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9/12(水) ニュース

2012/9/12(水) ニュース

<今日のツイートテレビニュースの話題>
                                                                                                                    Font MSP ゴシック サイズ11

2012/9/12(水)ツイートTV



1 頑固な薩摩人は殺せ:今も同じイエズス会のやり口
2 松下金融相暗殺:天皇エタらが企む人権委員会設置法案
3 自立的新秩序に向かう中東から東アジアの悪役にされる日本
4 911テロ:金融マフィアのショックドクトリンの新証拠
5 エケセテ姓のサンカの大統領大本様:裏から統治される日本






<ニュースウォッチ12:今日のニュース>
1 頑固な薩摩人は殺せ:今も同じイエズス会のやり口

2012/9/12(水) 概要 頑固な薩摩人は殺せ:今も同じイエズス会のやり口
2012/9/12(水)ツイートテレビニュース 概要 頑固 薩摩人 殺せ 同じ イエズス会 やり口







【速報】週刊新潮グーグルトレンドTOPに!【松下金融相自殺は陰謀?】「人権擁護法」に関する陰謀論がネット拡散中!

http://www.best-worst.net/news_ag5d3LfQ5G.html

【松下氏自殺】「なぜだ」国民新党や金融庁に衝撃 - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120910/crm12091021450019-n1.htm やられた。これで人権擁護法や外国人参政権に反対する閣僚がいなくなった。国民新党が最後の砦だったのに。これでACTA批准みたいにあっという間にヤラレルゾ。マジでヤバい。

ここで松下忠洋金融担当相の自殺。スワップ協定見直しと人権擁護法反対の立場をとっていたからというのを耳にしましたが。また死因は心筋梗塞か脳梗塞と言うんじゃないでしょうね?

★死ななくていい人は死んでしまう 死んだら喜ぶような連中は世にはびこる! 情けない・・・・・★人権救済設置法案 閣議決定の邪魔者を消したな民主党★人権擁護法関係通すために自殺に見せかけて暗殺した疑惑があります。★売国奴が殺した。 日本の未来は、限りなく暗い。

妄想ですが…警察もグルな気がする。他殺をあえて自殺に仕立て上げるとか…ね。RT @mitarasi_cat: 自殺?された松下金融相、人権擁護法反対派だったとの事。何?なんなの?昔から民主党議員から自殺者とか暗殺とかさ(cont) http://tl.gd/j84r3n

後任は同法案を進める安住RT @jingujiko: 人権擁護法に反対していた大臣。近日中に人権法、閣議決定されるらしいので、邪魔になり友愛された?@lovereddot 日韓スワップ停止派の松下金融相、自宅で首つり死亡! M速 http://www.msoku.net/archive/entry-372.html


まあ、冷静に考えたら自殺させるように見せかけるような殺人で政治家一人を抹殺しようというのは現実にはあまり起きそうにない。

別にそのようなリスクを負うこともなく、政治生命だけを立てばいい。なんでもかんでも「陰謀」というのは考えすぎだろう。

【naka773】



Twitter / 検索 - 金融相
https://twitter.com/#!/search/%E9%87%91%E8%9E%8D%E7%9B%B8
Google トレンド
http://www.google.co.jp/trends/
Amazon.co.jp : 金融相自殺 に関連する商品




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再生リスト:「国民の生活が第一」を支援する市民大集会 2012/9/1
http://www.youtube.com/playlist?list=PL2617FA4CFF36F3C5


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今日のイベント
原発関連:集会・イベント情報、Ustream番組表
http://2011shinsai.info/event/

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閑話休題

ツイッターの流行がわかる日刊ツイッターランキング 
http://twinavi.jp/news/daily?ref=top

今、話題の動画のランキング tweetmovie ツイートムービー 
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NAVERタブーまとめ

http://matome.naver.jp/topic/1LwS6








<<日本 クローズアップ現代:国内の話題>
2 松下金融相暗殺:天皇エタらが企む人権委員会設置法案

2012/9/12 松下金融相暗殺:天皇エタらが企む人権委員会設置法案
クローズアップ現代 日本 国内問題 クロ現 松下金融相 暗殺 天皇エタ 企む 人権委員会 設置法案




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松下金融担当大臣の死と人権委員会設置法案
2012/09/11 02:08

http://mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/2850942/

つい先ほど、松下忠洋郵政民営化・金融担当相(73)の死が報じられました。

10日夕方、東京・江東区の自宅で倒れているのが見つかり、病院で死亡が確認された。
出典FNNニュース
警視庁は、現場の状況から事件性はなく、自殺を図ったとみて調べている。
出典<松下金融担当相>自宅で自殺か 東京・江東 (毎日新聞) - Yahoo!ニュース
松下大臣の死去にともない、安住財務相が郵政民営化および金融担当相を当面兼務する見通し。
出典<松下金融担当相>自宅で自殺か 東京・江東 (毎日新聞) - Yahoo!ニュース

ところで、ツイッター上で、松下大臣の死と人権委員会設置法案との関係が取り沙汰されています。どこまで本当か、現段階ではまだ見極めることができませんが、そこに看過できないものがあるように感じられますので、あえてお伝えしておきます。

本当に自殺なのか?

taka19721972 タカ倶楽部
松下金融相が死亡。自民党時代に郵政造反した方で、 郵政民営化、スワップ停止 、TPP、人権擁護法案、外国人参政権に反対していた。亀井さんを追い出した国民新党に愛国者がいたんですね…大臣になった人は自殺しないでしょ。タイミング的にも非常に怪しい。やはり日本は非常事態なのか…


hide505050 つばめポッポ
松下金融相自殺理由の仮説。①通貨スワップ絡みで他殺②同ストレスによる自殺③人権法案賛成で見せしめの他殺④同止められないことに関してのケジメで自殺⑤何らかの警鐘を示唆するための自殺///私的にはこの法案、〇〇が反対派を本気で〇〇して見せしめしてでも通したいヤバイ法案と推測


21remon れなもん
フォロワーさんからの情報を元にまとめると、自殺した松下金融担当大臣は【日韓スワップ協定の延長停止】【外国人参政権反対】【人権救済法案反対】の立場の方で、特筆すべきは『明日、可決予定の人権救済法は、一人でも反対の大臣がいれば見送られるが、松下金融相は唯一の反対者だった』という件。

松下氏が他殺かどうかは措くとしても、彼が大臣のなかでただ一人の「人権侵害救済法案」の反対者であった、という事実は見逃すことができません。これで、同法案の閣議決定が強行される可能性が現実味を帯びてきたのはたしかなことです。これは、非常に困ったことです。

同法案の生臭さ・禍々しさについて、阿比留瑠衣氏は自身のブログで報じています。民主党と部落解放同盟とのどろどろとした関係がよく分かる内容になっています。
abirur.iza.ne.jp/blog/entry/2780123/

党執行部は、次回の総選挙対策の一環として、同党の支持基盤の一つである部落解放同盟の票固めをするために、当同盟による閣議決定の強い要求に応える方向でこれまで検討を重ねてきたようです。

では、同法案のどこが問題なのでしょうか。9月1日産経新聞の「産経抄」などを参考に列挙してみましょう。

(1)人権委員会は独立性が高く、コントロールできる大臣がいない。
(2)偏向思想の持ち主が委員長に選ばれた場合、すべての市町村に配置される委員会直属の人権擁護委員会が、「どこかに差別はないか」とウの目タカの目で見回る超監視社会になりかねない。(部落解放同盟の要人が委員長になった場合を想像してください)
(3)委員会が「深刻な人権侵害」と認定すれば、勧告のみならず警察や検察ばりに出頭要請や立ち入り検査もできるようになる。
(4)救済対象となる「不当な差別、虐待」の定義があいまいである。
(5)だから、委員会の恣意的な解釈で、彼らの気に入らない人物や組織に対する言論弾圧が自由自在にできうる可能性を排除できない。
(6)よって、同法案が、思想良心の自由(憲法第19条)・学問の自由(第23条)・表現の自由(第21条1項)に著しく抵触する可能性がある。
(民主主義と日本国憲法の大好きな日教組よ、なんとか言いなさいな)
(7)政治が「公共性」を無視して、普通の市民感覚から浮き上がった特定組織やそこに属する個人の利益誘導のために、公然あるいは隠然と利用される事態を招来する危険がある。すなわち、偏向思想の持ち主とその集団による政治の私物化の危険性が生じる。

おおよそ、こんなところです。気味が悪くなってきませんか。当ブログで民主党の悪口をさんざん言ってきた私などは、同法案が成立したあかつきには、ひょいとしょっぴかれそうな気がします。これには断固反対するほかありません。

同法案の閣議決定を封じ込めてきたたった一本の支柱が倒れてしまった以上、ここ数日間の党執行部の動向を、危機感を持って注意深く見守る必要がありそうです。まったくもって、困ったことです。先日来のACTAといい、今回の人権委員会設置法案といい、野田キョンシー末期内閣は、死んだふりをしていながらどさくさに紛れてなにをやるか、わかったものではありません。油断も隙もない、恐ろしい悪質な連中です。

カテゴリ: 政治も > 経済政策 フォルダ: いわゆる人権救済法案


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民主党が解放同盟に尻を叩かれている件について
2012/08/03 11:11
 
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/2780123/

さて、1日の話ですが、民主党の「人権政策推進議員連盟」の中野寛成会長らが首相官邸に野田佳彦首相を訪ね、人権救済機関「人権委員会」を法務省の外局に新設する人権救済機関設置法案の今国会成立に向けて、早期に閣議決定するよう求める要請書を提出しました。


 議連の役員メンバーは中野氏のほか江田五月元法相、中井ひろし元国家公安委員長、平岡秀夫元法相、松本龍元復興担当相、福山哲朗前官房副長官、大島九州男、林久美子、藤谷光信、前川清成の各参院議員です。
同席者によると、首相は「頭の整理ができたので、しっかりと対応したい」と答えたとのことです。何をどう整理したのだか心配です。また、議連のメンバーはなぜこの時期かについて「国会がこういう感じでどうなるか分からないからね、やれる時にやりましょうということじゃないのかな」と語りました。つまり、どさくさに紛れてことを運ぼうということのようです。

 運動というものは、かくあるべきなのでしょうね。何度つぶされようと駄目になろうと、諦めずに次をうかがう。その強靱な精神力と持続力は、この法案に反対する側もぜひ学びたいところだと皮肉でなくそう思います。

 で、頭の片隅で「またか」とこの問題について考えつつ、今朝、夕刊当番で出勤したところ、政治部宛てに部落解放同盟の機関紙「解放新聞」(8月13日号)が届いていました。その1面トップ記事はというと……

 「『人権委設置法案』成立に向け 民主党の人権政策推進議員連盟が臨時総会」という見出しの大きな記事でした。記事によると、臨時総会は7月25日に参院議員会館で開かれ、47人の衆参国会議員(代理含む)が出席し、解放同盟の組坂繁之委員長が「民主党政権らしく、できるだけ早く成立させてもらいたい」とあいさつしたとのことです。

