筅」・「宮番」という言葉が何を指しているかが明らかになってきます。

『部落学序説』は、「穢多」・「茶筅」・「宮番」という言葉の語源論的解釈を放棄して、近世幕藩体制下の統治システム、法システム、社会システムの枠組みの中にそれらを位置づけることで、その本質に迫ります。
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再生リスト:「国民の生活が第一」を支援する市民大集会 2012/9/1
http://www.youtube.com/playlist?list=PL2617FA4CFF36F3C5


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今日のイベント
原発関連:集会・イベント情報、Ustream番組表
http://2011shinsai.info/event/

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閑話休題

ツイッターの流行がわかる日刊ツイッターランキング 
http://twinavi.jp/news/daily?ref=top

今、話題の動画のランキング tweetmovie ツイートムービー 
http://tweetmovie.jp/

NAVERタブーまとめ

http://matome.naver.jp/topic/1LwS6







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<<日本 クローズアップ現代:国内の話題>
2 歴史を動かす原理はお金や財宝と家系を維持するための権威

2013/10/26 歴史を動かす原理はお金や財宝と家系を維持するための権威
クローズアップ現代 日本 国内問題 クロ現



服部順治 ‏@JunjiHattori 10月15日
なーんだ!ヤマトって小国連合で、一応、奈良県桜井市一帯をエルサレムのような聖地としただけなんだ。ただ連合の証として祭祀道具などを配り、各連合国では権威として利用した。でも白村江の戦いでヤマトは唐から来た藤原鎌足に破れ、日本が作られた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88%E7%8E%8B%E6%A8%A9


服部順治 ‏@JunjiHattori 10月15日
ひぇー仁徳天皇陵という呼び方自体、科学的に否定されてたんだ!それでも宮内庁は万世一系のため認めず。でも何で米に副葬品があるの?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BB%99%E9%99%B5%E5%8F%A4%E5%A2%B3
… 田布施システムの秘密:柳井市 茶臼山古墳から天皇の起源に迫る
http://youtu.be/iHndzQKEqL4




服部順治 ‏@JunjiHattori 10月15日
唐との戦いに破れ、日本が無傷な訳ないよなー!えっ?その前に大化の改新のテロを中大兄皇子(天智天皇)と藤原鎌足がやった?嘘っぽいなー!「白村江の戦い」
http://www.asuka-tobira.com/hakusonkou/hakusonkou.htm
大化の改新はなかった!?
https://www.youtube.com/watch?v=t3EqLsQLa6g




服部順治 ‏@JunjiHattori 10月20日
天皇が朝鮮百済を守るために初めて海外遠征して戦った白村江の戦い。中国地方には出雲を聖地エルサレムとした小国連合の中心があったが、桃太郎の唐と新羅の連合により中国の植民地支配され、ザビエルらは商人を使い毛利や織田信長ら戦国大名を支配した
http://www.i-unic.com/contents/boucho/ooutiitizuku/ooutiitizuku.html



HiroshiMorikawa 森川博史 ‏@buttakuncat 10月20日
@JunjiHattori 僕も勉強したくなった!


服部順治 ‏@JunjiHattori 10月20日
そう、日本の歴史を知る事で誰がこの世を支配している1%とはお金の元を支配しお金で動かしてることに気づきました!現場の郷土歴史資料館などで館長等に話を聞くのが一番。特に石城山の三国志城博物館や萩の萩史料館で田布施の秘密のヒントを得た
@buttakuncat 僕も勉強したくなった!


服部順治 ‏@JunjiHattori 10月22日
歴史を俯瞰すると、大化の改新から桃太郎によって天皇、仏教を使った中国間接統治で金銀は中国・朝鮮に奪われ、ザビエルからは西欧に奪われ、その金銀がなくなったら西欧に明治維新で国を乗っ取られ、以後西欧による銀行を主とした天皇一神教・官僚統治で、第2次大戦後は米国の銀行天皇創価官僚統治に


服部順治 ‏@JunjiHattori 10月22日
こんな風に意外と歴史を貫く原理って単純なんだなー、ってことがわかる。自分達の欲望を満たすために金銀財宝の奪い合いをしたり、自分達の座を絶対的な権威のある者とするために、天皇の座を乗っ取ったり、宗教を作り、その権威の笠をかぶり、民衆を惑わし、時には戦争を起こして戦わす。それが今も!




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服部順治@JunjiHattori
へぇーこんなことがわかるのか!越後はロシアから? 2013/9/5 うどんとそばの境界は弥生人と縄文人の民族の違い: youtu.be/fCa9sTQIvyk 食と県民性 www2k.biglobe.ne.jp/yano/food/tosa… 日本の古地図 bio.nagoya-u.ac.jp/~SugashimaMBL/

日本神話時代の旧国名地図

古事記に見る旧国名地図




服部順治@JunjiHattori
日本国誕生の秘密:邪馬台国、日本書記、古事記など偽りの記述に隠された真実とは?八切止夫氏の言うように、昔から日本には八つの王朝があった。そんな多民族国家の国、それが日本の本当の姿

www2.odn.ne.jp/~caj52560/niho… 八切語録

matome.naver.jp/odai/213545477


服部順治@JunjiHattori
やっぱ八切止夫氏の言う八つの王朝があった! 2013/6/25 各民族が跋扈し天皇の座を奪い合う 徐福が神武天皇か: youtu.be/4R42K0ngRi0
高松塚古墳
ameblo.jp/kiki0222/entry
… 徐福=神武
www2.ocn.ne.jp/~taiyoh/newpag



服部順治@JunjiHattori
なあーんだ、お濃って北条政子と同じ、サンカで、単に信長を操って天下取りをねらっていたのか!サルの秀吉も同じ。全国のサンカ(縄文時代からの八つの王朝)のネットワークを利用して影で天皇をも操る輩達「八切止夫」
rekishi.info/library/yagiri/ @Nobunaga0512

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家康サンカ説・八切史学概説・信長考・真書太閤記考、その他

http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/ieyasu2.htm
さて、それでは現状の「史観」に代わる新史観を構築するための手がかりは在るのだろうか。実は以下に紹介するが「八切史観」がまさに確立されて、存在しているのである。ただ日本の歴史学会が認めないで、無視しているだけである。

四百年以上も前にデカルトは言いました。「学ぶと言うことは疑義をもってそれを解く技術である。一切の先入観を棄て全てを疑い、そこに自己の存在を不可疑として確立。我れ思考し我れ疑うゆえに我れ在り」と、形而上学の課題を提起しました。

(八切史学概説)

八切説では、中国大陸よりの藤原氏が律令体制による日本全国統一がなされるまでの日本列島には、少なくとも八っの王朝が存在したと説きます。



1)奈良王朝===大和、河内
2)吉備王朝===中国系の(華夏)で岡山
3)白山王朝===裏日本北陸
4)東日流王朝==東北津軽
5)蘇我王朝===神奈川、曽我
6)淡海王朝===琵琶湖から中部地方にかけて
7)富士王朝===富士山の麓
8)阿蘇王朝
  隼人王朝===九州

【注】王朝といっても、大きな部落で、この部族の長が統治していて、人口は数万と思われる。そしてこれらは、さして争いもなく、日本列島に棲み分け、していたのである。

そしていわゆる大化改新の前は、この中で、蘇我王朝と白山王朝(いずれも新羅系の騎馬民族)が提携して主導権を握っていた。
だから、大化改新なるものは、百済系の奈良王朝(中大兄皇子)と中国系の吉備王朝(藤原鎌足)が連合して、蘇我(白山連合)の実権を打倒したクーデターということになる。
次に、白村江の戦いで、唐、新羅連合軍が、百済、日本連合軍(但し、ここに日本というのは誤解を招く。実質的にそれは百済系の日本内分国、植民地としての奈良王朝ということである。奈良王朝は母国百済存亡の危機にみまわれ、総力を挙げて母国救援の軍を出した)を壊滅させた後、いよいよ唐が日本占領に乗り込んで来るのであるが、唐の占領政策は、日本列島内で主導権争いを続けていた高句麗系、新羅系、百済系の対立抗争を巧く利用する。

即ち、百済系を重用し、これを主たる代理人として、日本の全国統一権力体系を作ること。それゆえ百済系をして、高句麗系、新羅系、古代海人族を駆逐させること。この辺の八切史観はきわめて示唆的である。

こうして唐の占領軍は日本原住民の大叛乱の抵抗に対して、百済系を手先として全国統一の律令体制を確立し、その支配のイデオロギーとして、彼らの仏教を利用する。七世紀末から八世紀初頭にかけての、三、四十年を準備期間として、日本はこのように一変したのだが、それから千二百年の間、現在に至るまで、天皇を頂点とする、この律令体制の大枠は維持されている。
そして文部省の学校歴史とされている。

八切説は、日本史を天武天皇以前と以後に大きく二分するのだが「日本奴隷史」を書いた阿部弘蔵氏も、八切説と根本的には一致している。この律令体制に於いて、貴族と賤民が区別される訳だが、ここにいう貴族の正体とは唐占領軍の幹部連中、百済の亡命王族、貴族のことを意味し、律令制の位階制では、五位以上が宮中に入れ、貴族としての身分と、経済的特権が保障されている。

賤民とは、江戸期の大名でも従五位下であり、彼ら貴族以外の全ての日本列島の原住民を指すのだが、その種類として

○日本列島に最も早く移住してきた西南系海人族(これが縄文時代、及びそれ
以前からの日本原住民である)
これは後に七福神信仰でまとまっていく。

○弥生時代になって、大陸、朝鮮からやって来た侵略者の為、マレーシア、雲南
方面からの水田稲作農耕の奴隷、農奴とされた人々。
これを八切説では古代海人系という。

○弥生時代に大陸の影響のもとで日本列島に始原の国家が出来てゆくが、これを
天の朝と名付ける。この天の朝は、古墳時代に朝鮮からやってきた騎馬民族
武内宿弥のために滅ぼされた。しかし、天の朝の残党は
日本各地に生き続けて、現代も多くいる。

○古墳時代の権力は朝鮮半島の三国、高句麗、百済、新羅の分国(植民地出先権力)
に他ならないが、律令体制下では百済系が唐系の権力に組み込まれ
高句麗系、新羅系は権力の座から追放され、蕃族として圧迫され、迫害
された。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
以上大別して、四つの種類の民族が賤民とされたわけである。つまり、庶子の民とされる現代我々が使う「我々庶民の生活は苦しい」等と使う庶民であり、平民とされた。その後の千二百年はこれら四種の賤民たちの下克上の時代と云いうるのであるがその中でも

イ)文治革命(西南系海人族の伊豆の北条氏と新羅、高句麗系騎馬民族で
  頼朝に代表される源氏の同盟によって、律令体制に挑戦して、鎌倉に
  幕府を立てる。しかし、北条政子は夫である頼朝を殺し、その子たちも 
  殺し、頼朝の血脈を断つ。ついで源氏の主立った者たち、三浦、梶原など
  も殺す。その為、生き残った源氏の残党は各地に分散し、隠れ住む。
  結局、源氏は政子に利用され、使い捨てにされた)

ロ)信長による革命(織田は平氏を名乗っているように、古代海人族の系統で
  信長は日本各地の同族達の解放を目指しただけで、日本全土の征服まで
  考えていなかったと思われる)

ハ)幕末維新革命(当初、これは神祇による、仏教打倒の革命として始まったが
  つまり、源氏と平氏の大同団結で革命が成就しかかったが、隼人族の末裔
  である、薩摩や長州のため失敗する。
この三つが特記される。

明治以降の日本の体制は、律令体制の土台の上に(あくまでも律令制の大枠は破壊されていない)欧米の資本主義制度を設営し、国益尊重を第一としたものである。それゆえ、現代の日本的資本主義の変革は、欧米系制度のみを目標にする訳にはゆかない。

その下にある律令制の土台、即ち官僚制をひっくり返さなければならない。そうするための不可欠の第一の前提、準備作業こそ、律令体制の産物としての記紀に始まる日本史の偽造の正体を暴露し、日本原住民の真実の歴史を
明らかにしてゆくことである。八切史学は、その為の口火を日本で始めて切ったわけである。
戦国時代から切り込み、そこから上代に遡り、現代にまで下がった。これが八切史観の概説なのである。

だから私の批判の矛先はアカデミイズムに胡座をかき、記紀を金科玉条としている歴史学会にどうしても向けざるを得ない。

以前、和歌森太郎、梅原猛、八切止夫の三氏で週間読売で座談会がありました。その時和歌森氏が梅原氏をつかまえて「俺はリースの直系の孫弟子にあたるぞ」と言ったら、梅原氏が畳に手を突いて最敬礼したといいます。

ルドウイッヒ・リースは日本の学校歴史を作った最高権威者で、その直系門下は虎の威をかる狐なのです。八切氏は面前なので冗談かおふざけかと思ったら、「いや、愕くなかれ二人とも真面目で本気なんです。故和歌森太郎が言いたかったのはリースの直系だと毛並みと言うか、その誇りなんですね。リースの直系の弟子というのが小川銀次郎、それから三上参次、その教え子が直系の弟子なんです。そして又その教え子の和歌森太郎はその孫弟子になる。サラブレットの血統書なみ・・・」と言っています。

医学界も白い巨塔ですが、こんな徒弟制度では、師と全く違う新説など出しようがないでしょう。
だから私学や民間の研究者の方が大胆な仮説をどんどん出していますが、反論もできずこれらは無視です。
そして重箱の隅を突っつくようなことばかりやっているのが現状である。

何しろ師は就職や昇進、儲けの大きい教科書編修員の斡旋など、強大な権力を握っているので、たいがいの人間はナエてしまいます。何と言っても”生きる”ということは大変ですから。
大学全般に言われていることですが、制度改革が急務です。余談ですが、先日、官学理系の助教授と話していたら
「○○さん、大学は解体ししなければダメです」と過激な発言です。「君たちが内部改革できないのか」と聞けば「やりたいが、やればクビが飛んで食えなくなる、それに危機意識なんか無い奴が多い」と言います。

現在、大前さんが提唱しているように、日本的システムの世界化が急務ですが、前記したように、21世紀を見据えた、大学改革も
含めたゼロベースでの大改革が必要です。中でも教育、特に世界史に合わせた日本史の見直しが大切です。
前半が神話で後半が歴史だという記紀が根本史料では日本史は霧の彼方です。

さて、あらゆる史書は政治的です。が、その内容は同質ではありません。何を以って史書となすべきかと言えば、日本側はさんざん改竄、偽造したけれど巧く偽造しきれなかった文書、即ち国家的な偽造でない<上記><宮下文書><秀真伝>等に史料価値があります。拙劣な偽造と言う意味では<旧事紀大成経>や<東日流三郡誌>もあります。