 また、小川敏夫前法相が次のように語ったことも記されていました。

 「法案はほぼ条文化されている。成立への環境は整っている。閣議決定されれば、党法務部門会議でも速やかに協議するなど、しっかりやりたい」

 解放新聞は2面の「主張」欄でも「『人権委員会設置法案』の実現に向けて今国会での闘いに総力をあげよう」と呼びかけ、次のように書いていました。

 「われわれが政権交代に求めてきたのは、人権・平和・環境を軸にした政治の実現である」「反対論への配慮から閣議決定がされないとしたら、野田政権は、まさに政権交代の理念を喪失したものといわざるをえない」「民主党政権のもとで法案を実現するという、これまでの闘いの基調、そして人権・平和・環境を軸にした政治の実現という、政権交代の意義をあらためて確認し、『人権委員会設置法案』の実現に向けた闘いを全力ですすめよう」

 民主党議員にとっては次期衆院選、来年の参院選を前にして、支持団体である解放同盟の票を固める必要があり、その圧力をひしひしと感じているのでしょうね。目下、政局は緊迫の度合いを高めており、この法案がただちに動くという状況にはないと思っていましたが、注意深く見守る必要があるようです。まあ、選挙対策上のポーズ、パフォーマンスである可能性もありますが、用心するにこしたことはありませんね。

 ところで話は飛びますが、最近の、追い詰められて目がますますうつろとなり、挙動不審で破壊衝動にかられているような鳩山由紀夫元首相の言動を見ていると、この人には邪神ニャルラトホテプの別名である「這い寄る混沌」というイメージがぴったりだなと思うようになりました。鳩山氏が現れると、すべてがカオスの中でぐちゃぐちゃになっていくなあと……。




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<世界 クローズアップ現代:海外の話題>
3 自立的新秩序に向かう中東から東アジアの悪役にされる日本


2012/6/7 自立的新秩序に向かう中東から東アジアの悪役にされる日本
クローズアップ現代 世界 クロ現 海外問題 自立的新秩序 向かう 中東 東アジア 悪役にされる 日本







中東の窓


http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/

シリア情勢(11日)


2012年09月12日 08:45

シリア
中東関連


11日のシリア情勢に関し、アラビア語メディアのネットから取りまとめたところ次の通りです。
なお、ダマスを巡る情勢についてはal qods al arabi net がシリア軍事筋から聞いたところをかなり詳しく報じているので、その分だけ別途報告します。

・シリアでは11日少なくとも105名が死亡した。
その大部分がホムス、ハマ、dir al zur
であった。(これまで死者というと必ずダマスとアレッポとそれぞれの近郊という名前が出ていましたが、その2が消えていることが注目されます。勿論両方での戦闘は継続している模様ですが)

・政府軍は、自由シリア軍への補給を阻止するために、アレッポ、ラタキア、ハマの近郊への爆撃を再開した。
アレッポ郊外では政府軍のパン屋に対する爆撃で15名が死亡した。
政府軍は各地で大砲の他にミサイルも使用して住宅を破壊している。
・http://www.alquds.co.uk/index.asp?fname=latest\data\2012-09-11-11-58-46.htm
http://www.aljazeera.net/news/pages/e37ef5d6-0b80-429e-859e-bf9b5f4282c9?GoogleStatID=1

・アラブ連盟の会合が常駐代表レベルで、12日開催され、ブラーミ国連特使も出席する予定。ブラーミ氏はその後シリアでアサドと会談する予定。
http://www.aljazeera.net/news/pages/f248aa2f-36f4-4c0a-80be-e9f923a39ee8?GoogleStatID=1

・エジプト提案による4か国(エジプト、トルコ、サウディ、イラン)会合が高級事務レベルで開催されたが、イランと他の国の立場の相違のため、特段の進展はなかった模様だが、さらに協議を続けることに合意しており、近く外相レベルの会合も開かれる可能性があるとのことである。
なお、イランが会合でイラク及びベネズエラを加えることを提案した由。
http://www.aljazeera.net/news/pages/f248aa2f-36f4-4c0a-80be-e9f923a39ee8?GoogleStatID=1

・仏外相は、仏がこれまでも複数のシリア要人の亡命を支援したが、そのうちにはタラス准将も含まれていたと述べた(タラス准将も仏情報機関に亡命を助けられたと述べたことは先にご報告済み)
同外相はまた、仏は反政府派に対して武器援助はしていないとも述べた
http://www.aljazeera.net/news/pages/f248aa2f-36f4-4c0a-80be-e9f923a39ee8?GoogleStatID=1


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広島原爆生存者が、パレスチナ被占領地で反核デモ
ラジオイラン
http://japanese.irib.ir/news/latest-news/item/31748-%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E7%88%86%E7%94%9F%E5%AD%98%E8%80%85%E3%81%8C%E3%80%81%E3%83%91%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%8A%E8%A2%AB%E5%8D%A0%E9%A0%98%E5%9C%B0%E3%81%A7%E5%8F%8D%E6%A0%B8%E3%83%87%E3%83%A2

広島の被爆者たちが、パレスチナ被占領地・イスラエルにあるベイトルモガッダス・エルサレムで、シオニスト政権イスラエルの核兵器廃絶を訴えました。

AP通信によりますと、この日本人の団体は、イスラエルを訪問し、核兵器の廃絶を求めました。
核兵器廃絶を訴えるこのグループはまた、10日月曜、ベイトルモガッダスにある聖地を見学しました。
イスラエルは、中東で唯一、核兵器を保有しており、様々な報告によれば、およそ200個の核弾頭を備蓄しているとされています。
イスラエルは、IAEA国際原子力機関に核施設の査察を許可しておらず、NPT核兵器不拡散条約にも加盟していません。

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アルカイダ指導者の弟、西側に停戦呼びかける

タグ: 中東, 北米・中南米, 米国, 国際, 記事一覧, 政治, アルカイダ

11.09.2012, 17:16

http://japanese.ruvr.ru/2012_09_11/arukaida-oubei-teisen-yobikakeru/

(c) Photo: EPA
国際テロ組織「アルカイダ」指導者の弟、モハメド・ザワヒリ氏は米国のテレビ局CNNによるインタビューの中で、西側諸国、特に米国に対し、イスラム主義者との和平合意を呼びかけた。
ザワヒリ氏によると、氏は西側諸国の代表者とイスラム主義組織を仲介する用意があるとのことだ。

「アルカイダ」指導者の弟は、10年間の和平を提案する準備があると宣言した。和平の基礎となるポイントは、米国および西側諸国がイスラム諸国およびイスラム教育の原則を妨害しないことだ、という。さらに、イスラム過激派との関係が疑われ、米国の監獄に収容されている人々を解放することも、和平の条件だとした。

代わりにイスラム主義組織は米国・西側諸国の国益を損ねる活動を停止し、「ムスリム諸国における米国・西側諸国の法的利益を守」り、さらに「米国・西側諸国への挑発を中止する」とした。

モハメド・ザワヒリ氏は兄のアイマン・ザワヒリ氏に対する十分な影響力を持っており、「アルカイダ」指導者である兄は、自分の言うことを聞き入れてくれるはずだと確信している。ただし、CNNのインタビューの中でザワヒリ氏は、兄とは10年来話をしていない、とも語った。

ロシアのマスメディアより

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米国、イランの大型資金を洗浄したとして英国銀行を非難
ロシアの声
タグ: 北米・中南米, 国際, 記事一覧, 経済, アジア・オセアニア, ヨーロッパ

7.08.2012, 13:28
http://japanese.ruvr.ru/2012_08_07/beikoku-igirisu-iran/

Photo: EPA
米国の監察機関は英国のスタンダード・チャータード銀行がイランに対し違法なオペレーションを行い、2500億ドル相当の資金洗浄を行なったとして、これを非難した。
ニューヨーク州当局の金融サービス課は、9ヶ月間にわたりスタンダード・シャータード銀行とイランの政権、企業との関係を探った結果、同銀行が対イラン国際制裁を回避して、こうした違法行為を過去およそ10年間にわたって行なっていたことが判明した。
捜査によると、同銀行はイランの顧客についての情報を偽のものにすりかえることで、銀行間決済を偽造しており、これによって米国における営業権が剥奪される恐れも取りざたされている。

これに対しスタンダード・チャータード銀行側は非難内容を完全に否定している。

7月半ば、米上院では英国に拠点を置くHSBCホールディングスの活動をめぐる公聴会が開かれた。HSBCホールディングスはメキシコの麻薬カルテルおよびイラン、シリア、朝鮮民主主義人民共和国といった国際社会から離反する国々の大量の資金洗浄を行なっていたとして非難されている。

インターファックス通信。

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自立的な新秩序に向かう中東
http://tanakanews.com/120907NAM.htm

2012年9月7日   田中 宇
 8月14日にサウジアラビアのリヤドで開かれたイスラム諸国会議(OIC)と、8月29日にイランのテヘランで開かれた非同盟諸国会議(NAM)という、中東、アジア、アフリカなどの発展途上諸国を集めた2つの国際会議が、中東の国際政治体制を大きく転換した。 (Egypt and Iran, new twin pillars)

 以前の中東は、油田の安全を米国に守られたサウジと、ムバラク前大統領による独裁体制だったエジプトというスンニ派の2大国が、対米従属的な親米諸国として、米イスラエルが敵視するシーア派のイランと対峙する体制だった。79年のイラン革命以来、米国はスンニ派とシーア派の対立を煽る分断戦略で中東を支配し、サウジやエジプトは政権維持のため、米国の分断戦略に乗っていた。

 しかし、リヤドでのOICで、主催国のサウジは、仇敵であるはずのイランのアハマディネジャド大統領を会議に招待したうえ、サウジ国王は自分の隣の特等席にアハマディネジャド大統領を座らせ、イランとの和解を演出した。イランは、米軍撤退後のイラク(国民の6割がシーア派)を傘下に入れ、バーレーン(国民の7割がシーア派)では、スンニ派で親サウジの王政を倒すシーア派の民主化要求の反政府運動を隠然とテコ入れしている。シリアでは、サウジが支援する反政府勢力(米英諜報機関傘下のアルカイダ系)と、イランが支援するアサド政権が内戦を続け、膠着状態にある。 (Saudi king sits next to Ahmadinejad)

 イラクでもバーレーンでもシリアでもレバノンでも、サウジが支援するスンニ派勢力が苦戦し、イランが支援するシーア派系の勢力が台頭ないし巻き返している。サウジ王室は、米国がイランに核兵器開発の濡れ衣をかけて制裁・攻撃し、無力化してくれると期待してきたが、米国主導のイラン経済制裁は抜け穴が多くて効果が薄く、逆に、反米感情の強まる中東やイスラム世界でイランが英雄視される傾向が強まり、イランの国際台頭を招いている。 (◆イラン危機が多極化を加速する)

 サウジは、中東での米国の力が落ちていることもあってイランの影響力を認めざるを得なくなり、敵視策を懐柔策に変えることにしたのだろう。サウジとイランは引き続きライバルであり、表面的な和解のイメージと裏腹に両国関係の基本は対立的だ。だが、表面だけでもサウジがOICサミットでイランを宥和せねばならなくなったことは、中東での米国覇権が弱まり、スンニ対シーアで対立させられていた状態から、中東諸国が自立的な関係を持つ新秩序へと転換しつつあることを示している。 (◆米覇権後を見据えたイランとサウジの覇権争い)

 続くテヘランでのNAMサミットは、世界の人口の55%を占める150カ国の首脳や代表が出席し、バンキムン国連事務総長も、米イスラエルの反対を押し切って出席した。サミットは、イランに核の平和利用を行う権利があることと、中東(イスラエル)と世界の核兵器廃絶を進めることを全会一致で決議した。これまで、イランが核兵器開発しているという米イスラエルが作る濡れ衣を世界が鵜呑みにして、イランが悪で米国が善という構図が流布していた。NAMサミットは、米国のイラン非難が濡れ衣であり、イランが善で米イスラエルが悪であると世界の大半の国々の代表が認めるという、善悪の逆転を引き起こしている。 (It's Cool To Be Non-Aligned)

 NAMは、米ソ冷戦が激しかった1955年に、米ソどちらとも同盟しない「非同盟」を掲げ、アジア・アフリカ・中南米など発展途上諸国の団結によって米ソ対立を乗り越える新世界秩序を作ることを目標に結成され、60年代にある程度の政治力を持った。だが、米国CIAなどが、非同盟の指導者だったインドネシアのスカルノ大統領を失脚させて米国傀儡のスハルト政権を作ったり(オバマ大統領の母や義父がそれに協力していた)、米欧の金融機関が途上諸国に借金させて返済不能に追い込み、首を回らなくする累積債務問題を起こしたりして、80年代までに途上諸国の多くが自立的な状態を奪われた。 (The South gathers in Tehran) (◆CIAの血統を持つオバマ)

 80年代後半にソ連が衰退する一方、米英主導の債券金融システムが世界を席巻する金融覇権が始まり、途上国の多くが米英型の経済政策を採りたがり、非同盟運動は力を失った。しかしここ数年、米軍やNATOによるイラクやアフガニスタンの軍事占領の失敗で、途上諸国やイスラム諸国の反米感情が再燃し、08年のリーマンショック以降は金融覇権体制も崩れ出した。米欧中心の世界体制が機能不全に陥り、途上諸国の人々がより公平な世界体制を求めるようになった。歴史的に非同盟に近いインドやブラジル、中国、南アフリカを含むBRICSが台頭し、米欧中心でない多極型の世界秩序を求めるようになり、非同盟諸国の国際運動が再活性化する素地が生まれた。 (A Major Failure by Washington, A Blast From the Past: The Non-Aligned Movement)

 そうした中、米欧から濡れ衣をかけられて敵視・制裁され、米欧中心の世界体制に最も迷惑しているイランが、ちょうど今年から3年間NAMの議長国になり、テヘランでサミットが開かれた。中露や途上諸国の中には、以前からイランの核兵器疑惑を米欧による濡れ衣と看破し、米欧に批判的な国が多い(IAEAの報告書をよく読めば濡れ衣とわかる)。イランは、自国にかけられた圧力をはねかえすため、BRICSや途上諸国の結束を強化して米欧に対抗し、世界秩序を米欧中心から、イスラム世界を米欧の抑圧から解放しうる多極型に転換し、中東から欧米の影響力を追い出し、イスラエルを無力化し、イランを中東の主導国の一つにするところまでやろうとしている。この策略を現実に近づけられる点で、今の時期にNAMの議長国になったことは、イランにとって好機だ。 (`Iran to open new page in NAM history') (Iran brings new direction to NAM)

 NAMは、テヘランのサミットで「国連の民主化」を提唱した。今の国連は、世界秩序のあり方を決める国連の最重要機関である安保理事会が、米欧中露の常任理事国に権限が集中しており、途上諸国から見ると非民主的な体制だ。多数決で決める国連総会の地位を向上させ、世界の諸国の大半を占める途上国の権限を強めるのが、イランなどNAMの目的だ。 (Iran NAM summit - Show of International solidarity)

 国連の民主化、非欧米化の圧力は高まっている。国連機関の一つIAEAでは、アラブの17カ国が、IAEA非加盟のまま核兵器を持っているイスラエルを非難する決議を、9月の総会で提起する。イスラエルは中東で核兵器を持っている唯一の国で、イスラエルに核廃絶させることは、オバマ政権も提唱した「中東非核化」や「世界的核廃絶」につながる。 (Israel angered over IAEA vote on nukes)

 オバマ政権は「親イスラエル」を掲げつつ「中東非核化」を推進し、イスラエルに対して二枚舌の姿勢をとっているので、アラブ諸国が提案する中東非核化を容認する傾向がある。IAEAがイランでなくイスラエルの核を問題にすることは、IAEAの主導権が米欧から途上諸国や中露に移ることを意味する。イランが台頭し、イスラエルが不利になるのに合わせ、イスラエルや米国の右派は、イスラエルにイラン空爆を挙行させる要求を強めている。 (Israel Rails Against IAEA Vote on Nuclear Arsenal) (Tehran summit echoes to war chants)

▼中東のすべての政治問題の枠組みが変わる

 イスラエルは、いずれ核廃絶を迫られて窮し、核兵器を奪われてアラブ諸国に攻め入られて国家が滅亡するなら、その前に世界を巻き込んで核戦争を起こしてやれと、イランやアラブ諸国などに核ミサイルを撃ち込む「サムソン・オプション」「ハルマゲドン」を挙行するかもしれない。その場合、中東は先行き不明の大戦争になるが、イスラエルとイスラム諸国の双方に国家的理性があり、パレスチナなど中東の諸問題を戦争でなく交渉で解決しようとするなら、今後の中東は、米欧の影響力が低下し、イラン、エジプト、サウジ、トルコという地域4大国間の交渉で動いていくだろう。そこにイスラエルがどう絡むかが、まだ見えてこない部分だ。

 喫緊の課題の一つは、シリア内戦だ。イランがアサド政権を、サウジとトルコと米国が反政府勢力を支援し、国際対立している。内戦開始後、いったん反政府軍が優勢になったが、その後、アサド政権の国軍が反政府軍からいくつかの地域を奪還した。だが長期的にみると、アサド政権は失脚しそうだ。 (エジプト革命の完成と中東の自立)

 モルシー政権になって政治的に米国から自立し、中東5大国の一角を担い始めたエジプトのモルシー大統領は、OICサミットに際し、エジプト、サウジ、イラン、トルコの4カ国で、米欧抜きでシリア問題を解決する新たな枠組みを提唱し、4カ国の支持を取り付けている。モルシーはその後、テヘランのNAMサミットにも出席し、アサド政権を強く非難する演説を放った。シリア代表は怒って退席したが、親アサドのはずの議長国のイランは、モルシーの発言を黙認した。 (Mursi Lashes Syria, Sparks Walkout at NAM Summit)

 このような流れをみて、イスラエルの新聞は、イランが最終的にアサド政権を見放し、その見返りとして中東の国際政治において大国の立場を得る道を選ぶだろうと分析している。 (In Syria crisis, Iran seeks regional power even if it means losing Assad)

 代わりの政権を用意せずアサド政権を潰すと、シリアはスンニ派とアラウィ派が殺戮しあう長期内戦になる。従来、米国やサウジは、この混乱のシナリオを描いていた。半面、エジプトの新提案は、代わりの政権を用意してからアサドを辞めさせる案と考えられる。長らくシリアの野党だったムスリム同胞団を強化して新政権をとらせるつもりだろう。シリアの同胞団はもともと、モルシー大統領が属するエジプトの同胞団と兄弟組織である。 (Morsy on path-breaking visit to China, Iran)

 従来の米サウジの戦略は、親イランのアサド政権を潰し、シリアを親イラン(アサドは非スンニのアラウィ派)から反イラン(スンニ主導)に転換することを目的とし、サウジ主導のスンニがイラン主導のシーア(非スンニ)を潰したいサウジ王政の国家戦略と、スンニとシーアを恒久対立させたい米英イスラエルの中東戦略に基づいていた。一方、モルシーの新提案は、シリアをムスリム同胞団の政権にするという、同胞団が漁夫の利を得る策略であるものの、中東を米英イスラエルの傀儡下から解放し、地域の主要国間の協調で、シリアを再び安定させようとする安定重視の枠組みと考えられる。

 サウジは、イランを無力化できないものの、アサドを追放することで、シリアを親イランから離脱させられる。イランは、アサドが辞めてシリアがイラン傘下から離脱するのを看過せねばならないが、代わりに地域大国の一つとして公式に認められ、中東での米欧イスラエルの影響力を低下させるという大きな目標を実現でき、国際社会における自国の立場を大幅に強化できる。トルコは従来、アサドに言うことを聞かせて中東での影響力を拡大しようとしていたが、シリア内戦の長期化でそれが失敗し、窮している。モルシーの新提案は、トルコの面子を保てる点で歓迎されている。

 シリアの隣のレバノンも、長らく米欧(米仏)が国内政治に介入し、この30年ほどはシリアが対抗的にレバノンに介入し、対抗してイスラエルが介入して対峙し、最近ではイランがシーア派武装勢力ヒズボラをテコ入れし、ヒズボラは事実上の与党にまで台頭した。今後、米欧の影響力が低下して中東諸大国間の協調が強まれば、レバノンも新たな枠組みで安定化が模索されるだろう。似たようなことは、シリア、トルコ、イラク、イランに分割されて住み、百年前から英米イスラエルの中東介入の道具にされていたクルド人についてもいえる(複雑なので詳述しない)。8月のOICとNAMで示された中東政治の新たな方向性は、中東のあらゆる政治問題の枠組みを変えそうだ。 (Can Egypt Defuse the Iranian Nuclear Crisis?)

 最近、モルシーもアハマディネジャドも「最も重要なのはパレスチナ問題だ」と言っている。中東で米欧の支配力が弱まり、代わりにイスラム側の4主要国の協調体制が組まれていく中で、もう一つの中東の地域大国であるイスラエルは、これとどう絡むのか。協調できるのか戦争しかないのか、問題が全く未解決だ。イスラエルがイスラム側と協調するなら、パレスチナ問題で譲歩せねばならない。国連が何度も決議したもののイスラエルが無視しているパレスチナ和平案に沿って、西岸入植地群や東エルサレムの占領をやめてパレスチナ人に返還する必要がある。 (At Islamic conference, Egypt's Morsi calls for regime change in Syria)

 イスラエルの内部には、イスラエル国家が潰れてもかまわず占領地の返還に絶対反対する「親イスラエルのふりをした反イスラエル」の右派が巣くっている(多くが米国出身)。パレスチナ問題は、アラブとパレスチナの交渉の問題でなく、イスラエルが国内右派の妨害を乗り越えて交渉に座につけるのかという、イスラエル(もしくは在米を含むユダヤ人)内部の問題になっている。 (Abbas: Settler attacks carried out under IDF watch)

 今のところ、イスラエルは右派の妨害を乗り越えられていない。米国とイスラエルの仲も、潜在的に悪化している。米国は「イスラエル(亡き)後の中東情勢に対する準備をしている」との指摘すら出ている。聖書に書いてあるので不可避とされる「ハルマゲドン」が起きるしかない。 (US Preparing for a Post-Israel Middle East?)