朝鮮側では形式化しすぎた嫌いはあるけれど<桓壇古記>系の一連の史書が在ります。その他<契丹文書>も在ります。
これらを総合すれば日本史の復元は可能です。しかしこれをやっても儲からないから誰もやりません。民間の鹿島昇氏、佐治芳彦氏、八切止夫氏ら極少数です以前飛鳥を発掘した時、大化改新のクーデターの舞台の板葺宮の跡が出てきました。
「古事記」「日本書紀」では火事で焼けたと在りますが、全くやけた形跡が無い。大化改新の舞台は板葺宮ではなく、浄御原宮ではなかったかという、誠にあやふやな話しがあります。
天皇陵の発掘をすれば、日本史の謎の部分が解明されるのだが、宮内庁は絶対に許可しない。
よく大和朝廷、と言いますが、この当時まさに日本に強大な独立国家が在ったような印象ですが、まだ大和だけの勢力で、色々な王朝があって群雄割拠であった。
それが遣隋使を送ったということは、大陸から攻められないため貢物を送り各王朝が臣従していたということです。

日本に対して決定的に大陸勢力が強くなるのは西暦663年以降で、唐の時代からです。遣隋使は朝鮮の王朝も送っていますし、岡山以西の各王朝も送っていたと考えられます。贈り物の多少によって、どちらの方が勢力が在るらしいとか、向こうから判定されて、金印や鉄剣を貰っていたと思われます。これが倭の五王と称する讃、珍、済、武までなのです。

【引用参考文献】
八切止夫著「天の日本古代史研究」「日本古代史」「サンカの歴史」
     「野史辞典」「庶民日本史辞典」 
九鬼文書・竹内文書・宮下文書・ウエツフミ・ホマツツタエ・ミカサキ・
物部四書・契丹日本史・桓檀古記・三国史記・三国遺事・隋書・史記・
高句麗国本記・魏書・唐書・遼史・金史・宋史・東日流外三郡誌・記紀・その他

☆☆☆☆☆八切史学の入門書☆☆☆☆☆

「八切史観」は始めから完成されていたものではありません。氏が48年間かけ、次々と考究して完成させたものです。
従って、従来の通説歴史とは全然相異するもので、類書等は他に存在しません。おそらく日本開闢以来の史観です。

三百数十冊の著書があり、考証物から、読みやすくと配慮したエンターティメントの物も在ります。しかし、どの著書も史、資料を集め
埋もれていた史料を発掘し、全国に延べ三百人もの人間を派遣し、土地の古老などの聞き取りもしたものです。

「点と線と言うが、点を見つけ、漢字の当て字にとらわれず、常識をもって納得がいくまで感を働かせ、理詰めで、何故に、何の目的で、誰が書いて誤魔化しているのかと、裏読みしていくのが八切史観、八切史学にかけ、考えに考えることが、私の全てであった」
と、氏は言っております。

だから、膨大な数の著作の中の一冊や二冊を読んでも、理解は無理です。真実の歴史を知りたい人のため、お節介かも知れませんが、読む順番を記して置きます。

(1)天の古代史研究      (1)八切裏がえ史
(2)日本古代史入門      (2)続・八切日本列島原住民史
(3)野史辞典 廉価版     (3)忍術論考
(4)庶民史辞典         (4)八切日本外史
(5)不可思議な国ジャポネ   (5)隠匿の日本史
(6)日本人の血脈        (6)特殊部落発生史 
(7)同和地域被差別の歴史  (7)武家意外史
(8)八切史観補遺        (8)幕末の群像
(9)サンカ生活体験記     (9)女達の動乱史   

以上の物を読んでから「サンカの歴史」を読めば、文部省学校歴史や通説、俗説がいかに出鱈目か良く理解できま

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八切史観その2、古代王朝考

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/yagirishikan/kodaiotyoco.html

「1053 古代史入門5」の「耶馬台国群は中国の出先機関」の下りを転載しておく。

古代史探求にとって邪魔というか、妙な変てこな引っ掛かりになるのは耶馬台国の存在だろう。昔は国といってもアフリカの部落なみの聚落で、魏志倭人伝の卑弥呼の君臨の状態の仰々しさから文字に書かれている故とし、さも大きな国だったような錯覚をしてはならない。自己に臣従して貢物をたえず献上しているのが、あんまりみすぼらしいのでは国威にかかわると、誇張して書かれたものと判断すべきで、それでなければ魏書の中に倭人伝は加えられていない筈である。書く者にとって、採録されれば名誉にもなるし銭にもなる。不採用では一文にもならぬ。それゆえの記述とみて、あまりこだわったり、 とらわれてはいけないと想う。問題にならぬ。  
 その記事よりも問題は、耶馬台国群と対立して戦っていた八幡国群である。「バハ ン」と呼ぶのが正しく、現在のマレーシアである。私なんかは学校では馬乗半島の当て字で教わり、ゆえに騎馬民族が此処から日本へ渡ってきたものかと、ずっと思い込 まされていたものである。さてバハンは英語読みで、ラテン語ではヤバアンなのである。それゆえ、 「日本人とはヤバアンから渡った民族」というので、ドイツでもアラブやインド各国 では、「ヤバーン」「ヤバアナ」とよび、ソ連でも「ヤポン」と今でも、どこでも呼 ばれているのである。  

 紀元前三世紀のアレキサンダー大王遠征で首都スサを陥落されたペルシアの民は、 みそぎをするヤサカ川からGIONの神を奉じ、スメラ山脈のならぶアブタビ海より、 当時は、「ガレリーナ」とよばれたバハンのニコパルへ、開拓奴隷として送られ、そ こから今の北ベトナム雲南へ送られる途中、黒潮暖流にうまく乗れたのは生魚をとって海水で味つけして噛り、日本列島の瀬戸内海を抜け阿波の鳴門から出てゆく前に、 陸へ這い上がったのが今の日本人とされる。
「聖戦」と、かつての大東亜戦争を呼んだのも、シンガポールよりニコパルを先に占領した為。そこから銀輪部隊でシンガポールの背後をついたからである。つまり後に は「八」とよばれる古代海人族はここよりの南方民族にあたる。彼らは魚をとり塩もつくるし、漂着地で農耕もする。

 ハングリーの時代である。バハン又はヤバアンとよばれる村落には、塩もあるし乾魚もあり、粟も収穫がしまってある。だが襲って奪うのには武器がいる。かつては喰 いつくだけの攻撃だったから、歯が唯一の武器で、捕虜は前歯を石で叩き折られて武 装解除し使役にされていた。しかし西南よりの渡来の聚落では、大きな貝を探してきて貝刀を作り、真竹をもち こんできて植えて増やし、弓矢を作って武器にしている。後に竹薮の多い所を八幡の 薮知らずというのもこれからで、ヤワタとは耶馬台国群と対立の八幡国群の名称から の伝承である。


 耶馬台国に連合している各村長というか国群のボスが、牙をむくみたいに前歯をつ きだし、 「貝刀に弓矢に、歯ではくいついてゆけんから、中国から何でも斬れるときく鉄の剣 を‥‥」 とヒミコのもとへ集まってきて、戦う武器援助を申しでてきた。今でいえば超能力の霊媒で、占い専門のヒミコにしても、まさかお祈りでは中国の鉄剣はアラビアの魔法 のランプはないから無理。そこで北東に風がふき潮流が流れる時を見計って使者をたて、泣きつくようにして、 「武器か、さもなくば食料のどちらを供与されたし」と入手したい旨を手真似で相手に伝えさせた。 「食料を運ぶのには多くの船がいる。臣従するならば我が国より武器援助のほうもしようぞ」 となった。  

 もちろんヒミコが美女だったら、まず彼女を武器援助の見返りに求めたかも知れぬ。 しかし、そうしなかったのは、使者の話でよくよくのブスだと判っていたせいかも知れぬ。だから鉄剣は木箱一つぐらいで貸与されなかったらしいが、それまでは喰いつくた めに突撃して近寄る前に弓矢で射られ動けなかったところを、鋭利な貝刀で血の脈を斬られ殺されていた耶馬台国群のボスたちは、ひとふりずつでも鉄の剣を貰うと旱天の慈雨のごとく感激した。

 この貝刀は八幡国群だけで、ペルシャやアラブでは多く作られ戦闘に使用されていたから、今でも切れ味の良さを貝のマークにした安全剃刀の刃も輸入されて出廻っている。サンカも焼印を五つ、柄につけた山刀をウメ貝とよぶ。しかし薄い貝刀と分厚い鉄剣では勝負にならず、八幡国群は一つずつ略奪され、せっかく貯えた食料も奪われるようになった。そればかりでなく黒潮で流されてくる途中、インドの背丈1メートル余りのピグミ ーが逃げてくるのを助けてきていたから、貯蔵食料の他にインドのピグミーをも捕虜 としヒミコの許へ伴ってつれ戻ってきた。恐らく助けられた八幡国群のために彼らピ グミーも戦ったのだろう。当時はビデオも車もなかったから、武器援助の見返り進貢として背丈は小人だが顔が小さく五体満足の珍しい生物として送った。魏志倭人伝に「生口」として出ているのがこれである。現代でもカルカッタやボンベイへ行けば、幼い少女みたいのが、客とみるとパアッ と前をまくって黒々したものを見せ、一人前の女であると安心させるピグミー達が屯 している。つまりそうした倭人の群れを貢進していたので、向こうでは「倭人国」とよんだものらしい。でなければ中国人に比べて耶馬台国群より使者として行ったものが、ぐっと背が低 かったわけでもなかろうから、頭ごなしに倭人とか倭国とか向こうが決めつけて呼ぶ 筈もないのである。

 さて、鉄剣が耶馬台国群に武器援助される迄は、八幡国群の方が弓矢と貝刀で優勢 で、食糧を略奪にくる耶馬台の各聚落の者を撃退していたのが、鉄武器をもってこられてはかなわぬ。貝刀や弓矢は一撃のもとに叩き折られ、食糧だけでなく聚落の男女が倭人と共に連行されてゆき、奴隷として彼らの為に食糧作りをさせられた。古代史の耶馬台国は奴隷国家の元祖といえる。そして日本列島には鉄資源が埋蔵されていないことが判ったので向こうの屑鉄を送りこんできて、此方の山金と同量で交換し、その屑鉄を精練する多治比人を伴い南西の潮流で日本へ入ってきたのが、ヤマトタケルを毒害し崇神王朝を倒した日本名竹内宿弥らその人である。藤原鎌足と改名した郭務ソウのように、前名は判っていないが、彼が北陸及び東北へ巡って歩いたのは、鉄資源探しで自給自足の為らしく、山師の元祖ともいえる。日本書紀では西暦95年のことだが、その五年前の景行二十年には「二月四日皇女五百 野姫をして、天照大神を祀らしめ」の記載がある。既にその一世紀前に天照大神を伊勢大神宮として倭姫命に祀らしめ、89年前に天照大神は封じ込めで祟りをせぬよう にと、今の奈良磯城郡織田に、とうにもはや祀られている。

 倭つまり中国からみて日本原住民系の倭姫を、祟りをせぬよう封じ込めていたというのは、日本書紀では神話に入る時代にもう原住系の八の女将であった大神は謀殺されて、化けて出てこぬように奈良に葬られていた事になる。今でも伊勢大祭は中国道教によって取りおこなわれているから、中国大陸の派遣勢力が初めから日本原住民の大女将を葬ったものかとも推理される。

 が資源も何もない土地なので三韓の奪略や進攻にまかせて竹内宿弥の頃までは放りっぱなしていたのかも知れぬ。日本書紀とは違うが、耶馬台国群に鉄剣をわたしていた時より、遥か以前らしい。もちろん東北といっても古い崇神王朝のごときは東北三省の沿海州や羅津からの日本海よりの来攻ゆえ、後の白系ロシア人も入ってきた。だから、新潟や秋田にはその落し子が多く今も肌の白い新潟美人や秋田美人が混血で生まれてくるのだが、中国本土となると違うらしい。

 つまり騎馬民族が、都井岬の野生馬なみのロバを伴って日本海を渡ってくる前から、 彼らは鴨緑江経由でなく親潮の潮流によって、日本列島へ前から渡来していたものと みられる。 「何ものがおわしますかは知らねども、ただ有難さに涙こぼるる」と五十鈴川畔で江戸時代によまれた句が有名である。つまり今から三世紀前にあってさえ、天照大神さまの御正体は判っていなくて、何がおわすのか不明だった、ということへの裏書きにもなるのではあるまいか。

 それに大神にお仕えする皇女が、名前からして日本原住系とみられる夷のつく御方だということは、親魏政権の耶馬台国のヒミコではない。滅ぼされた八幡国群の女王さまという事になる。耶馬台国群が中国より鉄剣の武器援助を得て、食いつくだけしか武器のなかった彼らは強力になった。ゆえ、それまでは食糧を充分に収穫し勢力をはっていたものの、中国輸入の鉄剣によって滅ぼされ殺された女王であったとみるべきではないか。天変地異の災難は、みな女王の怨念とみて、祟りよけの封じ込めに、大和の磯に宮をたて、やがて夷瀬[伊勢]の夷須津川[五十鈴川]畔へ移したらしい。

 だから八の民らが、天照大神は平政子さまであると思いこみ、またそう信じ込んで、 おかげ詣りと称して、日蔭の身の立場から一日も早く助け出してもらいたいと各地より群れをなしたのだ。 そこで「四つ」の騎馬民族系の子孫も、お伊勢詣りの近くの二見が浦に「松下神社」 をたて、「蘇民将来之子孫也」といった平泉や八坂さんのような、六角棒の身分証明書は出さずだが、「蘇民将来、来福之符」という紙の御幣をくばっている。現在でも伊勢松坂市内の旧家には入口にみな掲げてある。官製歴史では歴史百科辞典の類にも、 これを包み隠してしまい、 「昔、疫病が流行した時、蘇民と将来の兄弟[蘇民将来(兄)と巨丹将来(弟)?] が厄よけに薬草をとって治して廻った事から、疫病よけに兄弟の名を軒ごとに貼りだ して、まじないとする」などと、まったく出鱈目が書かれている。 「蘇民」とは後の源氏の祖先にもあたる蘇我入鹿や蝦夷[毛人」の氏人のことで「四 つ」の騎馬系末孫である。 「東海道膝栗毛」によって、「四つ」も「八つ」と力を合せ世直しをせねばならぬと 黄表紙本で一般に広められた宣伝から、「八つ」の者も松下神社に、ついでに参拝するようになる者が増えだした。