・・・と書きつつ、実は私は、ハルマゲドンが起きる可能性を低く見積もっている。世界のシステムを立案するニューヨークあたりのユダヤ人たちは、イスラエルの滅亡と中東の核戦争を本気で起こしたいのでなく、そのようなものが起きそうだと世界とイスラエルをたきつけて、イスラエルをぎりぎりまで追い込み、イスラエルが米欧を見限って、中露など多極型新世界秩序の側に転向し、多極化を積極推進する方に押しやろうとしていると、私は考えている。 (◆多極化に呼応するイスラエルのガス外交)

 エジプトのモルシー大統領は、NAM出席のためイランに行く前に、中国を訪問した。エジプト経済を中国式に改善する案も出てきた。オバマ大統領は就任直後のモルシーに親書を書き、米国に招待したが、モルシーが向かったのは米国でなく、中国だった。モルシーは覇権の多極化を見据えており、中東安定化の一環として、中国などBRICSとの協調を強めたがっている。多くの読者は「多極化」より「ハルマゲドン」の方が、はるかに気になるだろう。しかし、今の世界の流れの本質はハルマゲドンでなく、多極化にある。 (Morsy on path-breaking visit to China, Iran)


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東アジア新秩序の悪役にされる日本

http://tanakanews.com/120829japan.htm


2012年8月29日   田中 宇
 8月17日、北朝鮮の金正恩の摂政役で、事実上の国策決定者である張成沢(金正日の妹の夫)が北京を訪問し、胡錦涛主席や温家宝首相といった首脳陣と会談した。張成沢は、9月に金正恩を訪中させたいので国賓として受け入れてほしいと中国側に要請した。中国側は、北朝鮮を同盟国として支持するとともに、北朝鮮が中国式の経済改革を採用すれば経済発展できると勧めた。中朝は、両国の国境地帯の北朝鮮側にある黄金坪や羅先の経済特区で、経済協力を強化することを決めた。 (China's Wen urges North Korea to let the market help revamp economy)

 張成沢は、妻(金正日の妹)である金敬姫と一緒に、以前から北朝鮮の中枢で、中国式の経済開放策をやろうとしてきた。先代の指導者だった金正日は、支援元のソ連が崩壊して北朝鮮が飢餓状態になった90年代、軍部に権力を与える「先軍政治」をやらざるを得ず、昨年末に死ぬまで軍部に頭が上がらなかった。だが今年、金正恩への世代交代が行われるとともに、摂政役の張成沢が、権力中枢の軍幹部(李英鎬ら)を7月に更迭して軍から実権を奪い(朝鮮労働党への権力返還)、北朝鮮の国策を経済開放の方向に大きく転換し始めた。その流れの中の最新の動きが、今回の張成沢の訪中であり、中国が北朝鮮の経済開放策への協力を強めると決めたことだ。 (◆経済自由化路線に戻る北朝鮮)

 北朝鮮は最近、平壌に駐在する米国のAP通信社に、中朝国境の羅先経済特区を取材させたりして、外資導入に向けた宣伝にも力を入れている。 (China's flagging economic aid to North Korea)

 北朝鮮はこれまで何度も経済開放策を試みて失敗し、中国の協力も無為に終わってきたので、今後の試みも成功するとは限らない。だが今回が従来と決定的に異なるのは、北朝鮮の中枢で張成沢ら経済改革派が権力を握り、経済改革に反対してきた軍部が失権したことだ。今後、北朝鮮は経済面で中国の傘下に入る傾向をさらに強めるとともに、中国がいやがる核実験や韓国との交戦を避ける傾向を強めるだろう。

 この変化は、経済崩壊していく北朝鮮を支援する優位な立場で南北間交渉をしていこうと考えていた韓国政府にとって、危機的だ。韓国優位の南北統一ができなくなり、中国に仲裁してもらわないと北との対話もできなくなる。北朝鮮が中国の傘下でうまく経済成長していくと、韓国の出る幕はなくなり、韓国がいずれ取ろうと考えてきた北朝鮮の経済利権は、中国にもっていかれる。韓国が頼みの綱にしてきた米国は、この数年、ときどき北朝鮮との交渉を試みるも失敗し続け、問題の解決に本腰を入れるまでに至っていない。韓国は今後、米国でなく、中国を仲裁役として頼って北朝鮮と向き合っていく時代に入る。韓国にとって最重要の国が、米国から中国へと、静かにだが劇的に転換している。 (Ties with China Are Key to Korea's Future)

 そうした現状に立つと、韓国の李明博大統領が8月10日に竹島を訪問し、日韓関係を劇的に悪化させた背景も見えてくる。以前の記事に書いたとおり、今後の韓国は北朝鮮への敵対をゆるめ、南北対話を再開せねばならないので、代わりの悪役として再び日本を引っ張り出す策略だろう。米国政府は、日韓に安保協定を結ばせて、日米と米韓がバラバラだった東アジアの安保戦略を日米韓の三角関係に転換させたい。だから李明博は、これまで日韓関係を良好に保とうとしてきた。だが今や、韓国にとって米国の重要性が落ちている。だから韓国側は、米国の思惑を無視し、米国側からの批判に耳を貸さず、竹島問題で反日感情を煽っている。 (◆李明博の竹島訪問と南北関係) (Time for U.S. to help Japan, South Korea to get along)

 李明博は来年初めに大統領任期が終わって下野するので、今後万が一、韓国が再び日本と協調せねばならなくなったら、その時の韓国は次期政権だろうから、日本との喧嘩を李明博の竹島訪問のせいにして、再び日本と協調できる。人気が落ちている李明博は、次期政権を狙う同僚の朴槿恵に頼まれ、竹島訪問、反日扇動の戦略に乗ったのかもしれない。

 この時期、米国の裁判所は、韓国側の感情を逆撫でするかのように、米国企業であるアップルと、韓国企業であるサムソンの、スマートフォンの技術特許をめぐる裁判で、アップル一方的勝訴の判決を出した。これは、米国企業を勝たせたい陪審員の政治判断の結果なので、韓国側は怒っている。韓国には、米韓FTAに対する不満も残っている。韓国は、経済面でも米国との同盟関係から離脱していくかもしれない。

(日本政府は4年ぶりに北朝鮮との直接交渉を再開する。これも、北朝鮮をめぐる状況の変化を受けた動きだろう。交渉を北京でやるところがポイントだ。尖閣問題でいくら中国と対峙していても、力関係からいって、日本は北朝鮮との交渉を北京でやらざるを得ない) (North Korea, Japan to hold first direct talks in four years)

▼アーミテージ・ナイ論文との関係

 竹島をめぐる韓国の思惑は分析できた。尖閣をめぐる中国の思惑はどうか。尖閣も竹島と同様、今回の対立激化は、日本側からでなく、相手方(竹島は韓国、尖閣は中国)から扇動されている。中国側は8月15日に活動家集団を船で送り込んで尖閣に上陸し、日本政府が彼らを逮捕すると、中国全土で同時多発的に反日デモが起きた。これらの一連の動きは、市民が自然発生的に起こしたというより、中国共産党が意図的に流れを作ったものだろう。その意図は何か。

 中国側の事情として存在するのは、10月に胡錦涛から習近平への権力継承が本格化するので、その時期に国内政治で何か世論の怒りをかう事態になった場合に備え、日本という外部の敵を作っておくのが好都合ということだ。

 その見方よりもっと私が注目したのは、米国政界に依頼され、米シンクタンクのCSISが8月15日に発表した、日米同盟の今後に関する「第3次アーミテージ・ナイ論文」だ。この論文は日本に対し、台湾やインド、オーストラリア、フィリピンといった、中国を取り囲む民主主義諸国との協調を強め、米国が作っている中国包囲網の強化に貢献するよう求めている。 (Anchoring Stability in Asia - The U.S.-Japan Alliance) (US report urges Japan to work with Taiwan on security)

 共和党のアーミテージと民主党のナイが連名で作る、日米同盟に関する論文は2000年以来、今回が第3弾だ。論文は毎回、日本に対し、東アジアでの米国陣営の強化にもっと積極的に貢献せよと求めている。今回も同じ流れだ。しかし、東アジア情勢の全体をめぐる変化を見ると、この10年間で、政治経済の両面で、米国が弱体化し、中国が強くなって、米国が中国の台頭を容認せざるを得なくなっている。米国は、ブッシュ政権が提唱した「G2」など、ときに中国を東アジアの地域覇権国として認める言動すらしている。米政府は、日本に中国との敵対強化を求めるが、その一方で米国自身は中国に対し、融和策と敵対策が入り交じる曖昧な態度をとっている。

 こうした全体像をふまえると、アーミテージ・ナイ論文が日本に求めることは「米国の傘下でアジアの中国包囲網強化に貢献せよ」から「米国の助けを借りず、独自に中国と対決せよ」へと変化している。日本の権力中枢(官僚機構)がやりたいことは、対米従属の維持であり、中国との敵対でない。米国が、日米同盟を強化してくれるなら、日本は、米国の傘下で、虎の威を借る狐的に中国敵視の態度をとっても良いと考えているが、米国の後ろ盾がないなら、日中の経済関係が大事なので、中国との敵対を強めたくない。アーミテージ・ナイ論文の要求は、日本にとってしだいに迷惑なものとなっている。

 この論文が8月15日という、中国にとって反日(対日解放)の記念日である日を選んで発表されたことも重要だ。論文がこの日に発表されることは、事前に周知されていた。この論文が象徴する「米国が日本を、中国との敵対する方向に追いやろうとする」動きや、石原都知事が4月の訪米時に突如として尖閣買い上げを提唱したという、米国が尖閣問題で日本側を扇動している動きを見た上で、中国が8月15日以降、尖閣問題で反日的な態度を強めていることを見ると、中国共産党は日本に対し「米国の傘下でなく独自に中国包囲網を強化できるというのなら、これでもくらえ。中国人の怒りを受けてみよ」という政治的な先制攻撃をしてきたと考えられる。

 台湾を併合したい中国にとって、尖閣問題は、台湾を取り込んで中台が共通の敵を作れる格好のテーマだ。今秋から中国の権力を握る習近平が、歴史に名を残すためにやりたいことの一つは、このところ中国に取り込まれていくことに抵抗しなくなった台湾を、経済的・政治的に併合していくことだろう。だからこそ中国側は、中国本土でなく中立的な香港から出港した船が、大陸側だけでなく台湾側の活動家や中華民国旗も乗せて尖閣に向かうやり方を以前から好み、今回もそれを踏襲している。

 中国は9月に初の空母を正式就航する予定で、空母の名前を何にするかが取り沙汰されている。従来、清朝時代に台湾を征服した将軍「施琅」の名前を空母につける案が出ていたが、今回反日運動が盛り上がったのを機に、空母名を、尖閣諸島の中国での呼び名である「釣魚島」もしくは台湾での呼び名である「釣魚台」にしたらどうかという提案が、中国軍の強硬派から出ている。この話は、台湾を併合して国内化することを視野に入れつつある中国が、これまで台湾を敵視していたのをやめて宥和し、代わりの敵として日本を引っ張り出してくる流れそのものだ。 (China eyes Japan with carrier name)

 中国側は、日本政府が、対米従属のみを重視し、米国の後ろ盾が薄れる中、単独で中国と敵対的に渡り合うことを好まないことを知っている。事実、日本政府は、8月15日に尖閣上陸後に逮捕した中国人活動家たちを、起訴せずに帰国させている。一昨年秋、当時の前原国交相(のちに外相)が、尖閣の領海内に入った中国船の船長らを逮捕し(たぶん米国のそそのかしもあって)起訴する方針を掲げた時に比べ、日本の対応は腰が引けている(一昨年も結局は船長を起訴せず帰国させたが)。 (日中対立の再燃)

 中国側は、日本の腰が引けていることを見て、今後しつこく尖閣上陸の試みを繰り返すかもしれない。日本政府は、尖閣問題の日中対立が激化するのを、政府の立場を超えて抑えようとした駐中国の丹羽大使を更迭した。つまり日本は、中国と積極的に和解する気がない。だがその一方で日本政府は、尖閣上陸の中国人活動家を起訴せず帰国させ、中国と腹を据えて対決する気もない。

 丹羽大使を「中国のスパイ」扱いする人々がいるが、それは、日本が米国との戦争に負けそうだと言った人を米国のスパイ扱いした戦時中の人々と同様、世間の雰囲気に乗るだけの付和雷同者だ。自力で戦わず対米従属な分、今の日本人は、戦前よりずっと劣る。丹羽大使の出身母体である伊藤忠商事に対する不買運動を提唱する者はいるが、「敵」そのものである中国の製品に対する不買運動を呼びかける動きは少ない。中国製品は日本にあふれているので、不買運動をするのは日本人の生活に大きな打撃を与える。中国製品をコンビニで買って、ユニクロを着て、中国で作ったiフォンを愛用しつつ中国への嫌悪感を表明する日本人は、中途半端な「反中(嫌中)ごっこ」をしているにすぎない。

「日本は中国に毅然とした態度をとるべきだ」と多くの日本人が考えている。私も賛成だ。中国が初の空母を「釣魚台」と命名するなら、日本も戦後初の空母を建造して「尖閣」と命名し、石垣島あたりを母港にする案はどうだろう。ただし、もし日本が、中国に対して曖昧な態度をとる米国の真似をするのでなく、独自の姿勢で中国に毅然とした態度をとっていくなら、米国は、日本を賛美しつつも、日本は自力でやっていけるようになったと言って、日米同盟を静かに解消していく傾向を強めるだろう。対米従属が日本の権力機構の最大関心事である以上、日本は、中国に毅然とした態度をとりきれない。米軍の空母に出て行かれたなくないので、日本は独自の空母など作らない。日本は、腰が引けたまま、中国や韓国から便利な悪役にされる状況が続くのだろう。

 秋に選挙をやって、再び官僚主導から政治家主導への転換(真の民主化)を起こそうとする動きが日本の政界で強まるなら、事態は変わるかもしれない。


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<追跡!真相0toZ>
~0の意味する原点の意味の原因を探り
 定量的、科学的にZの行き着く先の真相に迫る~

4 911テロ:金融マフィアのショックドクトリンの新証拠


2012/9/12 911テロ:金融マフィアのショックドクトリンの新証拠
追跡 真相 0toZ 911テロ 金融マフィア ショックドクトリン 新証拠




米同時多発テロから11年、オバマ大統領が黙とう

2001年9月11日の米同時多発テロから11年となる11日、米国各地で追悼セレモニーが行われた。ワシントンDCのホワイトハウスでは、世界貿易センターに1機目の飛­行機が突入した8時46分に合わせバラク・オバマ(Barack Obama)大統領夫妻が犠牲者に黙とうをささげた。(c)AFP





9/11 Ceremony Begins in New York




911真相追究運動こそ、最大の反戦メッセージだ



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911の真実の今
http://www5.pf-x.net/~gotama/



(NEW 2012 WTCの制御解体の証明)新たな証拠を示す貴重な映像やインタビュー
(NEW 2012 WTC DEMOLITION PROOF) DEBUNK THIS (REMAKE) RARE FOOTAGE AND INTERVIEWS





BRAND NEW IMPORTANT 911 VID COMING LATER TODAY.

A remake of the old version of "Debunk this, NEW 2011 WTC demolition evidence". I fixed all the typos and changed the ending. I was asked if I could remake this video and leave out the Illuminati part, and so I did. If you want to show someone overwhelming inside job proof in just 20 minutes without blowing their mind mentioning the Illuminati, this is the video to show.




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9.11から10年、いまだ根強い「米政府陰謀説」
http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2823753/7702159

【9月2日 AFP】まもなく発生から10年を迎える9.11米同時多発テロで、一部の米国人にとって最も身の毛のよだつことは、3000人近い命が奪われたという事実ではない。首謀者は米政府だったのではないかとの疑惑だ。

 政府・民間を問わない数えきれないほど多数の調査報告やメディア報道にもかかわらず、世界貿易センタービル(World Trade Center、WTC)を倒壊させ、国防総省を破壊したのは国際テロ組織アルカイダ(Al-Qaeda)のウサマ・ビンラディン(Osama Bin Laden)容疑者が送り込んだ19人のハイジャック犯だ、という説明をいまだに信じられずにいる人は、少なくない。

 本当は、当時のジョージ・W・ブッシュ(George W. Bush)政権内の誰かかイスラエルのスパイが、あらかじめ仕掛けておいた爆発物とミサイルで攻撃したのではないか、そう疑っているのだ。米政府は直接攻撃こそしなかったが、攻撃計画を事前に把握しながら阻止する手立てを打たなかったと信じている人もいる。

 いずれの説も、ブッシュ政権の動機については「イラクとアフガニスタンへの進攻を正当化したかった」「米市民の自由な言論を弾圧したかった」などと考えられている。

■米国民3人に1人が陰謀説を支持

 荒唐無稽に聞こえる政府陰謀説だが、支持者は決して少数派ではない。2006年に米スクリップス・ハワード財団(Scripps Howard Scripps Howard)が実施した世論調査では、何らかの陰謀があったと思うとの回答は36%に上った。その他の世論調査でも、陰謀説はアラブ世界ばかりかフランスでも広く支持を集めている。

 米国内では10年後の今も、「Scholars for 9/11 Truth and Justice(9.11の真実と正義のための学者集団)」や「Architects and Engineers for 9/11 Truth(9.11の真実のための建築家・エンジニア集団)」といった複数の団体が、「米史上最大の政府の陰謀」を暴こうと活発に活動している。

『9・11事件は謀略か―「21世紀の真珠湾攻撃」とブッシュ政権(The New Pearl Harbor)』などの著作で陰謀説を唱えるデービッド・レイ・グリフィン(David Ray Griffin)氏は、「本当のアホは政府の説明を鵜呑みにするやつ」だと、カリフォルニア(California)州のラジオ局KPFAの番組でグリフィン節を炸裂させた。「奇跡を科学原理、特に物理や化学の原理で説明できない事象と定義するなら、政府の説明には10個以上の奇跡があることになる」



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<追跡!真相0toZ>
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5 エケセテ姓のサンカの大統領大本様:裏から統治される日本


2012/9/12 エケセテ姓のサンカの大統領大本様:裏から統治される日本
追跡 真相 0toZ エケセテ姓 サンカ 大統領 大本様 裏から 統治 日本







サンカは純粋日本人

(縄文人でユダヤの失われた10支族か?)


http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/sanka.htm


八切史観で「サンカ」について書かれた物に次のものがある「サンカの歴史」「サンカ生活体験記」「サンカいろは唄」。
「サンカいろは唄」等は先生の遺稿、遺書の感がある。御自分の生母や祖母のことも書かねばならぬので、随分と書きづらかったと序説に書いておられる。以下に紹介するのはニフテイの会議室で、サンカのほんのさわりを紹介したところ、質問が多く出て、その回答形式をここにUPします。己たちがサンカの末裔と知らぬものの、やはり血の成せる業か興味のある方が意外に多いのに驚いています。

○○様。◆◆◆長くなりますので三部にします◆◆◆
        <<第一部>>
今日は。早速本題に入りましょう。○○さんは「風の王国」をお読みになったようですが、先ず、この本を書いた五木寛之氏の意図と経緯から考えて見ましょう。この本は「小説新潮」に三回の連載が一冊となった物です。ご存知のように「先ず申し上げておこう。我々は長い間ずっと口伝えによる文化の伝承を、文字による記録よりも大切にして生きてきた。(中略)しかし心の拠り所としては、文字より言葉、声による口伝えを根本とする」とその237頁に浪骨の言として五木氏は訴えたい事を書いています。

これは全くこの通りで、サンカの人々が書き残したものは無いからです。だから八切先生は口伝えの彼らの歴史を調査するため、全国を回りました。かって五木氏は「戒厳令の夜」を書き、文壇の地位を確立しました。しかしこの「風の王国」でサンカを書きたいため「さらば、モスクワ愚連隊」から数十年かかって、ようやく正面切ってというか、居直って、全体の250頁以下に、「フタカミ講」と「渾流組」といったものを、小佐野賢治をモデルにしたような壮大な射狩野グループの三つ巴の中で、当時世間を騒がせていた連中に迷惑をかけぬようにとの用心と配慮からか、僅か55人の紺キャハンの<へんろう会>の「天無人神講」としています。
○○さんが御質問の一番目の、

>> 1、サンカの人達が作る「天無人神講」という「講」の話しが出ていましたが
>>これは実在するモデルがあるのでしょうか。

五木寛之氏は極めて頭のいい優秀な作家ですから、何をどう書けばいいのか十分に吟味したと思推されます。
というのは、海洋渡来の”八”の部族や、後に沿海州から入ってきた騎馬民族は共に藤原体制から疎外され、差別されました。そして同じくまつろわぬ民としてサンカの人達も殺されたり差別の対象になっていたので、追われる者同志が庇いあって彼らの中に溶け込んでひっそりと暮らしていました。八の部族の民族色は赤で、騎馬系は白です。だから八と暮らすサンカは「赤のとけこみサンカ」つまり【赤サンカ】であり、騎馬系と暮らすのは「白のとけこみサンカ」、【白サンカ】なのです。しかし、何処にも絶対溶け込まず家族を一つの単位として、五家族で一つのグループで流浪するのを”セブリ”というので、これをモデルにしたのではないかと思われます。

(私も実は詳しくは無いのですが、「全国ハチヤ同盟」というのが在るという事です。これは京都の空也堂信者の大同団結といいます。全国で三千万だそうですこのハチヤはサンカではなく、天の王朝つまり海洋渡来系の末裔です。他に”水上会”というのもあり、これは水上の穏坊といいますがキッタン系の団体で「將門一族会」も結成して、その団結にロマンを求めているのです)


「風の王国」の後書きの後に、参考資料として160余点の書名が列記されていますが残念ながら、まあ増しなものは故宮本常一氏の「日本民衆史②」の、「山に生きる人々」ぐらいで、他は「柳田国男著作集」当たりです。
肝腎な八切先生の「サンカ生活体験記」を読んでません。八切先生は「知らない間柄ではないし、尋ね質問してくれたら注意したものを」と言っておりました。

ですから五木氏が参考にした殆どの部落関係の本は、故菊池山哉が仏教側資料によって解明した(体制側で弾圧した方の視点で書いている)裏日本から渡来した騎馬系の白サンカまでなのです。それをその儘に転用して自説としたにすぎない著作ばかりが、五木氏は
資料としてしまっているのです。しかし東大のY教授が北海道新聞の1997・1・10の「歴史の叙述と想像力」の中で

「柳田の民俗学で使われる”常民”という言葉は、市民でもなければ平民でもない存在を指す。それはやはり”常民”としか呼びようのない文化の基底を担う人々なのだ。彼らに対する無私の愛、その存在えの想像力こそ、柳田学から現代歴史学が受けた貴重な刺激と言うことになろう(後略)」柳田氏については後述しますが、この学者先生よくこんな寝惚けた事を書けるものと感心します。

何も判ってない事を天下に公言したようなものですね。五木氏は資料の選択は間違ったとはいえ、サンカを描こう、とする物書きの情熱と感性と想像力で真実に迫っています。だから私は五木寛之氏の方が数段増しだと、前記した訳です。