 こうした土地柄ゆえ、伊勢松坂からは「古事記伝」がうまれたり、本居宣長の死後 も太平の許へ、伴信友らも弟子として集まってきて、はじめ明治新政府の太政官の上の神祇省のもとをも作った。 この場合の祇とは祇園さんの祇で、宮とか八とよばれる意味でもあり、神はカラ [韓?]神で「四つ」。 しかし新政府は「四つ」と「八つ」の大衆動員を、巧くして世替わりさせたからして、太政官の上に初めは神祇省を設けたわけ。廃仏毀釈の世となって、それまでは寺の私有財産として、かつて寄進された奴婢の人別帳をもとに、雪どけして人買いがく ると、馬なみに「青」とよんでいた彼らの子女を売っては寺の収入としていたから、 それゆえ「青春」の言葉も残るが、今は美化されている。

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 [目次]

No.1 純正日本史案内

第一部
 禁止眼的な教科書騒ぎ
 何故に歴史を知りたがるか
 受難の日本書紀
 復活日本書紀の捨て石
 後西さま著 日本書紀
 記紀離れせねば判らない
 八切史観の古代史
 耶馬台国群は中国の出先機関

第二部
 歴史まがいに注意
 既成古代史の真相
 これまでの部落史
 古代史は穢多非人の創世記
 紺屋高尾浪花節考
 エタは四でも八でもなくエの民
 各地別の良賎制度
 「神皇紀」否定 甲斐宮下文書
 山霊嵩敬の古俗
 吉田松陰 将門記

No.2

古松軒「人馬の市」
義理と人情とは
庶民は占領下の混血児の子孫奴隷
信長は部落解放者
古代史解明の必要
日本古代史入門参考書

No.3

出雲王朝高天原
聖徳太子と出雲の聖徳王
高天原は無数にある
古事記は江戸期の改作
古事記は初めは原住民史
後記

 No.1 純正日本史案内

 「三つ子の魂、百まで」というが、学校で教わった歴史は、ジンムスイゼイと、暗記ものだったゆえ、私でさえ未だに頭の中に引っ掛かっている。どうしても先入観は強いものである。そこへもってきて、前人未踏の八切史観では戸惑われるかも知れぬと案じ、順を追って判りやすく解明してゆくため、前もって予告編みたいにアウトラインを古代史入門の一般的手引きにしておく。前書きをしてはやや重複をするが、いきなりぶつけるよりは読みやすい。それに、どうしても古代史に入ってゆくには、タブー視されている部落史とは切っても切れぬ問題がある。

 なにしろ、西暦663年に郭ムソウ[漢字が出ないのでカタカナとする]が進駐してきて「藤原鎌足」と日本名になり、唐の大宝律令をそのままに輸入したのは「天の
日本古代史研究」に詳しいが、天孫と称した郭さんの方は良で、それまでの縄文日本人原住民はみな賎にされた。二大別とされた賎とは太平洋沿岸に漂着の「八の者」。次に裏日本から親潮寒流で能登や新潟へ入って来たのが、獣の「四つ足」から「四つ」と呼ばれる。「源平藤橘」と四大別するが、藤は唐で、郭さんの一万二千のグループ。橘は、その唐を中国大陸で滅ぼし取って代わった契丹系ゆえ、大陸人でも唐でないゆえ豪く見られず、被差別とされた。

 彼ら[契丹系]は天神信仰だが、源は元ゆえ白山さま信仰。平は今のペルシャと同じで、赤旗をふり祇園、八坂信仰で、宮島も紅殻の赤塗りである。藤は墨染めの衣を着た坊主が宣教師として先に来たので、「黒住教」さえ残っていて、藤は唐で黒色。しかし、この四種の姓別は、最低四種以上の複合民族をさすが、勝てば官軍、負ければ賊で賎、黒の他は次々と体制の変わるたびに限定居附部落へと追い込み。郭将軍に滅ぼされたものの、奈良王朝と栄え、桓武帝より「良」となった百済系は黄色である。

 しかし、エタ非人と一つにしたり又分類し、エツタ島など海軍にそっくり召し上げられると、「江田島」と恰好よくなるのは、そうしたゲットーへ次々と敗戦捕虜が入れられ混同している為だが、四大別ではなく、太古日本人はエケセテネが姓の上につくところの「雑色」の人々だろう。「皮剥ぎも皮細工も四つと呼ばれる騎馬民族。判りやすく言えば、白筋の馬方は源氏だが、駕かき川越人足や雲助は平家で、「八つ」とよぶ赤筋の拝火宗徒。トウナイは『唐無い』で、契丹系の部落民」と、はっきり種族別が分けられるが、喜田貞吉は他国の捕虜とか社会の落伍者と決めつけるが、藤原王朝時代に征伐された日本列島原住民。足利時代は散所奉行が新設されて、南朝に味方した者らの反体制子孫を収容。
これは「庶民日本史辞典」「野史辞典」「日本部落史料」で明白にされている。

 戦国時代の始めの応仁の乱に部落の者等は山狩りで集められてきて足軽とよばれ楯の代わりにしっ払っさせられ、生き残れたのが戦国武者や武将になれたが、世が泰平になると下克上は明治維新までのびた。が、五代徳川綱吉が韓国済州島系で神仏混合令の法令を下し、反仏派の原住民は宗門改めの寺社奉行によって、浄土(上等)でない汚れた下等人だと差別され圧迫された。太田亮の「姓氏辞典」では加賀に入った藤原氏と美化しているが、仏教は一向宗が入っただけ。ナポレオンが勲章を発明するまで「賜姓」といって、藤原姓をエゾや反乱軍の純友にも与えた。

 つまり実際は産所は足利幕府散所奉行で、反体制だった南朝方子孫を捕え収容したのが、同じ呼び方ゆえ産所と間違えられて伝わる。山所ともなり「山しょ太夫」や「さんしょう魚」ともなる。被差別の習慣が広まってしまった為でもあるが、喜田貞吉説も産所と文字通りにとって誤っている。なにしろ唐語のブシン(不信)つまり信用できぬ輩とし、召し使われ、それが武力をもってついに公家を押さえつけ、公家対地下といったのが実力で逆転。下克上の時代と呼ばれたのが文治革命であったり、戦国時代以降となると、かつては非人とか八部とよばれた蜂須賀小六も阿波の大名となる。傭兵が武力でクーデターを起し主権を奪ったのである。関白の一条兼良は足利末期の藤原系で仏派ゆえ、寺を荒す彼らを悪党と呼んでいる。

 さて、藤原王朝は天孫民族なりというが、どうもこれは妄説である。藤原基経に廃帝にされた陽成さまの一族一門が山へ逃げ込み、木地師となって「山がつ」になりたまいし事実もあるが、高貴の出で良であると証明したくて、自分らを放逐した藤の姓を勿体ぶって付けている。それゆえ、その姓を本物と思われてしまい誤られている。日本には正しい歴史なんかないのだからと、他国のごとき歴史学博士の称号は不可と明治十八年の博士号設定の時リースに言われたごとく、恰好よく美化されているだけで、何も判っていない。

 部落とは騎馬民族が日本列島へ渡来時に古代海人族を収容し、藤原時代には良でない人口九割の賎の民をとじこめ、反仏派の北条期には源氏の「四つ」をはじめ、赤系でない者を追い込んだ。足利幕府になると今度は逆で、赤系の祇の「八つ」も反体制の南朝方と、橋のない川へ入れられたのが実際の処で、喜田博士は日本部落史研究の第一人者とされているが、何も全然ご存じない。まだ曖昧模糊の喜田史観の間違いだらけよりも、明石書店刊行の高柳金芳の「江戸時代被差別分層の生活史」の方が正確である。そこから逆にさかのぼってゆけば、九対一ぐらいの割合だった征服者と被征服者の悲劇。つまり吾々の先祖の虐げられてきた真相が判り得るといえる。「良い事を言われると、人は悪い気がしない」という人情の機微を巧く利用して、なんでも美化してしまい、敗戦民族を「国津神」などとしてしまうからして、それを文字通りで読まされては、喜田先生でもわけが判らなくなる。仕方がないというか、まぁ当たり前みたいになっている。

 さて拝火宗で「祇」とよばれる「八」は、西南渡来系の日本原住民だし、「四つ」は騎馬民族で東北沿海州から日本海を親潮で流されてきた北方民族であるが、治安維持のため徳川時代には施政方針を「四つ」と「八つ」を交互にくりこんで、互いに牽制しあわせて被差別。藤ナイ[内?]は十世紀流入の契丹系をさす。 契丹は唐を滅ぼしてとって換った国ゆえ、大陸系でも御所からは賎民視されていたのである。だが、太平洋側に黒潮で這い上がった「八つ」は八母音の原住民で、農耕漁業製塩をしたから食用課役奴隷にされた。が、「四つ」は沿海州北鮮系で遊牧民族ゆえ、討伐されて捕えられる飼戸(しこ)。

 石岡の部落にしても、夷岡とよばれショウモンと蔑まれ、区別されていたというが、契丹系で、天慶の乱とされた時の者らの押し込み限定地。だが「エの民」つまり江戸の以北はみな部落ゆえ、一緒くたにされて被差別され、少しでも反抗すれば徹底的にこらしめて、オカミの言いなりになる奴隷人民に仕立ててしまった。だから藤原王朝の鉄武器による権力はえらいものであった。「その筋のお達しにより喫煙は」と今も映画館にでている。消防とか警察といった危険を伴う仕事は、「千金の子は盗賊に死せず」とか「良い人は兵にならぬ」といった唐の教え通り藤原氏が日本へ来ても農耕をせぬ飼戸奴隷に施行。なお足利時代に散所奉行が旧南朝の子孫を部落の散所民にしたのが知られていないから、私の「特殊部落発生史」に順に詳しく書いておいた。

 千の宗易こと俗に言う利休の自決後、その木像を八付にかけた後、その一味のササラ衆を部落に追い込んだのが茶せん部落で、華やかな茶の湯とは裏はら。 また、昔はハングリースポーツ興行だった角力は「オドマ勧進」[五木の子守り歌で有名な?]の、勧進元で取り締まっては八百長で儲けていた。儲けるといえば、一番新しい宗派では、既存の旦那などいないからして、一向宗は部落に目をつけた。悪人でも念仏を唱えれば善人に生まれ変わる。部落民でも信心すれば常人に生まれてくるのだと、真言宗の本願侍説教僧が信徒にして廻ったので、寺人別の数は増えた。 だが、彼らの殆どはあくまで反仏であった。僧へ絶対に近寄らなかった原住民の全体は、この百倍以上が実際はいた。今でも旧部落に金ピカの立派な仏壇があるのは、一向宗が利鞘をとって売りつけていた名残りである。


 さて、大正八年秋に25銭(現在なら五百円)にて出された一号は、最後の六頁が発禁となったと喜田先生は最後だけ削除し、奥付を大正九年一月一日にし、四倍に値上げ刊行し、第六版から十二版まで世に送り出したのは、金集めのための作為なのかとも感じられる。なにしろ、喜田貞吉博士は、その大正八年には南北朝両統問題でリース直系の三上三次らに睨まれ国定教科書編集官を追われ、やむなく自費で「民族と歴史」の第一号を出した時の事だから、どうも資金ぐりで、発禁も値上げ操作のために、オカミに発禁にしてもらった裏取引とも考えられる。日本では歴史屋は真実追求よりも、どうも歴史をくいものにし、儲けたがる傾向が
あるみたいゆえでである。

 部落問題は関西では捕虜奴隷として連行された末裔ゆえ、被差別されて地域的だった。全国的に「解放」の美名で広められたのは、神武陵の守戸の子孫の丑松が教壇で告白する島崎藤村の「破戒」、それとこの「民族と歴史」が、まったく何も知らぬ人々にまで、部落について初めて知らされる結果となり、一般庶民が驚き仰天した。その結果の名残りが、住井すゑの「橋のない川」である。せっかく親や祖父母も絶対に口にしないことを自分らもその出身者なのを本で知らされ、そこでまだ残っている部落に対し本当の事は何も知らず、子供などは苛める対象にまでしてのけた。「天は人の上に人を作らず」といわれるが、日本では「人の下に人」を作ってきたのである。「天の古代史研究」[八切史の著作]さえ読めば、まったく事実はあべこべで、渡来した鉄剣部族が、それまでの先住縄文日本人を征服して奴隷にし差別歴史が、日本の弥生時代だとはよく判る。が売れて広まってしまったこれらの本のため、大正14年12月13日の世良田事件となった。上州新田世良田の庄徳川に残っていた23戸の部落へ、近在の3800人が押し寄せ、村田銃をうちかけ火をつけて乱入し、片っ端から打ち毀しにかかり殺傷沙汰を起し徳川の部落は大騒動となった。というのは世良田二郎三郎の出生地で徳川の地名ととった徳川家康さまの由緒ある地とされ、縁切り寺があり崇拝されていた土地。特殊部落とはいえ長吏岩佐満次郎は、新田義貞の後裔として、「新田男爵」としてロンドンへ行っていた。だが、当時、「華族は皇室の藩屏にして」という世の中ゆえ華族会長となった徳川公爵は青山堂より、「徳川家康は松平元康の改名せしものなり」という故山岡荘八が種本にした一冊を桐箱入りで配布(「松平記」として日本シェル出版4800円)。そこで、周辺近郊の者らが、世良田の徳川にはこれまで冥加米を散々とられていた三百年の恨みがあると押しかけたが、地元の群馬警察でも宮内庁よりの達しで掠奪暴行を初めは見てみぬふりをした。

 そこで鬼石や近在の部落から応援が五千人も集まってきて逆包囲し、乱暴する百姓を追い払った。これがもとで全国水平社の結成となったのである。なにしろ民友社の徳富蘇峯のところで出版された「史疑 徳川家康」は華族会で買上げ絶版とされていたが、筆写で広まっていた。まだ部落に残っている連中も、後に政治圧力団体になるくらいの勢力をもって対抗していたからである。

 しかし当時の学士会は華族の下に入っていたし、各歴史屋は、それぞれ華族さまのお出入りだったため、渡辺世祐博士も月々のお手当を貰っているゆえ、野盗ではなく由緒正しき家柄と「蜂須賀小六」なる伝記本もだした。明治の贋系図作りは彼らで、みな金を貰って義理を立て、「家康は部落出身」とする村岡の本より五年後の出版なのに、遡った奥付年月にした「松平記」を確定史料に、資金を援助されていたゆえ、東大史学会は確定一級史料に認定してしまった。なにしろ、彼ら明治史学会の人々は、みな口を揃えて、「明治史学は南朝方の顕彰にある」と称したが、長慶天皇を明白にした事と楠木正成の銅像をたてたくらいで、足利時代にできた散所奉行によって足利創業の叛徒として特殊部落へ収容された南朝の末孫は、その侭で解明できずだった。脇屋・湯浅・新田の地名が特殊部落にどこも多い。