○○様。  <<第二部>>

◆◆◆◆◆解りやすく表にしてみましょう。◆◆◆◆◆
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
前代サンカ・建国統一の7世紀から・  (A)裏日本から渡来・  (B)太平洋から
       はみ出した部族。        居着きで非農耕     上陸の農漁業塩作り
                         遊牧サンカ        の赤系サンカ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
梅鉢サンカ・10世紀以降キッタン系  ・   セブリ流民として    ・ 天照大神系として 
      日本史では隠して        五組編成で各地に     食料増産のため
      宋とするが、            散在し、シコとして     限定地に居着き
      指揮部族              防衛編成。         させられる。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
南北朝サンカ・明国や朝鮮の   ・  源氏とされ、後に  ・   平氏の子孫も世直し 
       影響が及ぶ          楠木正成らが       に三河の足助次郎
                         隆起する。        らが決起する。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
戦国サンカ・徳政に反対し    ・   北条早雲一党    ・   上杉謙信一党 
      各地でサンカ出身が     別所宗治一党        尼子持久一党
      戦国武将となる
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
江戸サンカ・綱吉の神仏混合令  ・   飼戸の子の飼子が  ・   庭子小作奴隷が 
      によって反仏教徒は       幕末に殺し屋として     大百姓へ世直し
      非人とされ弾圧される       上洛し利用されて      を迫り一揆する。
                          恰好良く志士という     イッキイッキという

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
尼子持久を宇多近江源氏と歴史書はしているが、間違いで「ア」は海洋渡来系。別所宗治の三木城は秀吉に二年間も完全な兵糧攻めをされて、幼児の後藤又兵衛だけを託し残して玉砕。この分類の(A)の縦の区分を「馬鹿」と呼ばれたり四つと呼ばれたりしていた方だけは解明しています。「一畝不耕一所不住 一生無籍 一心無私」と風の王国巻頭にも出ています。

従って士・農・工・商以外の枠外の民である、騎馬系弾左衛門地が、明治までは隅田川以北は小菅から先もずっと草原で、一反の田畑もなかったのは有名な事実で、日本は豊葦原水穂の国と古来から言われるとおり、騎馬系は遊牧民族ゆえ、絶対に農耕も、漁業も、塩作りもしなかった。水穂のほうは奴隷百姓が米作りをしていました。
大衆作家の書く物に、その筋の侍だった者が、禄を失って田舎で百姓をするなどとありますが、有り得ない話しで出鱈目です。

この農耕しない民族は、(B)の民族と全く違うのに風の王国では(B)を区別してしまっているのです。
「山民は骨なり。常民は肉なり、山と里の間を流れる浪民は血なり、血液なり。血液無き社会は生ける社会にあらず。浪民は社会の血流なり、生存の証なり、浪民を自らの内に認めざる社会は停滞し枯死す。吾らは永遠の浪民として社会を放浪し(中略)山は彼岸なり。里は此岸なり。この二つの世の皮膜を流れ生きる者、これセケンシ(紹介者注・サンカ同志の連絡役)の道なり。
吾らは統治されず、統治せず。一片の赤心これ同朋に捧ぐ」と風の王国で定義されてしまうと、居着きもとけ込みも「常民」の側に置かれてしまうわけです。


ですから○○さんの二番目のご質問、
>>2、この本が居着きサンカととけ込みサンカを混同しているというのは、具体的にどういうことを指しているのでしょうか。

上記のように(A)の者たちは全国を流浪しながら生活をしていたため、都市や村に居着きません。
一方食料生産をする(B)の方は重宝なので都市や村にとけ込んでおります。この(B)の八つと呼ばれる海洋渡来系は八切先生が日本で始めて解明したのですから、五木氏が解らなかったのも無理がないと思います。もう少し簡潔に言いますと、
●とけ込みサンカ・・・・他の部族にとけ込んで暮らす。
●居着きサンカ・・・サンカだけのグループで特定地で暮らす。となります。


さて、それでは最後の御質問に行きましょう。
>>現在もサンカの人達は、そのアイデンティティを守って、国内のどこかに
>>住んでいらっしゃるのでしょうか。

もうお判りでしょうが、彼らは原始共産主義というか、無政府主義者とも言える自由の民です。敗戦で日本各地の都市が絨毯爆撃され、とけ込みサンカはは離散してしまいました。それまでは鋳掛け屋とか、煙突掃除をしながらセケンシがサンカの各家庭を廻って歩き、貧しい人や病人に施しをしていました。また余裕のある者は金を出し、無い者はミノ一つでもよかったのです。彼らは徹底した相互扶助制度で助け合っていたのです。

そして彼らを束ねる大統領ともいうべき「大本様」が居たようです。一昔前、スイスの銀行で日本御三家と呼んでいたのがあり、一位が岸信介、二位が宮内庁と言われてました。今はサンカシノガラ資金が多いといいます。何故かというと、かってニクソンのドル下落の際、各国は必死に石油を買い漁りました。

馬鹿な日本政府はアメリカさんの命令で、石油を買わずにドルの買い支えをした事がありましたが、その時にサンカは逆にドルを売って巨利を得たのです。大本様は日本を見限ったのか、現在は海外に出てしまったようです。


話しは飛びますが、秀吉は家康を殺したかったのですが、家康は(B)から出た出世頭だったため、大本様の意志でさすがの秀吉も騎馬系が多く住む関東へ押し込める事しか出来なかったのです。そして秀吉は晩年は仏教勢力と結託した為、サンカ系の大名は一人残らず家康に味方して、関ヶ原で家康に勝たせてもいます。家康、秀忠まではサンカは吾が世の春でした。しかし綱吉の神仏混合令以降又厳しく過酷な弾圧が続くのです。

現代は自分たちがサンカだとは解らぬ若者がイッキイッキとはしゃいでいますが人口割合では(A)と(B)を足すと数千万は居るでしょう。

(五木寛之は何年休筆しても根強い人気がありますし、歌手の五木ひろしは三十も芸名をかえて五木にした途端人気が出ました。勿論彼らの才能や努力もありますが居着き人口の圧倒的な支持が有るからと思われます)

しかし居着きもとけ込みもしなかった純粋日本人のサンカは姓の上に「エケセテ」をつけていますから見分ける事は出来ます。
江川、江夏、江本、江田、遠藤、江戸、海老名、研、見城、千、千田、仙谷、手塚、手嶋、勅使河原、寺田、寺山、猫田、根来、根津、辺見、目方、目黒

これらの人は管理社会では暮らせない特性があり、みんな芸術やスポーツの分野で活躍している人が多い訳です。いわば一匹狼なのです。しかし彼らは動物好きで家族を非常に大切にし、女性に優しいという長所があり「千万人とも吾ゆかん」とバイタリティーの塊です。
こうして見るとマスコミで活躍している人も多いので、随分と数が多そうですが東京都の電話帳でもおそらく千人とは居ないはずです。もう一つ重要な特徴として、民族の純血と増加を図る為か、少子化の現代では珍しく十人ぐらいの子沢山が多いと言えます。


私見によれば、自己本位で、自分さえよければ他はどうなっても良いという、官僚組織や、既得権益団体や家庭や個人が跋扈するこの国に、サンカの思想と行動様式を基底にした政治が行えるなら、この国の未来は捨てたものではないと思うのは私だけでしょうか。
【統治されず統治せず。一片の赤心これ同朋に捧ぐ】
規制徹廃、地方分権道州制、生活者主権、相互扶助の福祉重視、まさに平成維新そのものではないですか。
  <第三部>

余談になりますが、これからの日本を救う人物はこのサンカの中から出現するのではないかと私は思っています。
アインシュタインの有名な言葉が在ります。
   *************************************
世界の未来は進むだけ進みその間、幾度か争いは繰り返されて、最期の戦いに疲れる時が来る。その時、人類は誠の平和を求めて、世界的な盟主をあげねばならない。この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜き越えた、最も古く、また尊い家柄でなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。
吾々は神に感謝する。吾々に日本という尊い国を作って置いてくれたことを...............。
  ************************************

どうでしょう?
「尊い家柄」といえば天皇ですから、宰相はやはり誰になるのでしょうか?。以前この事をUPしたら、大分顰蹙をかいましたが、こんな夢想をしなければならないほど、この国は腐ってますね。  閑話休題。

<<余談の余談>>
明治の東京政府は、徴税や徴兵のため当時始めて国勢調査をし、明治四年の壬申戸籍を作った。町人別、寺人別、侍交名帳でそれまでのの人口把握は出来たものの、居着きしていない四つの人口や部落民、それと無申告の民が余りにも多くて狼狽。

というのは、明治維新は彼ら庶民を原動力として成し遂げた経緯があり、金の無い東京政府は後に本願寺派仏教勢力と提携して彼らを裏切ったので、叛乱を怖れた。だから治安維持策として、「棄民政策」と称して北海道、樺太、北米、伯剌西爾へ彼らを放り出したのです。
女はサンダカンへ性業婦として輸出し、外貨獲得。自国の国民をこうした扱いをする国が一体何処にあるでしょう?

差別徹廃、部落解放、四民平等を信じて、命を捨てた名もなき草莽たちの無念やいかばかりだったでしょう。結局、天皇を象徴とした官僚支配の律令体制は現代まで残り、部落問題は今に到るも未解決である。前体制の残滓はかくも国民を不幸にする。だから
歴史の教訓に学び、平成維新は心してかからねばと危惧する心が、しつこい程私の「改竄の日本史の暴露」にかりたてるのです。

以下はある方にREとしたものですが、一部重複しますが大事な点なので再度UP致します。

【純粋日本人・サンカ】

サンカや部落問題というのは差別の原点でもあり、タブーであり、たいていの人は腰が引けて、避けて通るキライがあります。
しかし、この国の改革が成れば、又成る過程で此の問題は避けて通れない大変に厄介な問題だと思うのです。
それというのも根底には”偽造の日本史”があり、これが為に差別する方も、される方も理由が判らず、悲しい争いをくり返してきました。

この偽造の日本史を暴き、新生日本史を確立しなければこの問題の解決はおそらく不可能だと思います。
その為の日本開闢以来の史観が”八切史観”なのですが、私などはいわば伝道者にすぎません。

【紹介者・補記】
さて、柳田国男氏とその弟子の折口信夫氏らが「日本の全人口の三割はサンカだ」と発表して、タブーに果敢に挑戦しました。
つまりオカミの歴史に対して常民史観というようなことを言い出しました。しかしその存在を許さぬサンカが、全人口の何割も今に到るも生存している等とは以ての外であるし、その歴史探究など言語道断という事だったでしょう。

当時、今とは違い男色が最悪の不道徳とされていた時代「折口信夫との間を公表すれば如何となす」と特高に引張られ、脅されて「弟子の彼が可哀そうだ」と「あれは誤りだった」とやむなく訂正の評論を書いて、民俗学の方へ転向してしまいました。
現在柳田の研究書は沢山在りますが、こうした深い所ろへの視点が欠けているように思うのは独断と偏見でしょうか。

彼は非常に頭脳明晰な人だったと言いますから、あのまま研究を続けていれば、日本原住民史は、当時はまだ資料は残っていたでしょうから、随分と今とは違った形で解明されたでしょう。次に手がけられてやめた、白柳秀湖氏の場合も、一人娘さんがやはり人質みたいに
なって、男親って娘が可愛いから、結局彼も折角いいところまで行ったんですが、やむなく中止して右翼の評論家として亡くなってます。
全く日本のオカミのやる事は、昔から汚く陰湿です。

三角寛氏は朝日新聞のサツ廻りの記者でしたから、警察情報を基にし、後に内務省警保局の民族事業協和会からの財政援助でシノガラといわれる、サンカの人達との”サンカ生活体験記”を出版しました。しかしこれを書くと、自分の母親の事を書かなければならないので、書きにくくてしょうがなかったといいます。だから氏も結局”体制側からの視点”言い換えれば”仏教徒側から”サンカを書いた為、全く異なった虚像しか現在に残しておらず、後世の学者達がいくらフイールドワークしても、彼を越える物は出ない訳です。

さて、八切先生も「野史辞典」の資料集めに地方巡りをしました。その時ある村で、赤子を背負った女まで入れて八名の溺死体を淵から曳き上げている処へ行き合わせてしまった事がありました。赤ん坊のごときは水膨れでまん丸で、無惨などとは表現しがたい、異様な死体の
行列だったといいます。先生はどうしても書かれた物や写本では、探し求める匿された日本史が探し当たらず、やむなく口伝えの秘史を蒐集しようと、当時重たい旧型のテープレコーダーを持って日本各地を巡ったのです。

そして断る村民に無理矢理、御霊前にといくばくかの現金を包み、何とか頼みこんで御逮夜に泊めて貰い、部落総代という老人から話しを聞きました。

「ここは旧幕あたりまでは苗字帯刀、紋付きの家柄で格式もあった家ばかりだった。しかし今では全くあべこべになってしまった。だから嫁に行って子供まで産んでいても、ここらの部落の出だと判るもんなら、まるで獣のように放り出す。それで戻されてきたのに同情して、自分らも嫁に行っても何時か放りだされるんじゃないかと、こんな無様な心中をしてしまう。こんな調子だとここの部落の女達はいつか死に絶えてしまう」と、愚痴まじりに部落の不条理を訴えてきました。

夜になり酒が入ると他の人もぼつぼつ話し出しました。「自分らは、昔はエライ様で土民はあぜ道で御一新までは土下座しておじぎした
もんだ、それが今では昔は非人だった奴たちさえ馬鹿にして口も聞いてくれんのじゃ」と、憤慨して他の者もしくしく啜り泣きだったのが「ウオー」と号泣に変わってみんなが吼えるように唸った。土間の茣蓙の上に並んだ屍体の髪毛が乱れ、毛糸玉のように互いに繋がって見え、
集団自殺の彼女たちのプレッシャーは酷く、凄惨な一夜で屍臭と線香の煙でむせた、といっております。

これは昭和四十五年の出来事でした。この時点からすでに三十数年を経ていますが、現状は何も変わってはおりません。マスコミもこうした問題には触れませんから一般ではなおの事でしょう。

<<終わり>> 

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本当の歴史を知らないと現代がわからない!
日本の歴史さへも外国人によって作られていた!


http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/ieyasu.htm


【紹介者・注】

この一連の徳川物は、以前歴史会議室で議論されたものを、加筆訂正してここに改めてUPするものである。重複する箇所も多いが何卒御容赦願いたい。

現代、家康を尊敬している人間は非常に多く、彼の生き方を経営戦略の手引きとしている本もある。しかし、ここに敢えて水を差すような一文を書いたのは、事、日本史に関しては相当の碩学といえども、既成概念が強く、なかなか文部省歴史から脱却できないという現実が在るからである。以下に書かれている内容に驚かれ、反発されるも御自由です。しかし、人類の生活が大きく変わろうとしている今、この国の現状はどうでしょう。

今こそ新しい、高い目線で”新史観”が必要ではないでしょうか。それには勿論隣国の韓国や、中国との歴史の「スリアワセ」は不可欠す。さすれば日本は何時までも過去の呪縛から脱却出来ないでいる、「自己悪逆史観」や「お詫び史観」から脱却できると想うからです。さて、家康は天下を平定するまで随分と邪魔者を殺しております。

しかし時は、人肉を食べるまでに追い詰められた悲惨な時代でした。古今の英雄で「殺し」という行為を成さなかった人物は少ないでしょう。弱肉強食の中世にあっては、致し方もなかった事でしょう。父親に去られ、母親に売られた幼い家康は辛酸をなめました。戦乱で百姓も疲弊し、庶民も貧困のどん底の状況を見て育った家康は、徒手空拳の一介の土民の身から革命を志し、「おりゃあ、偉くなったる。世直しせなあかんぎゃあ」と、同じ虐げられた仲間を糾合して、ついには徳川政権を作りました。

そして家康は同族を解放し差別の撤廃を断行しました。これは立派な事です。これは秀忠の時代まで続きます。(現代で言えば、お上から搾取され続け、ただ黙々と体毛を剃られるため、働き続ける羊のような従順なサラリーマンを団結させ、政権を奪還するようなものでしょう)しかし、三代将軍家光の時から家康の意志は踏みにじられ、これが幕末まで続く事になる訳です。即ち、現代にま尾を引く差別問題です。(以下から、どうぞこのイントロ部分を頭の片隅に置いて読んで下さい)



●徳川家康について、明治三十五年四月十八日、村岡素一郎が『史疑徳川家康』を東京の民友社から出しました。八切説でも「家康二人説」ですが、明治史学界は『松平記』を出してこの説を封じ込んだ。しかし、明治の学会でも村岡説に同調というか、理解を示したような学者は皆無だった訳ではない。時の内閣修史局編修官東京帝国大学教授、重野安繹博士がそれである。博士は『史疑徳川家康事蹟』の刊行に際して序文を書き、

「東照公は幕府の烈祖三百年の基業を開く。世にその事蹟を云うる者粉飾避諱なき能はず。仮に豊臣氏の子孫歴世絶たざりしならば、則ちその太閤微賤の時を伝ふる、未だ必ずしも今日の史上の如くならざりしならん。流離関関、変故百出、而も功業を意料の外に成す。古今の大豪傑皆かくの如し。何ぞ独り東照公を怪しまんや」といっています。さらに「もし豊臣秀吉の子孫が現存し公爵にでもなっていたならば、やはり秀吉の卑賤な素性を糊塗し、先祖を藤原氏か源氏に持っていったであろう。だから家康もそのような工作を試みなかったとは言い切れぬ」と述べています。

また南条範夫著「三百年のベール」によれば、重野博士は村岡説に対して、「自分も徳川氏の出自が新田源氏だなどということは全く出たらめだと思っていた。しかし家康自身がささら者の倅だとは夢にも考えていなかった。全く驚くべき新説である」と批評し、村岡が「史実として成立し得るとお考えですか」という質問に対しては、「いやそこまでは断定できない。今君の挙げた全資料を自分は同じくらいの反対資料で片端から反駁できる」と答えた。

しかし、「自分の出来る限りの反論の方が正しいか、君の立場の方が正しいか、それは今のところ何ともいえない。徳川幕府は二百七十年続いたのだ。開祖家康についての不利な資料は悉くこれを破却し湮滅させた。公的、半公的な徳川氏の歴史は粉飾の極を尽くしたに相違ないし、又民間の史的述作も徳川氏に極力おもねってきたであろうことは疑いない。してみれば、君の立場もその粉飾され阿諛されつくした歴史に対する爆弾的宣言として大いに意義がある」ともいったという。ここまで理解していて尚かつ「松平記」を正史としているのですから、一体明治の歴史家と称する人達はどうなっているのでしょう。

(この辺は鹿島史観の「国史大儀」では「明治のボンクラ学者」と痛烈に批判してます)何といっても、明治史学会は華族会がスポンサーでしたから、致し方も無かったのでしょう。「学者の良心という概念」もこの頃には未だ無かったのでしょう。と、同情します。まあ考えて見れば、彼らは明治政府の親衛隊的存在の側面がありますから、重野博士の言っていることを良く解釈すれば、天皇家周辺の権力者に極力おもねった歴史を作った事実を、自嘲しているようにも思えます。
【家康二人説】(1)
さて、この資料は公開されたのだろうか?また、いわゆる歴史家との討論はなぜなされていないのだろうか?不思議なところである。八切先生は亡くなる二年ほど前、ご自分の史資料をフアンに限定販売や無料贈呈しました。明治三十七年、名古屋市役所編纂の「名古屋史要」は古書価格で百三十万。現在残存一部といわれる、小谷圭一郎の「ジンギスカン義経」の種本の明治刊の内田弥八著「義経再興記」や、本物の「松平記」「手書き兵法雄鑑」等の珍奇本、赤穂義人纂書、1、2、3、巻、幕末確定史資料大成、徳川合戦史資料集大成、日本歴史史料集大成明治史学会雑誌などなど。これらは古書相場十万から八十万です。先生は三十年間に約二億円位かけて、二万点余の史資料を集めています。

嫌みったらしく値段を書いたのには訳が在ります。史資料は、真実探求の飽くなき情熱があり、足を使い、金を惜しまなければある、と言うことを、いいたかったのです。勿論、活字本になっているものも沢山在ります。

現物でなくとも写本だってまだまだ在ります。東大歴史編纂所には、豊富な史資料が在るので、研究する気が在れば出来るのです。しかし現在のような、記紀金科玉条主義、足利史観、徳川史観、皇国史観その儘の学会からでは無理でしょう。むしろ、唯物史観の連中の方がよく勉強しています。

だから八切史観にも反論出来ず無視を決め込んでいます。酷い人間は「とんでも本」と侮辱しています。日本はまさに巨大な”偽史シンジケート”が牛耳っているのです。以前、和歌森太郎、梅原猛、八切止夫の三氏の週間読売で座談会がありました。その時和歌森氏が梅原氏をつかまえて「俺はリースの直系の孫弟子にあたるぞ」と言ったら、梅原氏が畳に手を突いて最敬礼したといいます。ルドウイッヒ・リースは日本の学校歴史を作った最高権威者で、その直系門下は虎の威をかる狐なのです。八切氏は面前なので冗談かおふざけかと思ったら、「いや、愕くなかれ二人とも真面目で本気なんです。故和歌森太郎が言いたかったのはリースの直系だと毛並みと言うか、その誇りなんですね。

リースの直系の弟子というのが小川銀次郎、それから三上参次、その教え子が直系の弟子なんです。そして又その教え子の和歌森太郎はその孫弟子になる。サラブレットの血統書なみ・・・」と言っています。医学界も白い巨塔ですが、こんな徒弟制度では、師と全く違う新説など出しようがないでしょう。
だから私学や民間の研究者の方が大胆な仮説をどんどん出していますが、反論もせずこれらは無視です。そして重箱の隅を突っつくようなことばかりやっています。何しろ師は就職や昇進、儲けの大きい教科書編修員の斡旋など、強大な権力を握っているので、たいがいの人間はナエてしまいます。何と言っても”生きる”ということは大変ですから。大学全般に言われていることですが、制度改革が急務です。余談ですが以前、官学理系の助教授と話していたら「○○さん、大学は解体ししなければダメです」と過激な発言です。

「君たちが内部改革できないのか」と聞けば「やりたいが、やればクビが飛んで食えなくなる、それに危機意識なんか無い奴が多い」と言います。現在、日本的システムの世界化が急務ですが、21世紀を見据えた、大学改革も含めたゼロベースでの大改革が必要です。中でも教育、特に世界史に合わせた日本史の見直しが大切です。

前半が神話で後半が歴史だという記紀が根本史料では日本史は霧の彼方です。さて、あらゆる史書は政治的です。が、その内容は同質ではありません。何を以って史書となすべきかと言えば、日本側はさんざん改竄、偽造したけれど巧く偽造しきれなかった文書ー国家的な偽造でない<上記><宮下文書><秀真伝>等に史料価値があります。拙劣な偽造と言う意味では<旧事紀大成経>や<東日流三郡誌>もあります。朝鮮側では形式化しすぎた嫌いはあるけれど<桓壇古記>系の一連の史書が在ります。その他<契丹文書>も在ります。これらを総合すれば日本史の復元は可能です。しかしこれをやっても儲からないから誰もやりません。民間の鹿島昇氏、佐治芳彦氏、八切止夫氏ら極少数です