 さて明治までに刊行されたのは足利時代の「夷朗詠集」からはじまって「傀儡記」、遊行衆説教師達の「鉢屋由来記」から「賎者考」「見た京物語」「京四条極楽院空也堂文書」「菅茶山備後史料」「塩尻百巻」、そして明治以降となると「日本奴隷史」に私の「野史辞典」「庶民日本史辞典」、菊池山哉の「賎とされし先住民族‥‥日本部落史料」「長吏部落→日本の特殊部落」だけが主らしい。しかし、国定教科書編集委員だった喜田貞吉だけが学会では評価され、部落者の著としては二十歳前後の若さで柳瀬勁介が書き残した処の「特殊部落一千年史」や「エタ及び非人・社会外の人」 明治時代までは口伝えに残っていたユーカラの殆どを書かせ、その中で皇道史観に合致するものだけを己が名で発表し、アイヌ研究の権威となった金田一京助けに対し、アイヌの遺産を返すよう、その伜の金田一春彦に何度も求めたのが、新泉社よりユーカラの残りを訳し、三部作を出しているポン・フチである。

 はじめ東大出の教授の肩書きの喜田を信用し、研究を発表してやると甘言でそそのかされ、三脚カメラを担ぎ日本全国の特殊部落研究をした菊池山哉は、いくら草稿や写真を送っても自分の名は全く出してくれぬからと、東京史談会を作ったのである。 さて「日本部落史料」の中に掲出してあるが、昔の荒川三河島は、川の中州の特殊部落地で、戦国時代の村山七党の流れを汲む武蔵党がいた。小田原征伐後関東に領地替えになると江戸城に入り、徳川家康は彼らを新規にみな召し抱えた。これが島をとって「三河譜代」となる。<野史辞典>に、三河[出身の]の旗本は二名とはそれゆえである。

 今は一向一揆とされているが、三河人は他所者の世良田の二郎三郎こと家康を入れまいと国中で迎え討ち、駿河や三重、浜松や渥美らの家康軍と戦った時、この時裏切って味方したのは彼ら二人で恩賞の為である。他の三河人は商人になったから、「三河屋いなりに犬のくそ」とまでいわれる。岡崎城も御三家どころか、僅か五万石の水野の城。渥美半島出の大久保彦左が書いたものとは思えぬ「三河物語」や、贋系図作りの沢田源内の「後三河風土記」が広まったのも、三河旗本が生国尾張三河と系図をみな作らせるのが流行したのに合わされた。だから今も誤られている。

 さて部落出身者は立身すると同じ出の者を忌み嫌う。旗本になった連中は後から採用され三十人扶持程度の奉行所同心や材木座火盗同心の連中へ、「不浄役人め」とか、「溝さらえ」と、はっきり差別。この名残りか現代でも特殊部落出身の大製菓や大製陶会社では、興信所を使い部落出身者の就職差別し不採用にする。

 明治新政府が徳川家へ、「汝その祖宗の地へ戻るべし」と、駿河七十万石へ移封したのは、家康が徳川の出だが浜松の七変化部落に売られてきて育ったのを、薩長では知っていたからである。そこで勝海舟ら旧幕臣が、「人の一生は重き荷を背負いて‥‥」といった家康遺訓を作っては各社寺へ奉納し、家康神話を作り上げ、徳川家達を公爵にし華族会長にまでした。

 それを尾張徳川家で、旧幕臣松田の贋作と暴露。尾張は宗春の時に、松平蔵人元康と権現さまは別人で、両者が戦った古戦場が、石が瀬その他に現存すると、章善院目録の中に発表。宗春は素行不良とされ閉門後殺され、[尾張徳川家の?]家康の血統は断絶。その後は、徳川吉宗の孫の田安や一橋から交互に、尾張藩主に入っていたのへの怨みであろう。

 日本人の九割を占める庶民とは、江戸期亨保時代に部落をば脱出し、寺人別を銀や銭で購入した「八つ」の者や、「四つ」の連中なのに、最後まで残ったのを部落者扱いで人非人して非人と誤る。破戒僧とか心中し損ないを非人頭へ生涯奴隷として、着のみ着た侭で払い下げ。ボロを着て引き廻しの罪人について廻る姿を映画でも見ての連想らしい。彼らの人口が増加というが、明治四年の壬申戸籍に申告したのは本願寺派に帰依した者だけ。無申告の方が遥かに多くて百倍もいた。

 明治革命には、ヤジの「八」やウマの「四つ」を動員したものの、あまりに日本原住民の部落民が多く、「棄民政策」と称して北海道樺太やフィリピンやブラジルへ彼らを送り出して口減らしをした。「サンダカン八番館」とか女不足のアメリカの「ガールハウス」へ次々と島原娘が身売りしていた。が、まだ思いのほかに原住民が多いのがわかり狼狽。治安維持のため男は島流しみたいに労働者としてベンゲネットやボルネオ移民。女は性業婦とし輸出して外貨を稼がせ国益とした政策である。国内で虐殺する代りに「生かして使え国のため」と居てもらいたくない原住民の追い出し策だった。

 江戸時代は大蔵省が国民皆税で片っ端から搾りとるような時代はかつてなかったから、戸籍は坊さんの私有財産を守る為の寺人別帳が主であり、町人別は銭さえ包めばすぐにも認めたから、紀州湯浅の居附地で、死なせてもよい奴隷水夫とし荒天の海へ出す蜜柑船にのせられた文左衛門らだけが沈没しなかったため、船底に繋がれていた者共は命拾い。漂着した相州の浜で蜜柑を売り江戸へ出ると、同じ山者ゆえ各地の材木を後払いで集めたのが大火で大儲け。銭を出し町人別や寺人別も購い、ついでに限定収容で残っている湯浅の者もみな呼び寄せたから、「東京都江東区史」には、「別所文左エ門」の名前で、はっきり今も残っているのである[紀国屋文左衛門の事か]。 こうした複合民族の分類がまったく判らずじまいで、七世紀の良賎の大宝律令の侭で解明しようとするから全く学校歴史は、「本当の事を言えば身も蓋もない」こととなってしまう。

 彼ら歴史家は。崇神王朝系騎馬民族の「四つ」とよばれるのと、黒潮渡来の古代海人族の「八つ」との区別もできずに、十世紀に夥しく日本海を渡ってきた唐を滅ぼして取って代わった契丹系が「唐ない」ゆえに「十ない」であろうと、指が八本との妄説まで立てる。江戸時代の戯作者でさえも、「和藤内」とし国姓爺合戦に、清に滅ぼされた明の彼が台湾を基地に本国へ挑戦の話を書いているのに、喜田貞吉らは気づかず、「特殊部落とは社会の落伍者と三韓征伐の時の捕虜」としてしまう。三韓征伐はまったく逆で、馬韓弁韓辰韓が日本列島を三分しコロニーの時代。特殊部落は西暦663年に世変わりした時に、仏教の宣教師坊主を真っ先に送り込み徹底的に教化しようとしたのに、あくまで抵抗した連中が又しても収容されたのがゲットーの居附部落と知らぬらしい。

 続いて藤原王朝が中華の風俗に馴染もうとせぬ日本原住民の、降参し奴隷にならぬ徒輩を橋のない川へ追いたて貝を食わせ、尽きると自滅させた。日本後紀や続日本紀に記録されている。「八つ」はマレーシア語の黒潮渡来族ゆえ農耕漁業製塩をなし、食料増産奴隷とされ、東海地方三河の額田の王(きみ)に率いられ、中大兄の韓国系に食料確保の政策上から子を生まされたり、大海人皇子には政略結婚で妃にされたが、終りには岡山のゲットーへ収容、奴可郡の地名を今も残す。「四つ」は崇神御孫景行帝が「八つ」の八坂姫に生ませた日本武尊の死からは、共に反体制視される。 彼らは韓国勢力大陸勢力に追われて山がつ餌取りと差別とされ、特殊部落民とされてゆく。

 恐れ多くも陽成帝でさえ藤原基経に追われ山へ逃げて木地師とならせたまう。が、11世紀は青眼の賊船が次々と来襲。山から原住民を人間狩りしてきて出征させたが、戻ってから叛かぬよう片刃の刀をもたせた。一を唐語で「イ」と呼ぶから「刀イ(伊)の乱」。この時、頼光四天王として坂田金時らも現れるが、唐語のブシン(不信)から出たのが武士ゆえ、従五位止りで昇殿は不許。ようやく文治革命で夷津[伊豆]の夷頭[伊東]の北条政子の世になると京を征伐し、尊い方を隠岐や土佐へ流罪にし、御所への目付に六波羅探題をおくが、世変わりして足利期になると新しく散所奉行ができ、北条氏の残党と共に、足利創業時に邪魔した南朝方の子孫をも特殊部落にしたから地名にも残る。 「天の古代史」「庶民日本史辞典」「野史辞典」の三冊をぜひとも順に読んで散所を産所と誤らぬ為にも真相を把握してほしい。

 また、イザナギ・イザナミ二神が天の浮橋で互いにみそめられたまい、「エな男」「エな女」と呼び合われた故事で、エ民の多い処をエ多と呼ぶのも語源。 また、騎馬民族の蘇我の末裔が「吾こそミナモトの民」と呼ばわっていたのが、白旗の源氏である。先住民族の「セン」を「千」に換えて「千軒」と、ゲットーだった地域の押し込め居附地を呼ぶのとこれまた同じである。俗にいう処の非人とは騎馬民族の末裔。農耕や漁業製塩をなす「塩尻」とよばれる「八つ」の民が働くのに、彼ら「四つ」の遊牧民族は違うからとの命令で藤原体制に、北方に追われキタともいう。「ヤジ・ウマ」と庶民をよぶのは、「八つ」と「四つ」を合せた呼称だが、山野に昔から自生の草木や土や石をきりだしたり、人や獣を扱うのが原住系の限定職種。それを加工するのが良の舶来職だった。 「除地」として大名領でも天領でも年貢なしだったのが、明治新政府が収穫物にのみ対しではなく土地を私有化にし地租課税。よって河岸や山頂を当てがわれた部落は納税のために貧窮化した。 八母音を使う名古屋弁のような太平洋岸から日本列島に這い上がって住み着いたのが「八つ」の民。今もイランのヤスドに祀られている天地水火を拝む祭壇があるゆえ、ヤー公とかヤジとよぶ。

 裏日本へベーリング寒流で入ってきたのが騎馬民族で、「四つ」とよぶゆえ、今いう白系ロシア人も入っていたので、新潟や秋田には白人の肌を今も伝える色白な美人も産出するのである。 治安維持のため江戸期になっても、夷をもって夷を制すで、「八つ」と「四つ」は交互に、互いに監視し牽制しあうように「四つ」の弾左ヱ門家の下に、「八つ」の車善七。その下に四谷者、又その下が谷津もの。とされていたのを、例の「ヤジキタ」もので、共に仲良くしあって、世直しをと煽動された。 その結果、幕末からはポルノでもない東海道膝栗毛の貸本に影響されキタの騎馬系の末孫の馬方が、「八つ」の大井川の赤フン[褌]の川越人足のために「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と白フン[褌]を振りつつ、向こうでは酒手をはずむようにと旅人に馬子唄ですすめもしたものである。伊勢神宮を北条政子と思い込んでいた大衆へ、お札ふりの「ええじゃないか」の騒ぎといい、部落から脱出してきたものの裸一貫で馬方や車力人足をしていたのを、一つに結びつけさせての大衆動員の策は討幕の大動力となった。頭が良い人が昔もいたものであると感心させられる。 ----己が家系のルーツ調べに学校歴史では納得できず、あれこれ本を読まれる人が多い。人情として美化したがるのなら別だが、もし真実をと想うなら道標は八切史観だけだろう。

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サンカ生活体験記

http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/sankaseikatu.htm


新羅系を白木作りの社とし隷属した高麗系をコマ犬として入口におく神社はカラ神様。日本の庶民の殆どを占める平民つまり平氏は、スメラ山脈のあるアブダビ海より、首都スサよりヤサカ河の上のGIONを奉じて終結させられ、ヤバンことマレーシアのニコパルへ、MIKOTOと古代アラブ語でよぶ耕作奴隷に送られ途中で黒潮に逃げたのが、古平氏の夷津[伊豆]の夷頭[伊東]の北条一族。

 大進駐して天皇から上皇まで隠岐や佐渡へ配流し土牢へ生涯入れ、藤原の公家は斬首したから、北条政子ことサンカ人の女上位での女神だったらしいが、今では不敬罪ゆえ決してサンカ人は、この話は絶対に秘密にして話などせぬ。


 さて、神は明治以降は、アラヒトガミに天皇をしたので、神とは拝むものといった世に変った。しかし、神社と違って白木作りではなくて紅殻塗りの宮や堂が実に多い。昔は夷也とか異也とか書かれていたのが、戦国時代以降は「稲荷」の当て字に変わって川柳の中にさえ、「江戸名物、三河屋イナリに犬の糞」と徳川時代には増えて各町
にある。


 稲の御守りなら田圃にあるべきなのに、私の仕事場の日本橋には今も銀杏稲荷、権太郎稲荷と町内にひしめきあっている。そこで第三弾として、白と黒との争いの中に、平[家]の民族カラーの紅を加え、「しょうもん伝説」がテレビ放映されたのを汐に、日本海からどんどん入ってきたが、藤原氏の先祖である唐を滅ぼした契丹ゆえ、公家は彼らを忌んで[同じ]大陸系なのに、賎民として東北へ追ったのが契丹日本人だった。これが判らぬ林陸朗あたりの国
学院歴史派は、将門を同和地区に結び付けるのは論外と目下裁判中。判らぬではつける薬もない。

 「源平藤橘」という太田亮の姓氏辞典のもっともらしいインチキさは、源=元 平=ペイルシヤ 藤=唐 橘=契丹
とは、各書に詳述して、<天の古代史研究>[八切氏の著書]までを完了した。なにしろ郭将軍こと日本名藤原鎌足が初め二千、後からも二千の鉄武器をもった進駐軍の権勢を率い、築城石の供出命令や漢字使用の命令から、すべて当て字だらけでよく判らぬ。

 ところが、これで庶民はいいつもりだったが、純血日本人の女達が進駐軍の弁髪人の混血児を次々と産まされる前に伴って逃げた純日本人のサンカ人も明白にせねばならない事になった。
「一犬嘘を吠え万犬それを伝う」というが、サンカつまり山海族ぐらい誤解されている例は滅多にない。何故かといえば、サンカ人は絶対に自分の事を用心して他人へは口外せぬから、謎に包まれた侭で秘密とされてきて、おかみは蔑視して弱小民族みたいにされる。
 自分こそ唯一の研究者であると言い残して他界した故三角寛先生は、「滅びゆくサンカ」と、その著書にもはっきりと書いている。 内務省警保局傘下の民族融和事業会によって実体を把握しようとして、各地に箕作組合を結成させ、セブリ数の申告をさせて統計をばとった。


 もちろん、たてまえ申告ゆえ、実数の百分の一にも満たぬ数字だが、オカミは満足をした。つまり、明治大正から昭和初期にかけても何も判らず、アイヌや琉球よりも僅少にみたのだ。
 ところがとんでもない話で、隠れ柳生の埋草はテレビだが、北条期から下克上の戦国時代へかけてのトケコミ。高成度[高度経済成長]と呼ばれる故池田のアメリカ公害産業の下請け時代から、河川や湖沼の水が呑めなく、したがってセブリが張れなくなった時から一斉に都市へトケコミした。

 だから表面的にはサンカ人間は全滅したごとく見えるが、純血日本人どうしの子供は、成績さえよければ、オオモトさまは原始無政府主義ゆえ、ホンゲとよばれる各戸よりの上納金を人頭税のごとくせず、代々にわたり公平に保管利殖し、分配金が育英用にと送られる。交通遺児になっても母子家庭になっても、ざっと五兆円を越すという溜めては利殖してきた資金がシノガラには給付されている。絶対権力反対体制で、弁髪人やオンモン人[朝鮮系]の子種は蔑み、自分らの純血種を減らさぬため、欲望のためでなく日夜これ女上位にて努力する。


 結婚三組に離婚一組の割合だというが、シノガラの純日本人は死別するまでは連れ添い、子供を作るため死ねば探してきてツナガリが再婚させる。上原謙さんは七十こして子供を作ったが、九十歳で子供作りした者さえもいる。

 なんせ、絶対他人に何も口外はせず誰とも打ち解けようとせず、黙々と産めよ増やせよとの使命感をもって汗している彼らは、いつかは日本列島は従順きわまる奴隷的な一般日本人の群れを出産力で追い抜いていき、真の単一民族にする日がやってくると想われる。それゆえ、源平藤橘の四民族の他に、私の体験が入るので書き難く渋りはしたが、思い切って知られざる彼らの実態を説きたいが、私が祖母にきかされた晩年の話の中には、絶対に口外すべきではない事があるのかもしれぬと、それを気に病んで、この序説を書いている。觝触するような個所があったら謹んで御詫びする。


 「見ぬもの清し」で、セブリが今では殆ど見られなくなったので、彼らは全滅したものと「オカミ」と自称する検事さえも豪語しているが、本当はシノガラの育英資金で東大を出ている人が多いのは間違いないらしい。最近は負けじと共産党も真似をしている話をきく。
 さて、月給袋の封を切らせずまるごと出させる女房がいるという。これがツナガリによる結婚なら間違いないが、うっかり結婚ならば相手はその血をひいているサンカ系女性。
 なにしろ私の祖母みたいに二世紀たってもホンゲをツナガリに納めていたくらいで、私はその孫にあたる。だから各自がよく調べていけば、サンカ人間つまり純日本種に繋がっているかもしれぬ。


となると、何食わぬ顔で会社勤めしている人にもトケコミは多い。彼らが人口の半分を占めた時からは、本当に日本は世変りをするだろう事は判り得るといえる。 マンションやアパート等でも、隣どうしでも全く口をきかぬ人が多くなったのは、トケコミが都市集中化の一つの現象とみられぬ事はない。なにしろ、日本歴史なるものは、「華族は皇室の藩屏にして」の明治設定で、徳川家達公爵家が華族会長となり、各大学の歴史教授の学士会がその傘下に入ってから、村岡素一郎の「史疑徳川家康」がサンカ出身を発表するや、警保局に対して弾圧をさせ、青山堂より「松平記」を三百部刊行させて配布したのは、私の「徳川史料集成」[日本シェル出版)に入っているが、庇護をうけている史学会東大閥が、これを第一級史料に指定した。だから近世に近い徳川期の真実の解明はタブー化した。
 元禄まで通用の含金量の多い大小判を使用禁止し、銀本意制の京へ送りし堺の中村内蔵介に銅を倍以上混入の元禄小判金造りを吉良上野介に采配させた柳沢吉保は、隠居すると申し出る彼が抜刀するよう徴発させ、失敗すると、浪士に「再就職」の甘言で以って討入りも匿されている。


サンカは反体制集団

 「前人未踏のサンカについては、尋念すべき文献は全くなく、ただ現存するセブリ生活者を求めて、その実生活を探求し、その実態を知る以外に研究の方法がなかった。
しかも、それを探求するには危険の伴う事が多々であった。研究は、昭和三年から同三十六年まで、三十三年間に及んだが、まだ満足すべきものとはいえない。その間には、日支事変や大東亜戦争があったために、セブリの実態は急変して、神代からの生態を持続してきた珍重なセブリの実態は、日に日に行作遷流(ぎょうさせんる)に押し流されて消滅しつつある現状である。


 したがって、サンカの実態も、私の生涯と共に絶滅して、私の死後においては、まったく記録することが不可能となることで、ここに三十三年間に得た資料を記録して、後世の論及に供する事とした」と、三角寛先生は昭和四十年十一月三十日刊行の朝日新聞社の「サンカの社会」の第一章の序論篇の冒頭に述べている。だが如何だろうかと、他社刊行の三冊をも共に読んでみて考える。


 故人とは直接には二回だが、山水楼で菊池寛の給仕役みたいな恰好だが会食もし、たしか四回は話しているので批判したり論難する気はない。しかし、人生座や文芸座を経営している遺族が、再版はおろか、他の何社よりの復
刻についても、どの本についても謝絶。そのため定価千四百円の本が今では三万円を越え、近く五万円の呼び声さえ古本業界には出ているときく。
 これは死後五十年たっても二等親か、その遺産相続したと称する者が、著作権法を楯にとって出版不能の額の要求をなし絶版にする怖れがある。著作権放棄の補遺のつもりで書くので三角寛の研究について、とやかく言う気は、まったくのところが、さらさらない点を前もってことわっておく。
 

私と彼との違いは、朝日新聞社のサツ廻りの新聞記者で、すべて研究の緒口から解明一切が「警視庁探索課大塚巡査部長からだった」と当人が書き残しているように、弾圧する側にあったので、古代史や民族学の素養もなく、警察情報から研究に着手し、のち内務省警保局傘下の「民族融和事業会」といった官制団体に関係してからも、そのオカミの肩書きで大威張りに調査した体制的研究であるのに反し、私の場合は、まったく立場を異にしているのである。


 それに、三角寛は、神奈川県から関東地方だけを研究対象にしているのに対し、私のは、愛知県から三重県といった「八」の本場の東海地方なのである。だから三角の研究は東、私のは西と思って読んでいただければ、それでよいのではないかと思う。
 それに、彼の方は昭和に入ってからであり、私のは大正時代。また、彼のは警官同行のオカミの側の徹底調査。私の場合は仲間の一員みたいな立場ゆえ、その点、事が食い違っている。
 「天の古代史研究」で従順きわまる日本原住民の成立を書いたから、その反対の徹底的反体制の彼らを今度は書いてみたいと想ったからである。記憶が鮮明なうちに、サンカ説は三角の独壇場ではないという事を、バビロニア語とサンカ言葉との対象表をつけて後学の参考に資したいと思うので、書き下しをするのである。私は律義で愚かだが、記憶力だけは取り柄である。

 「天の古代史研究」の前著で、西暦663年の白村江の敗戦で九州へまず進駐してきた郭務宗が、男っけなしの
御所へ入り、各地に築城命令を出したり施政を代り執り行った。
 今の金大中の全羅南道の百済人が新興唐によって滅ぼされかけ、祖国救援に日本原住民を捕えられるだけ集めて二万七千。宮廷の百済系男子はみな将軍となり将校となって壱岐対馬から渡って逆攻したものの、それまで彼らは、今日でも用いられているような、「クダラぬやつ[クダラでない‥‥つまらぬ]」「クダラぬ事を言うな」と、日本原住民を非人扱いの奴隷として酷使していたので、いくら親方が金大中の御先祖で、将軍や将校だけは頑張っても、戦奴の原住民共はあまり戦意が高揚せず、あっさり負けてしまったのかもしれない。


 紙幣の想像画となっている藤原鎌足なる存在は、この時点の郭将軍ではないか?‥‥ことによったら人口僅かな時代に、男どもがみな向こうへ連れてゆかれて戻ってきていなくて、御所も女ばかりだったから居座ってロボットのような方を表面には立て、自分は闇将軍となって国政一切を指揮していたか、事によると占領軍の第一人者というので日本の国首になっていた疑いすらも今となってみれば推定される。なにしろ武力で次々と命令を出しているからである。
 しかし、戦奴として徴兵され連れてゆかれた侭戻ってこないのは二万七千でも、山に隠れ海中の島に身を潜めて隠れていた日本原住民は、その当時の事ゆえ十倍か、もっと多くて二十倍の余ぐらいはいたとみられる。つまり散らばっていても五十万人ぐらいの人口である。
 クダラ王国朝の時でも苛めぬかれてきていたが、今度は青竜刀を持った郭将軍の進駐である。「捕まったら殺される」と、隠れていた連中が今でいうレジスタンスで、青竹の先を焼いた竹槍や弓矢をもって奇襲を各地で弁髪進駐軍にしかけていたのが七世紀の実際の有様だったろう。

 そこで郭将軍は全国に「進駐軍の命令により」と巨石の運搬を命じ、大野城、金田城、それに高安城まで、判っているだけで14ヵ所に築城。井戸を掘らせ食糧や塩類などをしまいこませた。
 面白いのは日本歴史で郭将軍が築城用の積石の供出命を布令した項目は、三省堂歴史年表にも出ているが、これは日本軍が進駐軍撃退の為の本土防衛のものと頭から決めつけている。
(各地のレジスタンスから身を守る為の退避用の城とはせず、あくまで日本の抗戦の為だ)として、よって郭将軍は二千名の追加を朝鮮半島から呼んで、アフガニスタンゲリラのような彼らと戦ったものの、あまりにも日本軍が勇ましくて戦に利あらずして九州より引上げた。




となっているからこそ、往年の本土防衛の功を認められ、最近の事だが、残っている金田城の遺跡などは国の重要文化財に指定されはしたが、当時の中国の華主席から礼などこなかった。「一枚の紙にも表と裏がある」というが、歴史も同じ事だろう。朝鮮半島を悉く占領し、壱岐対馬から九州へ入り、御所に本陣を敷き、百済美人をずらりと周囲にはべらし、「テンホウ、テンホウ」と連発している郭将軍らが、いくら竹槍隊が蜂起してきたからといって、追加軍まで呼んで九州各地から京以西の治安維持を完全にしてのけた彼らが、縄文日本人に怖れをなして、すごすごと戻っていくような阿呆らしい事が現実にまさかあるだろうか。


 郭将軍は応援に呼んだ二千の合計四千の鉄戈や青竜刀をもった弁髪軍によって、くまなく各地の原住民討伐を敢行。八母音を使う海人族は魚もとるし塩も作る。雲南経由で漂着した連中は焼畑や水田もできるから、彼らにアワ・コウリャン・米まで耕作させて食糧確保の奴隷とした。これが「アマ」とか「アメ」の「天」のつく民族で、現代の庶民の先祖様だった。 しかし彼らの中にも、いくら追討されても屈せずに頑張り抜き、降参しない連中もいた。が、郭将軍が一番てこずったのは、遊牧民族として裏日本へ、ベーリング寒流から押し渡ってきた騎馬民族の徒輩だった。彼らは桑を植えて蚕を飼う事もせず、土を耕して土毛と当時は呼ばれた農作物を作ろうともせず、放浪して廻っていて仕方がなく、彼らの降参後、女は開戸とか皆戸とよばれる進駐軍慰安所へ収容したが、男は役立たずゆえ捕らえて、初めは陸墓の副葬品として扱った。


 のち、外敵侵入の際に防人として血税を払わせるように利用の道がついたので、埴輪とよぶ素焼きを作らせ身代わりに土中に埋めさせた。そして、彼らは生かして仕え国のためと九州とか東北へ防人として出発させはしたが戦奴である。外国のように将校や下士官との間に友情など生れよう筈とてはなく、人間の楯みたいに伴われているのを諦めてしまって、「今日よりかえりみなくて大君の御楯となりて、出でたつシコ(飼戸の子)の身、われは」と、騎馬系の民族ゆえ馬を飼わされていた彼らは賎の身ゆえと、皆が皆揃って行ったわけではない。

 今でいうなら、「徴兵反対」「戦争は厭だ」といったプラカードをもってデモをやることはできないから、海から山へと逃げ廻って拒んだものもいたし、武具を持たされたのを誘帯して集団で脱走した反体制の者らも意外に、その当時はきわめて多かったらしい。
 所謂従順な奴隷になるのを拒否して、他の原住民の如く「長いものには捲かれろ」と弁髪人の毛髪の長い将校の命令に忠実に従おうとはせず、かえって渡された武器でもって逆襲をかけた連中である。 もちろん郭将軍の部下は戦奴を使って追いかけ廻し、捕らえると見せしめの為に吊るした。しかし、脱走した中には運よく木の上に登って身を匿したり、谷底でうまく追手をまいて逃げまくった者らもいた。


 徹底的に反体制の人間が、こうして奴隷になるのを嫌って独立してしまった集団が、次々とサンカとなって山野を彷徨しだした。元来、彼らは沿海州や羅津方面からベーリング寒流で日本海を渡ってきた先祖を持っているから、パオと呼ぶ天幕生活をした。さて、表日本へ怒涛の如く流れ込んできて、太平洋へ抜けていく黒潮暖流から日本列島に這い上がって住み着いた者等は、今の静岡・愛知・三重・滋賀あたりに、皆かたまって助け合っていたゆえ、貧弱な縄文器の石斧、石槍でも何十何万人と集団化していたゆえ討伐を防げ得たらしい。


 しかし、今の千葉県の仁右衛門島の蘇鉄や団扇椰子の茂っている対岸の安房の小湊あたりに這い上がった連中は難儀したものらしい。なにしろ近くに多賀城とよぶ(中華)城がある。単身で来ている弁髪兵の連中は、てんでに欲望のために女を捜しに手分けして、毎日の如く鉄剣を振り廻して巡回をしたのは、<続日本紀>の中にさえ堂々と記録されている。

 つまり、捕えられ素直に華城の中へつれてこられて慰安所へ収容。初めは将校専用。その後は一般兵用になるのだが、その内に華城の兵の警備がひろがってくると、城内へ次々と連行されるのは若い娘か美人だけに限られるようになる。
<野史辞典>や<庶民日本史辞典>にあるように、皆戸、海渡、開戸、垣内といった地名をつけられたタウンというのは、弁髪人兵がくるたびに女は集まって、それぞれ女隠の戸をひろげねばならぬが、その代り他の日は家事労働でもできるという仕組みだが、夫がいても占領軍を拒めば「野心を抱く女」として遠くへ連れてゆかれ、奴隷市場へ売られてしまう羽目になってしまう。
占領軍にしてみれば、原住民は被占領民で、みな奴隷だったから当然である。そこで命懸けで、かつての日本赤軍の永田房子らみたいに、榛名山系を越えて逃げ込んだのが、裏日本から追われて隠れていた連中と、逃げる者どうしで共に一緒になるようになった。

 サンカというと三角が山の字に蜂の巣の窩をあててしまったのを、当人も後になって悔いているが、決して山者つまり騎馬民族の血を引くだけの存在ではなく、逃亡者達の反体制集団。
 といって、何十何百と固まってしまっては、いくら隠れて逃げまわっても中華兵に見咎められる惧れがある。それゆえ、せいぜい二十人あまりの一団となって行動し、移動する時には連絡のため「界石」とよぶ、次の落着く先を人目につかぬよう埋めて残し、何日かで立ち去って行くのである。
 行動範囲というか縄張りが二ヶ国から三ヶ国に限られていたので、東北サンカが箱根を越したのはアテルイの原住民大進駐軍の時ぐらいで、せいぜい来たのは茨城あたりまでなので「イタコの伊太郎ちょっとみなれば」の潮来と、下北半島の恐山のイタコが同じサンカだったぐらいは地名で判る。


 なにしろ三角寛説では、日本人化の民族のような考察がされているが、とんでもない話で、彼らこそ日本人中の純粋血族で、完全に今もその血を伝えているのである。というのは、従順に仕方なく奴(ぬ)とされ、奈良時代には百済人に七世紀後半からは奴隷とされていた庶民の女は、すべて進駐軍の慰安婦とされ、共に黄色人種ゆえ一見しては判らぬが、混血児を産まされてきている。
 これは「野史辞典」の庭子の項目に詳細に出ているように、女を全て召し上げられて、男共は生涯単身で、「先住民」つまり「賎」から言源をとったセンズリでザーメンを垂れ流していたにすぎない。つまり、そうして原住民の男達の血は残らぬように混血児だけにして単一民族化しようとしたのは明治まで一般では慣行されていた。


 だから松前藩もコシヤマイン蜂起後はアイヌの血を絶やす為に、女は人妻であれ少女でも和人用にと徴用し、男だけは離島へ隔離して強制労働させて、血を伝えぬように別れさせ粛清を謀ったのである。「白山神信仰」のオシラ様の御神体が男女一対となっているのも、なんとかして原住民どうしの男と女が一緒に暮せる世の中が来るようにというので、その悲願を込めて祀ったもの。
 ところが、「白山島」と幕末まで呼ばれた今の新潟では「白」を上につける神社や御堂はみな古いものは毘を旗にしたイワカメシイ女武者。江戸期のものは黄と黒の楯縞を着た女人が馬の背に跨るもので、明治からの義務教育で「韓信の股くぐり」が修身の教科書で教えこまれたので、上杉於虎が父の名を継ぎ景虎、将軍家の名を貰って輝虎。その死後には、姉阿亀の子の喜平次景勝が跡目を継ぎ、男系相続の徳川期では「兼信」と、男女兼用の戒名をつけ、それを甲陽軍鑑の今の講談師のはしりが、武田信虎をやはり戒名の信玄で、張扇を叩いたから、それへの対抗上か、語り口を合わせるために、もっともらしく「謙信」にしてしまったのが本当のところ。


だが、学校で「韓信」を教えこまれ、明治三十年代に頭山満指導の桃中軒雲右衛門の「銘々伝」に「神崎与五郎の馬方の股くぐり」が広まったので、謙信と韓信がごっちゃになってしまい、「股くぐり姫」などと新潟は御神体を呼ぶ。死せる子はみめよかりきで、女は死ぬと美人にしたがるが、おそらく於虎はブスな大女でアバタだらけゆえ、いつも頭巾をしていたのだろうが、加賀の一向宗道場の坊主の率いる軍勢にいつも苛められていたから、女将として対抗したのは、現世では人外の者でも仏果によって来世は常人となると原住民を煽動して攻め込んで来る彼らに、女上位の体制を示して畏怖させねば、とても打ち払う事ができなかったからだろう。 

サンカ集団として春日山の鉢形城で天下に怖れられた上杉於虎は、上京のたびに時の将軍足利公方の奥方の許に滞在している。
 もし通俗歴史でいうごとく男だったら、足利将軍家が、女は他にいくらでもいるからと、御台所を滞在中は提供していた事になるが、まさか戦国時代の初めでも、室町御所の権威というか見得がある。将軍家が妻御台所を在京中は貸している筈はない。
ということは、紛れもなくケンシンと俗称される者は女体だったせいだろう。富士山頂に木花咲耶姫を祀ったり、裏日本ではきわめて女上位であったのは、今もモンゴルでは、長男が嫁取りすれば、弟共は我慢ならぬ時に御裾分けしてもらっていて、よって女に対しては頭の上がらなかった慣習が裏日本へ入ってきたモンゴール系の慣習であったからである。

それゆえ表日本の静岡あたりには、「姫街道」といって娘達を集団で連続的に市場へ運ぶ名称が今も残っているが、裏日本には全くそうした地名は残っていない。男共がみな必死になって女人を守ってきたからである。
 さて、サンカが日本の純血民族であるというのは、その妻や娘を占領軍に渡して己が命乞いをなさず、日本原住民の中で彼らだけが女と逃げ、同じ先住日本人の子孫を育て、その血脈を今に伝えているからである。この大切な事を、警察情報をもとに先入観とした三角寛は、人類学、言語学の基礎教養がなかったので、オカミの指示通りに考究してゆき誤ったのである。娼にされぬ純な女と伴っての逃避行ゆえ、さぞかし追われ追われて苦労したろうが、
彼らの間の子は純日本[原住]系である。そして、その子らも純血を今日まで混血せぬように保ってきている。



 「天の古代日本民族の研究」で太田竜も、やはり日本人は朝鮮や中国の男どもの落とし種の混血児によって成立しているから、統治者にしては何よりの優秀な奴隷と決めてかかっている。
 それゆえ三角説のような人外サンカ説。つまり日本人とは全く種族の違う人種みたいな論説が、唯一のものとして後世に伝わってしまってはとんでもない誤解を招く事になりかねない。
 

それゆえ私は今まで書きたくなくて触れないようにしていた記憶を現世への名残りの著述の一つとして書き、ついでに古代バビロニア語とサンカ言葉との類似点をも、彼らが紀元前三世紀から先住日本人だった証明に付け加えて後学の為の参考にする。
 もちろん三角寛先生は、天下の朝日新聞をバックに、官僚機構の警察権力や、後には民族事業協和会によって集められた資料をもとにして統計的にも完成されたようなものである。
 それに対して私のサンカものは、なんらオカミの力を借りる事もなく、ただ一人で彼らと何ヶ月も同居して、足が遅いのでおぶわれて暮した。当時のサンカ生活の内側からのものゆえ比較にならぬくらい程度は落ちると思うが、反体制集団の彼らの実体はつかんでいる。

散家がサンカか

これを書くと私小説になってしまう。だから山口氏でも血族を書くのに母方の脇屋を女郎屋だったとか秘密めかして書いてもいない。やはり書きにくいのだろう。私でも、これを書くのには渋った。できうる事なら誤解されぬよう書きたくはなかった。
 私の母はフサと万葉仮名で書く名を持った女性だった。昔の女学校を出た年に、今は亡き矢留節夫、それから何年かたって私を産み、その亡兄の名を冠せていたが、二人も子を産んだ女とは見えぬくらい若々しく、いつも着飾って外出ばかりしていた。
 だから、私は祖母といつも一緒で、「バアサン子は三文安‥‥」などと、いつも近所の子供にからかわれていたものだ。祖母は世間並な桃太郎の話などはしてくれなかった。桃太郎の絵本を友達から借りてきて眺めていると祖母は怖い顔をして、「わしらの頭に角が生えているか‥‥」と怒って取り上げてしまい、自分で借りた家へ返しに持っていき、
「‥‥変なもん、子供に見せんでちょう」と大声で文句を言って帰ってきた事がある。詳しくは教えてくれなかったが、善玉と悪玉が逆になっとるとだけはぶつぶつ言っていた。
 

「中ツ国」と呼ばれるのは今の中国地方の岡山。隋を滅ぼした中国の唐が白村江、朝鮮半島で日本よりの派遣軍を大敗させて九州からの進駐。そして「唐」を「藤」と替字してからは、滅ぼした隋の人間には「桃」の字をばあてて区別していたと、<野史辞典>に書くまでは、桃(藤)から生れた桃太郎は凛々しい貴公子で、当時の事ゆえコウリャン団子だったのを、新羅系のサル、高麗のイヌ、百済系の戦士のキージーに食糧を給して、隠忍とよばれていた原住民討伐に行き、彼らが耕していた穀物や干魚や荒塩を宝物として掠奪してきただけの話だと納得できるようになったのは、私としては祖母の亡くなる後年の話だった。

当時は、(まさか幼時から一般庶民の洗脳教育に、そんな童話の絵本が広まっている)とは知る筈もないから、祖母は臍曲がりだと思っていた。 当時、祖父は名古屋市中区神楽坂町という目ぬき通りに、不動貯蓄銀行というのを
やっていて、岐阜の芸妓上がりのおツルさんと、南呉服町で「ひさご」を経営していたオクニさんの外妾が二人いて滅多に夜は戻ってこなかった。
 といって、祖母より彼女達の方が綺麗とか愛らしいという事はなかった。これが不思議で、
「おじいちゃんは、どうして帰ってこんのやろ」と、中働きの婆にきいた事がある。すると、「ここの大奥様は上に跨りゃあすから、重とうて身体の自由がきかんとぼやいとるぎゃあ」と教えてくれた。つまり、顔はまずくても芸妓上がりの二人は、今いう正常位か下に横たわって相手の思うままなのに、祖母は反対に上から取っ組んでゆくので祖父は厭がって戻ってこない。

 だから祖母は、一人寝でなかなか眠れぬせいか、私を側へ寝かせては色々と話をしてくれたのだ。言い伝えの伝承話だろうが、彼女の口にかかると豊臣秀吉もサンカの一人だった。「弟の弾正たらいうのが薮塚にいて、その伜の虎之助が安土城を拵えた岡部又左の許へ弟子入りしたというのは、居付き(今では五木)サンカとなって暮していた証拠。
また秀吉の妹の子の福島市松だって、後には正則とかいう大名になりゃあたが、親父様が桶のタガ作り、つまり今言やあす箕直しだで、やっぱし居付きサンカ。となると、秀吉のお婆様は気が強いも道理、サンカ女だぎゃあ‥‥近頃はオカミが変わってサーベルが追っかけやぁすが、秀吉かてサンカで、あん頃は大名というか殿様は、みんな
そうだったんじゃがなも」


誇りをもってというか、自信慢々とした寝物語を欲望発散のためにくり返し聞かされたものである。私は幼くて判らなくなって途中でいつも寝ついていた。サンカが屯しているところを「ヤワタの薮知らず」というくらいだから、薮塚の弾
正の伜の加藤清正がその出身で、今も熊本に残っている清正堤などはサンカ工事で堅固なのは有名である。
 
福島正則がササラ衆の箕作りや竹のタガを編んでいたのは「宿六列伝」にも詳しく書いたが、清正も他の本に書いてある。彼が長い兜をかぶっていたのは、サンカは夫婦で一セブリとなって分離しているが、何か集会があって多く集まるようになった時には、全体の長にあたる者が、「八方めぐり」と呼ぶ、地面に突き刺す自在鉤を外側から竹で編んだ筒で包み、頭上に乗せ、遠くからでも識別するためで、五セブリを一天人とよぶ団体が、それを中心に拡がる風習がある。
 
現在加藤清正公愛用の長兜といって、藤の編んだのに黒塗りしたのが遺品として残っているが、好事家の後年の作り物で、本物は弓なりに曲げた四本の青竹を籠のような物でかぶせ、軽くて長かったものであったらしい。と、それに九州へ行くと同和地帯で「豊臣松園」といったように、豊臣を上につけた地区が多いのも、九州ではサンカを特に嫌っていたせいであろう。

 また、これから「秀頼薩摩落ち」の講釈が大坂以西では大正から昭和初期まで流行した。<天の古代史研究>で「世良田事件」の項目に詳述しておいたが、上州世良田庄徳川が、幕末までは神君発祥の地というので畏敬され、近郷八十ヶ村より納米させ、部落の頭目の岩佐満次郎がやがて新田男爵になったのに、徳川公爵家では華族会長様の出身が同和地区では困ると、明治三十年刊にして青山の青山堂より「家康は松平元康の改名が正しい」とする「松平記」を刊行配布。東大をはじめ各大学の教授で組織されていた学士院会は、直ちにこれを確定史料と認定した。
 

そこで近郷の村々では学士様や文学博士が[世良田と徳川家は無関係と]いうのに、これまでよくも村々より飯米をとりあげくさった、と世良田の庄を取り巻いた。新田男爵はロンドンへ留学という恰好で家族もろとも不在だったが、世良田に残っていた三十四名のところへ近村の三千人が石を投げつけ、鍬や鋤をもって押しかけた。そこで近在の鬼石などの部落へ応援を求め一致団結して戦った。
 これが後の水平社運動の始まりだが、村岡素一郎の「史疑徳川家康」によれば、秀吉がサンカなら、世良田二郎三郎、後の家康とても、出自はどっちもどっちでかわりはない事になる。

サンカなれば秀吉は京を押さえ天下をとり、家康も徳川十五代の祖になれたのだろう。つまり純血の強みがこういうところに出てくるらしい。 日本列島の原住民というのは、紀元前何世紀も前から漂着して住みつき、海流が日本を起点としてはどこへも流れていかないので、仕方なく暮していた人々のもとへ、今日いうところの「古代海人族」、天地水火を拝むアブダビ海方面よりの者が戦火に追われれ入ってきて飛鳥人。

 その後に裏日本から、大きくても木曽駒くらいな馬を筏や小舟に乗せて入ってきた騎馬民族。彼らの中に後に白系ロシア人と呼ばれる沿海州からの白人も混じっていたので、今も秋田美人、新潟美人というように、肌の白い人も多く見かけられる。が、どっちも集団で攻め込んできたわけではない。共存共栄というか、牧草地の多いところを騎馬系は遊牧して廻り、マレーシアのヤバアンや、当時の雲南はベトナムまで延びていたが、そこからの古代海人族は漁や塩も作ったが、今日のベトナム方式の水田耕作もし、騎馬民族から鹿や兎の肉を貰えばお返しに穀物を出して、一緒に相互扶助しあい、それゆえ「豊芦原瑞穂の国」ということになる。


 騎馬系は主として新羅高麗[系]と沿海州の粛慎と呼ばれる後の白系ロシア人ゆえ、彼らが白頭山信仰を持ち込んできて加賀の白山を祖神とし、民族カラーを白とするのが源氏になるのだが、それに対して民族カラーを赤とする後の平氏になる飛鳥人は、生魚を手掴みで食べて日本へ来た海洋族。

 さて、サンカの女は決まって赤ネルの腰巻姿である。という事は、三角寛先生の説く「単一民族の日本人とは全く民族を別にする種族」という解明にはならないのである壱岐対馬から大陸よりの、鉄製武器をもって集団進攻してきた全羅南道の百済人によって討伐された時に、捕虜になってゲットーへ入れられ、騎馬系は飼戸(しこ)として馬飼いの牧夫。海洋系は食物作りの課役奴隷にされた時に、あくまで縄文武器で戦って逃亡した両方のレジスタンス連中が、やがて一つになって、夫婦単位のセブリを営んだものとみるのが至当ではなかろうか。
 サンカの発生について、三角寛先生は、その著の「サンカの定義」の名義考の中では、まず、


「サンカの表語は、過去三十三年間における私の随筆ならびに小説等三百余篇の発表で、山窩の概念が既定されている。しかし、これは活字面の構成上、「山の窩(あな)」という表示に美的な響きがあるので、ことさらにこれを使用してきた。山の窩の発音はサンクワである。ところが、当のサンカは穴居生活者ではない。また山中深く隠れ住む生活者でもないので、山を冠する事も窩を当て字する事も実のところは不適当なのである。
 それではサンカとはどういう意味か?


この言葉の追求には、私自身、三十三年間苦しんできた。それは、サンカは口が堅く、絶対にその実態について語ろうとしないからである。また、彼らの一味のうち、徒渉漂雨泊のセブリ生活者は、自分達の事を、殊更にサンカとは絶対に口外せず、何も言わないからである。しかしながら、彼らの事をサンカまたはサンクワと客観的にこの名称をつけられている事には、何かの理由がある筈である」と序文で述べてから、三角寛先生説では、

「彼らにその理由を訊ねると、まことに不機嫌で、『それは何の事だ?』と横を向いて答えようともしない。そもそも山の窩とは、彼らの真の生態を知らず、想像で深山の山窟にでも棲んでいる生活者であろうと断定して呼称したものだからであろう」とする。また、明治八年二月の島根県令井関盛良時代の羅卒文書に、「山家(さんか)の徒、山窩、浮浪の徒」などとあり、
「山窩(山家)は雲伯石三国辺偶の深山幽谷を占居する」とも記載されてある。おそらく、これが文字に書かれた山窩の、そもそも最初であると思われる。この山窩が、明治から大正にかけて特殊な犯罪捜査家達によって研究され、雄弁会発行の「明治大正犯罪実話」上下二巻となり、彼らはこれを特殊犯罪者の流浪群と誤断した。


しかも、彼らはこの研究を絶対秘密にして、直属の上司にすら報告せず、隠密や、一般犯罪捜査の手先に「諜者(てふじゃ)」として山に入り込んだのを利用し、彼らの仲間を犯罪者として検挙していた。
 三角寛先生は、
「私がはじめてサンクワの言葉を耳にしたのは、昭和初年の例の『説教強盗』が、夜の帝都北郊の住宅街に出没して、東京市の内外が恐怖に襲われていた頃である。『あの説教強盗はサンカじゃあるまいか?』という風評が立った。『説教強盗』の命名者である私は、その風説を聞き捨てにはできなかった。私はその風評の火元を追求するのに十一日間を費やし、ようやくつきとめた火元は、下谷区萬年町に住んでいた警視廳捜査課勤務の巡査部長大塚大索氏であった。

大塚氏は窃盗係の老刑事であったので、直接、強力犯の説教強盗の捜査には当たっていなかったが、その出没自在な行動から推理して、『あるいはサンカじゃあるまいか』と口走ったのが事の起りだ」と、当時サツ廻りの新聞記者の三角先生には判明した。 大塚巡査部長は、この萬年町がサンカの居附(ゐつき)地であったので、ここに居を定め、ここを探索の巣として、この特異な、社会に寄生する浮浪者群の中から多くの犯罪者を検挙していたが、この里で捕らえてしまうと来なくなるので、ここを立ち去って次の場所に移ったところで捕らえる事にし、それらの犯罪者をサンカの諜者に密告させていたのである。


 この特異な社会は内側と外側に分かれ、内側がサンカで、寄生浮浪者群はその外側であることを知っていた。(大塚氏は後に警部補になって退職した) では、その内側のサンカの実態は、はたしてどんなものであったか?(つまり内側が本物で、密告者や密偵は寄生虫のような贋者)という事になる。

 大塚老刑事の話によると、
「サンクワといっても、あれは当て推量の名稱で、深く研究して呼稱された訳でもない。また彼らを訊ねてみても満足な返事は誰もしないから知る由もない。彼らは岩洞や穴の中に住んではいないのだから、山窩でない事だけは事実である。あの連中は、箕づくりが生業で、大体が村里や町はずれの林の中や、川べりにと住んでいる。だから、山河者(さんがもの)とでもいう方が適当かも知れない。どうしてあれをサンクワというのか自分でさえも納得していないから、報告書にサンクワという文字を使った事は一度もない」と、三角先生が、はじめて知ったサンクワという名称の知識はこの程度のものであったという。掴んだのは、「その正体が箕つくりである事の事実」だけであったのである。
 農村に生れた者なら、箕つくり、箕直しを知らない者は少ない筈である。三角の生れた大分県竹田地方では、これらの連中を非人と呼んでいる。彼の母などは非民(ひみん)と言っていた。なぜなら、昔から農耕の民を百姓(おおみたから)(世襲私有財産の大遺宝)といった歴史があるが、あの連中は耕作をしないから非民だというのだと聞かされて、なるほどと先生も思った事がある。
 この箕つくりの非民あるいは非人のことを、地方によっては、川徒(かはと)、山徒、またはオゲとかポンズなど、さまざまの方言で呼称されている。地方々々での解釈があるのだが、いずれも、その正体を掴んではいない観念的、客観呼称にすぎないのである。サンクワとは、ただ何となくそんな気がするので、あて推量で、山の穴居者と誤認しているのである。
 
 また、サンクワは、多くが川の畔(ほとり)の林の中に棲むので、サンカ(散家)と呼ぶのが正しいと思うのではあるが、これとて観察概念からする呼称にすぎない。「かのごとく、サンクワとかサンカについて、何かありそうだと考え、色々追求を重ねているうちに、昭和十九年になって、彼らの中に、『ミツのケチの掟』といった厳然たる差別のあることを発見した。これはこの研究の決定的な意義をもつ事になった。この『ケチ』というコトバは、世間でよく云われている処の、『あいつにケチをつけられた』などという、あのケチの事だ。

ミツクリの一(かみ) フキタカの一 エラギの一

この三つの系統の差別(ケチ)がそれである。 そのミツのケチとは、三つの差別、即ち三つの區分(ケチ)ということである。(ミツクリの一とは、箕つくり系統の統領の事で、家元とか本家などの意味で総元ともいえる。つまり『夷元』なのに、金とり主義に代わったゆえ刃物をふるって花柳玄舟が抗議をしている。)フキタカの一とは、笛つくりの系統の統領のことだ。この一味は、太古には笛や琴を竹で作っていたのだが、今では竹製の楽器や茶筅などを作っている。また竹三味線も作った。(『四つ』のササラ衆も同じ事をしている)

 エラギの一とは、遊芸者系統の統領の事で、出雲阿国などがその出であった。今も川原芝居や門附けなどが残され、現存する『俵ころばし』『猿廻し』などが、この系統に属する。(弾左衛門支配の四ツの猿飼族も入る)
 このエラギの語は、嗤楽(わらいたのしみ)の事で、笛を吹竹(ふきたか)という古語と併せ考察すると妙味が深い。サンカの語源かもしれない。
 以上の三區分は、その一(かみ)が世襲的に専承されてきたのであるが、大正以後は、その一(かみ)味の上達者が、次代の一を継承している。このミツのケチのカミを彼らはきわめて尊び、セブリのミケ、またはミカと呼んでいる。それが三差(さんけ)、三一(さんか)などと呼ばれ、また三家(みさん)、三家(けさんか)などとも呼ばれたりするが、理解し合う相手なら、どう呼ぼうと咎めだてはされないのである。
 さらに彼らの中には、その上に、

クズシリ一(かみ) クズコ一 ムレコ一

という三種のカミがいる。クズシリは国知り、クズコは国子(くにこ)、つまり都とか郷のこと。ムレコは群子(むれこ)で、村の事である。それぞれに一人ずつの長がいるので、それを第一人者の一をカミと呼ぶのである。この他に、さらに統率者として、

アヤタチの一(かみ) ミスカシの一 ツキサシの一

の三つの段階の頭領の身分(ケチ)がある。これは、権力の最高者であると三角寛先生は、その著書で説明する。
 アヤタチのアヤとは亂、即ち秩序の亂(みだ)れのあやの事で、タチは断(たち)または裁(たち)を意味する。
 ミスカシは透視を意味し、亂を破る意味が含まれている。
また、ツキサシは突き破る事で、亂脈を引き裂き、突き破る行為を意味する。これが戦国時代に到って利用され、アヤタチを亂破、ミスカシを透破、ツキサシを突破などと漢譯され、忍びの者の組織に利用されているという説すらも伝わっている。
 現存の彼らが數を讀むのに、いち、にい、さん、しい、ごう、と我々と同じ數え方をするにはするが、他人のいない身内同士の時や、何かあらたまった時には、一(かみ)、ニ(つぎ)、三(さん)、四(しい)と讀むのである。
 この一(かみ)という表意記號を、頭(かみ)と意味する彼らは、この数字に、物の肇(はじ)まりと統一を、また指示と統御を信念としていた。ここに特殊さがある。

ここから出發して、三つの差別(ケチ)、三つの一(かみ)を、サンケ、またはサンカと意発発音してきたのが、いつはなしに外部に漏れて、サンケまたはサンカが山河と解され、山窩と誤られたのである。音表と意表の合意を誤解された結果が山窩であり、山河であると理解されたい。
 結論としてサンカは三一(さんかみ)であり、三區別(さんケチ)であり、強いて漢字で書くとすれば、三家である。過去三十三年に亘って、三百餘篇の著述の中で山窩の熟語を故意に社会に押しつけてきた三角寛としては、ここに謹んで、その罪を詫びて、その不正を正しくしておく次第である」
と、昭和四十年十一月三十日朝日新聞社刊の「サンカの社会」の28-33頁では述べているのである。これは正しい訂正である。立派なことである。
 しかし、漢字というものは、西暦663年、白村江敗戦の時に進駐軍によって「則天(漢)唐字使用令」とよぶ強制使用が命令された時から、みな何でも当てはめるだけの文字ゆえ、「三」にこだわるのはおかしい。おそらく本当のところは足利中期過ぎに明国から印度のカースト制度が入り[もっと前からという八切説もある]、日本列島でも賎民制度を確立した際、「まず前体制の北条一族をゲットーに入れ、次いで
足利創業の際に南朝方として邪魔をした新田、楠木、湯浅、菊池、足助といった連中の子孫が、東西に設けられた室町御所の新設した散所奉行の役人によって、山とか川の真ん中の州。つまり橋のない川の中へ、居つき限定収容させられた。これを散所とよぶ。地方によっては、別所、院(囲)地、界外と色々の名称があるけれど、これが全て語源である。
 
つまり、散所はゲットーでタウンになっているのに、セブリは一世帯ごとゆえ、これを「散家」というのが正しいとも考えられる。足利後期の公卿の「夷詠朗詠集」の中にさえも、
「奥山にかくれ住むちょう散家ども、人とはみえで隠鬼ならむ」とまで明白に出ている。この朗詠集は、毎年五月五日、奴隷百姓となっている連中が、橋のない川の連中へ投石をしにゆき、州の中の鯉を分捕って竿にさしてきて勝ち誇って帰ってくる「院地打ち」の石合戦の歌が数多く詠みこまれていて、夷をもって夷を制する藤原体制の実体を明らかにするために、菊池山哉の「日本の特殊部落」にも引用されているものである。


ウメガイの実相

「サンカの生態には、陰陽ニ態がある」と三角寛先生の説ではいう。そして、「陽態がセブリ・サンカ」であり、「陰態は居附サンカである」とする。この居附は、我々の生活に極めて接近し、そ知らぬ顔で一般に中和している。中和とは、サンカが一般人の中に入り、正しく節度にかなった生活をしていることをいう。彼らは元来がセブリモノであることを一般人に知られ嫌われるような事は絶対にしないのである、と説明をしてから、その形態を分けて分類し、中和しているトケコミサンカについて、「陽態の、セブリ・サンカとはどんな生活者なのであろうか?」と先生の考えを発表
する。

 彼らのコトツ(「言告(ことつけ)」の詰り語で、「つてごと」の意‥‥昭和十八、七、丹波にて採集)によると、セブリとは、アナイヌケということである。太古の我々の祖先が穴居生活であった事は論争の余地もなく、明治大正になっても地方の農家はまだ穴居生活が多かった。これには異論のないところだが、このセブリの始まりはほぼ、その穴居から地上に出た頃からと、彼らの間では傳承しているのである。
 それまで私は、コトツという言葉は、コットと聞いていた。「コットによりますと」とか、「コットでは」というふうに聞いていたのである。その意味も、「私どもの一族では」とか、「我々のセブリでは」という意味に解していた。

 ところが、昭和十八年の夏、戦争たけなわの頃、三角先生は郷里の大分に歸郷した折り、飯笊(めしざる)を売りに来たセブリの女の口から、「セブリのはじまりは、タニバのオヤマミという人に聞くと、よくわかります。その人はコトツの一(かみ)だから」と、意外な事実を聞いたのである。それは先生にとっては、まことに思いがけない大収穫であった。
「あんた、いまコトツと云ったが、コットのことですか?」ときくと、「他人様と話をする時には、はぐらかしを言うことになっているから、コトツのことをコットと言うのです」と、これまた意外な発覚である。それゆえ言葉を次いで、「コトツとはどんな事でしょうか?」ときくと、
「セブリのできた、そもそもの始まりの事から何から、先祖からの言い伝えをコトツというんです」と、教えてくれた。

 タニバとは丹波の古名であるが、鞍馬の山裾にあるというオヤマミのセブリの場所をきいて、東京に戻る途中、京都から北に入ってタニバのセブリ場を先生は訪ねた。
 セブリは、桂川の水上の大堰川の川縁(かわべり)にあった。セブリの主は、大山見一(おおやまみはじめ)といって、その時五十九歳で、職業は箕作りであった。ここで、コトツの語意について確かめてみると、その意味は「言告(ことつげ)」の語り語で、「つてごと」という事であるのが判った。これも貴重な一語である。今いう伝言だからである。
 更に、この大山見さんが、セブリの歴史を一切伝承していることを知って先生は狂喜した。
 

引用参考文献・八切止男著作「サンカ生活体験記」

【この項続く】


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<世界 クローズアップ現代:海外の話題>
3 日本は古来から渡来人が神の権威で地域を支配する小国連合


2013/10/26 日本は古来から渡来人が神の権威で地域を支配する小国連合
クローズアップ現代 世界 クロ現 海外問題





服部順治 ‏@JunjiHattori 10月15日
あー日本の中国の自負をもつ南朝天皇・朝鮮エタの長州は結局、欧米列強に支配され、今も日本最大の大聖堂が駅前に「下関戦争」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
下関は古来から朝鮮からの玄関口だったが今はザビエル、米国の間接統治:

http://youtu.be/9jgTo9T0pZE




服部順治 ‏@JunjiHattori 10月16日
【重要】伊藤博文の父は林と言う農民(サンカ?)だったが武家の伊藤家に母や博文も含め養子にはいった。日韓併合に反対
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1222892577

… 「伊藤博文は自分や天皇も朝鮮出自を認め、日韓併合に反対し、朝鮮を政治改革」

http://youtu.be/3BtvSdmABBo






服部順治 ‏@JunjiHattori 10月16日
伊藤博文は日韓併合に反対していたが、結局、欧米の金融マフィアにとって日韓が仲良くすることはまずいので暗殺したか? http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1222892577
伊藤博文は自分や天皇も朝鮮出自を認め、日韓併合に反対し、朝鮮を政治改革

http://youtu.be/3BtvSdmABBo


服部順治 ‏@JunjiHattori 10月17日
あー、萩史料館の館長の田布施の秘密の話も面白かったけど、ぜひ吉田松陰も重要。朝鮮から貨幣精錬製造技術を伝えた多々良一族で、大内家臣で商人で大儲けした菊屋も
http://tsukioto2011.blog65.fc2.com/blog-entry-87.html
吉田松陰歴史館ぜひご見学を!
https://www.youtube.com/watch?v=Purd9A3rgbM




服部順治 ‏@JunjiHattori 10月18日
石見銀山と朝鮮の精錬技術者らを使う大内、尼子、毛利ら戦国武将は後にイエズ­ス会と繋がる博多の金融マフィアである、豪商の紙屋氏らの思うままに操られていた?「古代の鋳銭所が2カ所もあった山口」
http://www.ymg-ssz.jp/chiikiseeds/mydbusers/view/20085/5

http://youtu.be/GL04ALdD-5E



服部順治 ‏@JunjiHattori 10月23日
【重要】田布施の秘密の核心は明治維新が朝鮮経由の天皇エタ(サンカ)らによって起こされその体制が今も続いている事。それを確信できたのは萩焼きの由来は松本焼きで、その松本村は朝鮮部落で吉田松陰が松下村塾を開いた地だと萩史料館で知ったから
http://youtu.be/Kuyv9HVN08I


服部順治 ‏@JunjiHattori 10月23日
朝鮮の人達が陶工技術を教えていた松本村。そこで吉田松陰は兵法技術を教えていたが、松本村塾と呼ばず、松下村塾と呼んでいた。本を下に変える事で東京出身の橋下徹のように卑下してみせる、一種の皮肉とのこと。ただ松下幸之助は萩とは無関係とのこと。日立、日産など芙蓉グループ企業の創業者に多い

服部順治 ‏@JunjiHattori 10月23日
【重要】山口の郷土史家によると安倍晋三が首相になる時に提出した家系図のいい加減さには怒りさへ覚える、と言う。安倍の字が同じ、と言う理由だけで山口の名家の家系をお金で買ったようだ。でもこれは佐藤栄作、岸信介らにも言えて、実の兄弟2人とも総理になった生家は落合家に売られ壊され証拠隠滅

服部順治 ‏@JunjiHattori 10月23日
角田(李)美代子らのような家の乗っ取りは山口の毛利家では常套手段で銀山などの財宝を奪うために尼子氏、大内氏らに身内を送り、内部から家を乗っ取り潰すと言う、かなりの悪事を尽くし相手の家族親戚から怨みをかっていたようだ。そのため毛利家としては強く結束する必要があり、あの三本の矢の話が


服部順治 ‏@JunjiHattori 10月24日
明治維新を起こした朝鮮の人達のパワーは日本人への怨念が元になってる!萩博物館の高杉晋作の説明でもテロリストの行動が一目瞭然! 菅直人や安倍晋三も同じ!「秀吉は朝鮮への侵略で18万人以上を殺害し、陶磁器を作れなかった日本に陶工を多数連行
http://treasonnews.doorblog.jp/archives/32992370.html


服部順治 ‏@JunjiHattori 10月25日
萩史料館で萩焼は松本焼と言われ、秀吉らが拉致した朝鮮陶工の部落だったことを知った。その松本村で先端技術の兵法などを教えていた松本村の塾。卑下して松下村塾と呼んでいた
http://meizengama.jp/meizenorigin.html
吉田松陰の松下村塾
: http://youtu.be/lUkpnfk0SD4


服部順治 ‏@JunjiHattori 16時間
明治維新で欧米のやり口をよく知っていたのは日本の資本主義の父、渋沢栄一で、欧米列強による日銀天皇支配と民族の狭間で苦しんだのは渋沢敬三。天皇や日本民族の源はどこか
http://www.ifsa.jp/index.php?shibusawakeizo
… 国立民族学博物館企画展
http://www.minpaku.ac.jp/museum/exhibition/special/20130919attic/index


服部順治 ‏@JunjiHattori 4時間
政府マスコミが必死に隠す明治維新の秘密はほぼ解けたが、次は天皇の初めての白村江の戦いの敗戦で唐・新羅の桃太郎はどう日本を作ったか?日本誕生の謎解きは妻の不幸で途上。ただどうも伽耶の賀陽氏が桃太郎軍の中心で百済支配を撃破して大和を日本に
http://www.sairosha.com/tabi/nazo/kinojo.htm


服部順治 ‏@JunjiHattori 2時間
石城山の麓で三国志城資料館をやってる谷千寿子さんの言うように中国地方は中国や朝鮮から逃れてきた人達の安住の地で、特に山上で山神として宗教を祭り政治を行い伝え、先端技術を教える場としてもよかった。その人達の墓が古墳として今も残る中国地方

http://books.google.co.jp/books?id=d5CF7kqBK5sC&pg=PA72&lpg=PA72&dq=%E6%B8%A1%E6%9D%A5%E4%BA%BA%E3%80%80%E8%B3%80%E9%99%BD%E6%B0%8F&source=bl&ots=CEvDyF1XnR&sig=UCLpCwm-9H2mEuo_zhRG_mo1jeM&hl=ja&sa=X&ei=etdqUtq7E8W5iQebrIGIBA&ved=0CCsQ6AEwAA#v=onepage&q=%E6%B8%A1%E6%9D%A5%E4%BA%BA%E3%80%80%E8%B3%80%E9%99%BD%E6%B0%8F&f=false




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<追跡!真相ゼロtoZ>
~ゼロの意味する原点の意味の原因を探り
 定量的、科学的にZの行き着く先の真相に迫る~

4 ザビエル以来、金銀の輸出先は中国朝鮮からヨーロッパへ

2013/10/26 ザビエル以来、金銀の輸出先は中国朝鮮からヨーロッパへ
追跡 真相 ゼロtoZ



貨幣博物館 展示概要





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<追跡!真相ゼロtoZ>
~ゼロの意味する原点の意味の原因を探り
 定量的、科学的にZの行き着く先の真相に迫る~

5 金銀を取り付くした欧米は明治維新で天皇日銀を支配し現在も

2013/10/26 金銀を取り付くした欧米は明治維新で天皇日銀を支配し現在も
追跡 真相 ゼロtoZ


服部順治 ‏@JunjiHattori 4時間
政府マスコミが必死に隠す明治維新の秘密はほぼ解けたが、次は天皇の初めての白村江の戦いの敗戦で唐・新羅の桃太郎はどう日本を作ったか?日本誕生の謎解きは妻の不幸で途上。
ただどうも伽耶の賀陽氏が桃太郎軍の中心で百済支配を撃破して大和を日本に
http://www.sairosha.com/tabi/nazo/kinojo.htm


服部順治 ‏@JunjiHattori 2時間
石城山の麓で三国志城資料館をやってる谷千寿子さんの言うように中国地方は中国や朝鮮から逃れてきた人達の安住の地で、特に山上で山神として宗教を祭り政治を行い伝え、先端技術を教える場としてもよかった。その人達の墓が古墳として今も残る中国地方
http://books.google.co.jp/books?id=d5CF7kqBK5sC&pg=PA72&lpg=PA72&dq=%E6%B8%A1%E6%9D%A5%E4%BA%BA%E3%80%80%E8%B3%80%E9%99%BD%E6%B0%8F&source=bl&ots=CEvDyF1XnR&sig=UCLpCwm-9H2mEuo_zhRG_mo1jeM&hl=ja&sa=X&ei=etdqUtq7E8W5iQebrIGIBA&ved=0CCsQ6AEwAA#v=onepage&q=%E6%B8%A1%E6%9D%A5%E4%BA%BA%E3%80%80%E8%B3%80%E9%99%BD%E6%B0%8F&f=false




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ツイートテレビからのお願い


※寄付と「買って支援」のお願い
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服部順治 ‏ @JunjiHattori

原発再稼動を停めようと佐賀県庁にのりこんだ山本太郎さんを
刑事訴訟した京都の行政書士の方が
なぜか半年近くも経った今頃、下記のビデオを見て、
その行政書士は幸福の科学の信者ではない、とのことで
「名誉毀損及び名誉感情侵害行為」で
慰謝料 45万700円を支払うように
こんどは私を訴えてきました。
(^_^;)

どうも小沢一郎さんと市民との対話という番組に出て
「裁判所もおかしい」と言った直後に告発している感じです。
(^_^;)

この行政書士と戦うためにも
裁判の費用が必要です。
左記の寄付欄より、
みなさんからのご支援をよろしくお願いいたします。


口座名 ツイートテレビ

■郵便局からの振込みの場合
口座 ゆうちょ銀行
記号 10090 
番号 98084911

■銀行からの振込みの場合
口座 ゆうちょ銀行
店番 008 普通預金
口座番号 9808491







ツイートテレビの中継/取材/講演などの要請の場合

 ツイートテレビもこれからUSTREAM中継やこのようなツイートテレビのやり方、ブログの作り方などのお話をさせてもらったり、取材要請があれば内容に応じてUSTREAM中継などもやってここで紹介させていただこうと思います。
 2人いっしょで中継時間、講演時間1時間あたり3000円で、実費の交通費も別にいただければありがたいかと思います。
 ツイートテレビのホームページのコメント欄で非公開コメントにチェックを入れていただき、メールアドレスや取材場所、時間(できれば午後3時以降)、お話の内容などを書いて送信していただければ、ご相談に応じます。
 よろしくお願いいたします。






主に日本の話題の元ネタ(^_^;)
歴史の真実の宝庫:八切止夫デジタル無料作品集
(次世代の人達と共有し戦争を繰り返さないために)

http://rekishi.info/library/yagiri/scrn1.cgi

東京新聞(日本で一番、真実を伝えてくれる新聞)
http://www.tokyo-np.co.jp/
クーリエ・ジャポン(日本のメディアは本当のことを言ってくれない、っていい宣伝文句だけど疑いながらチェック(^_^;))
http://courrier-japon.net/
阿修羅掲示板 拍手ランキング (24時間) (愛国者を気取る感情的なネット右翼や工作員などのコメントは除く(^_^;))
http://www.asyura.us/hks/ranking_list.php?term=1
オリーブニュース
http://www.olivenews.net/v3/
政治ブログ 注目記事ランキング(幸福の科学や創価学会など統一教会系は除く(^_^;))
http://politics.blogmura.com/ranking_entry.html

杉並からの情報発信です
http://blog.goo.ne.jp/yampr7

BLOGOS 意見をつなぐ、日本が変わる。
http://blogos.com/

ざまあみやがれい!
http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/

子どもを守ろう
http://savechild.net/

金融マフィアの意向を知ることができる主なマスコミ
サンケイニュース(元は産業経済新聞より財界や自民党、アメリカ ロックフェラー(統一教会)の意向(^_^;))
http://sankei.jp.msn.com/
読売ニュース(元は正力オーナーで戦犯で死刑確定をアメリカ側のCIAに協力することで無罪で釈放:アメリカの意向(^_^;))
http://www.yomiuri.co.jp/
毎日新聞ニュース(創価学会の聖教新聞をメインで印刷しているため創価学会の意向:統一教会の仏教部よりアメリカの意向(^_^;))
http://mainichi.jp/
NHKニュース(政府、官僚(アメリカ)側の意向を反映している:結局、アメリカの意向(^_^;))
http://www3.nhk.or.jp/news/



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世界の報道:話題の元ネタ(^_^;)

田中宇の国際ニュース解説
http://tanakanews.com/


デモクラシーナウ(市民サイドに近いアメリカのメディアでアメリカを中心に世界の市民の今を伝える )
http://democracynow.jp/

シリア国営ニュース SANA
http://sana.sy/index_eng.html
シリアニューズ(シリアからの情報 なるべく新しい情報ならこのツイッター情報
http://www.syrianews.cc/

日本語イラン ラジオ(アメリカ、ヨーロッパの負の側面を日本語で解説するイラン側のメディア:盲信はしない(^_^;))
http://japanese.irib.ir/


新唐人テレビ日本(アメリカ、香港の人たちから見た独立系中国テレビ:客観的に中国はもちろんアメリカも見れる(^_^;))
http://www.ntdtv.jp/

人民日報日本語版(中国から見た、日本の政治社会状況などがよくわかる(^_^;))
http://japanese.china.org.cn/

中国国際放送 日本語版(アメリカ、ヨーロッパの負の側面を日本語で解説する中国側のメディア:盲信はしない(^_^;))
http://japanese.cri.cn/index.htm

ロシアの声 日本語版(ロシアの国営放送で建前としてのロシアの現状がよくわかる:盲信はしない(^_^;))
http://japanese.ruvr.ru/

ロシア トゥデイ Russia Today(アメリカ、ヨーロッパの負の側面を抉り出して見せてくれるロシア側のメディア:盲信はしない(^_^;))
http://rt.com/

Dprogram.net(従来のプロパガンダに対抗するためのサイトでプログラムで縛られた人を解放する? (^_^;))
http://dprogram.net/




動画リンク
アメリカの「ウォール街を占拠せよ!=Occupy WallStreet」の理解のため




おすすめのガイガーカウンター(線量計) 
エステー化学のエアカウンターがいいようだ。(群馬大学の早川教授もおすすめ(^_^;))一方、海外旅行には2週間程度はつけっぱなしにでき、歩きながら危険を知ることができるロシア製ガイガーカウンタRD1503を薦めるのは院長の独り言@onodekita

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