○家康、元康入れ替わり説について、謎の徳川家康の続編として紹介します。
次郎三郎は今川義元が上洛するにあたって、三河の当主松平元康の子、竹千代を誘惑した。というのは、今川の先駆けとしての元康が討ち死にでもすれば、三河の当主の跡継ぎを次郎らが押さえておけば、三河一国は握れるだろう、という深謀からである。だから狐が崎の人質屋敷から、大久保、板倉、酒井らと共に竹千代をさらった。

さて、この時の事。次郎は大河内源三郎の妻である乳母の協力のもとに、竹千代を誘拐して、慈悲尾の増善寺へひとまず逃げ込んで、ここに暫く隠れていたいた後、その寺の等善坊の助けで小舟を借り、寺男の瀬平が葛籠に竹千代を匿し、共に石田湊に出て、鍛冶屋の娘おあい(後の西郷の局、秀忠の母)のいる、掛塚へ戻った。

次郎が家康となって天下平定後、等善坊はこの時の手柄で遠州可睡斎という拝み堂を新築して貰い、土地では「恩禄を得た有徳な修験者」として評判だった。寺男瀬平も、神君より召し出されて、「味知」という姓を道案内の故事からとって安倍川の西の持舟山一帯の朱印状を貰った。「神君御難の時背負いまいらせた名誉の者の家柄」ということで、この子孫は幕末まで連綿として続き、苗字帯刀だったと「駿府志」にある。

しかしこれは運の良い方の話しである。酷い目にあったのは、誰が松平の世継ぎを奪って逃げたか直ぐ判ったから、乳母の大河内源三郎の妻や、次郎の祖母源応尼がそれぞれ捕らえられ殺された。桶狭間合戦は永禄三年五月十九日だが、その当時のことゆえ狐が崎の刑場で殺された源応尼の屍は部落の者に分けられ、内蔵や脳味噌がそこの唐人薬屋へ渡されたのは、華陽院の墓碑名によれば「永禄三年五月六日」となっている。

つまり桶狭間合戦の十三日前に源応尼が処刑されたのだから、次郎が松平竹千代を奪取したのは四月ということになる。そして、「松平啓運録」に「狐が崎の知恩院に尼を葬り奉りのち、慶長十四年にこれを移す」とある静岡の玉桂山華陽院府中寺の寺宝になっている徳川家康自署という掛額がこの間の事情を裏書きしている。ここに原文のまま一部引用する。



是斯梵刹也者、祖母源応尼公之旧地也、初今川義元、略東海之諸州、居府城之時、

為厳父君遠出三州而質於府下寓居於禅尼之家、禅尼慈愛之、頗紹干所生而受恩於尼公、従幼至志学之後、

「既始発義軍於浜松、而征数州禅尼思之痛矣、干時永禄三庚申夏五月、聞訃轅門不堪哀慕之情然如之何、

使人送葬干此然是行

戎役未息墳墓唯為封而己、(旧漢字が多く、辞書から出てこないため後略)

龕  慶長十四年春三月

                   大將軍 翁  印

さて、この中で問題になるのは「自分は遠州浜松で義軍をあげ数州を征した」の箇所で、少しも三河岡崎でとは書いていないことと、直ぐそれに続いて、

「禅尼(源応尼)がこのことで思い痛め心配した」という一句である。家康が武門の出身なら、岡崎でなく浜松であったとしても、旗揚げしたなら、「こりゃめでたい」と賞めるべきであって、祖母の源応尼が心配するというのは変である。つまり徳川家康の出身が、祖先は新田義貞であったにせよ、この祖母の頃はぜんぜん武門の家柄でなかった証拠であろう。つまり「とんでもないことを次郎はしおって、おかみに逆らうようなことをして、申し訳もないことになったわい」と源応尼は案じていたことが、これでも良く判る。

さて、轅門、というのは陣中のことだから、この文面では、「永禄三年の五月に源応尼が亡くなったのを聞き、自分は悲しんだが、陣中にいたので如何することもできず、そこで秘かに人をやって葬らせた。が、後も戦が続き仮埋葬のままだったが、いまや自分は征夷大將軍となって天下の兵馬の権を握ったから、五十回忌にあたってここにまつる」となっている。

しかし、今日の俗説では、「今川の人質となって行く途中を奪われ、松平竹千代は尾張の織田家へやられたが天文十八年十一月、今川義元と織田信秀が三河の安祥で戦った際、人質にとられた信秀の長子と交換で竹千代は今川へやられた。この竹千代が成人して、やがて松平蔵人元康となって、義元の死後岡崎城を回復し、やがて徳川家康となる」となっている。どちらが真実かは読者の判断に待つよりない。

竹千代というのは代々世襲の幼名だったから「松平蔵人の幼名が竹千代」であっても差し支えないが、尾張へ行っていた竹千代が、その蔵人だったと思えない証拠が現存している。天文十八年というと、信長十六歳、その時の竹千代は八歳になる勘定だが、「寛政二年戌四月加藤忠三郎書出し書」という、尾州候へ提出の文書があって、その中に、「てまえ先祖加藤隼人佐妻よめが、竹千代をお守りした時に作って差し上げた雛人形二対及び賜った桐の御紋の盃を、今に到るも家蔵している」というのが今も「尾州藩史料」に入っている。

しかし、女児ではあるまいし、八歳の腕白坊主に、お雛様を作ってやって遊ばせたというのはどうであろうか?と疑問が生じる。俗説の家康がこれでは八歳で変てこでだが、もしこれを、松平蔵人の跡目の竹千代。つまり、後の岡崎三郎信康、と見れば、彼なら世良田次郎三郎や酒井浄賢が盗みだしてきた時は、まだ二歳だから、これならお雛様でも遊ばせられたはずである。又、その幼児が後の徳川家康ならば、上州新田郡世良田村は別名「葵村」と呼ばれるように葵が多く茂り、徳川は「葵紋」を採用したが、松平の方は、代々ずっと桐紋しか用いていない。

だから文中の盃の紋からしても、預けられた子は俗説の家康ではなく、松平元康の子の信康であることは間違いないであろう。この後竹千代は田原城の戸田弾正に奪われ、信長の許で育てられる。そして奇妙丸(信忠)、信雄、信孝、五徳姫、と信康の五人を信長は可愛がる。五徳と言う名の由来は、火鉢の中へ入れる鉄製の金具で、五本足でしっかり支えて上に薬缶をのせるものである。
つまり、五徳を岡崎三郎信康と一緒にさせようと信長は思っていたらしい。この「信康」という名乗りも、信長の父信秀の異母弟で、織田与二郎信康という織田家隆盛には一方ならぬ骨折りをして、討ち死にした柱石の叔父の名からとって「岡崎三郎も、その信康にあやかって織田家に尽せ」と信長が命名したものである。

だが通説では、信長は成人した信康の武辺や武功目覚ましく(これでは己が倅共より立ち優って行く末とても剣呑である)と、手なずけるため五徳を嫁にやって、隙を見て信康を亡き者にしようと謀っていたところ、我儘者の五徳がざん訴してきたのを勿怪の幸いに、事実無根を百も承知でこの好機逃すべからずと、直ちに家康に処分を命じた。家康は我が子可愛さに信長に対し嘆願したが許されず、泣く泣く最愛の我が子の信康を殺し、その連類者の築山殿までも、信長殿の言い付けには違背出来ぬと、泪を呑んで腹心の野中三五郎らに斬殺させた。

だが、信康を入れて五人で仲良く力を合わせるために折角”五徳”と己が姫に名づけ、それを嫁にやるくらいなら、三郎信康が目ざましく成長し天晴れな武者ぶりを見せてきたらなら、これは信長には願ってもない喜ばしいことであって、それを嫉妬したり、自分の倅共の行末に邪魔になる、取り除いてしまえと、策を弄して家康に命じて処分するのは話しとして筋が通らない憾みがある。信康が武者ぶり優れ、衆望を担ってきて、それで迷惑するのは信長ではなく、三河を横領出来なくなる家康その人なのである。

これまで徳川家康が尾張へ人質となっていた、という説の傍証として扱われているものは、「この時、尾張の者にて高野籐蔵といえる者あり。君御幼少にて知らぬ境にさすらい給い、見も馴れ給わぬ田夫野人の中におわすを劬り、朝夕様々にいとおしみ、小鳥など参らせ慰め奉りければ、神君家康公のち御成人ありて後に、この籐蔵をば三河へ招き召し出され知行を給り昵懇せしめられしとぞ」という「参河後風土記」の中の一節に拠っている。そして現代でも歴史家の中にはこの書物を「良質の史料」と誤認している人が多いが、

これはすでに江戸中期において建部賢明がその<大系図評判遮中抄>という著書の中で「大系図三十巻というのを作ったのは、江州の百姓沢田源内を主犯とする系図屋共の贋作であって、彼らは依頼に応じて次々と贋物の系図を作りあげたばかりでなく、その他の偽本類つまり今の「中古国家治乱記」「異本難波戦記」「参河後風土記」といった、さも尤もらしいデッチあげの贋本をこの他にも十余点あまり、やはり依頼主の先祖の名を書き加えるために、これを写本として出している」とその署名の一覧表を揚げて、「これを誤って史料扱いするような愚は、慎んで絶対に避けねばならぬ」と、既に元禄時代にこれを注意している。つまり「参河後風土記」というのは、史料のように見せかけているが、真っ赤な偽物であると証明が三百年以上前に出されている。だから知らずに間違えて引用するのは、これは不勉強である。信じられる史料は前記した「加藤忠三郎申上書」なのである。

【家康二人説】(2)

石が瀬合戦から、森山くずれ、さらに武田信玄は、「家康、元康別人知悉説」までを箇条書きにしてみます。

遠州服部村の鍛冶屋の家を溜まり場にして、弓矢を鍛えさせ、武具を整え人集めした若き日の家康は、この天下争乱の時一旗上げようとした。だが今川義元亡きあとの氏真は出て戦わず、尾張の信長も勝って兜の緒をしめよと清洲城から動かない有様。そこで業をにやした家康は中に挟まれた弱体の三河を奪い盗ろうとしたて、遠州から矢矧川の上流を渡って攻め込んだ。この時松平蔵人元康は放ってはおけず、これを石が瀬の原で迎え撃った。

しかし何といっても、松平党は長年にわたって父祖の代から君臣の間柄。一方家康側は烏合の衆である。正面衝突してはとても松平党の敵でなく、負けて降参してしまう。降人した時家康は松平の家来にされるような話しだったが、抜け目のない家康は直ちに山中城を攻め、城主の松平権兵衛重弘を追って自分が城主となってからは、もう元康の家来ではなく合力衆のような形になった。
刈谷城の水野信元を攻めた時など、岡崎勢の先手となって十八町畷まで押し寄せて戦った。ついで家康は元康に協力して野伏り衆を放って、挙母の砦、梅ケ坪の砦と火を付けて廻ったから、元康も喜び「この分なら織田信長を攻め滅ぼして人質に横取りされてしまっている吾児の信康を奪還しよう」と、桶狭間のあった翌年の十二月四日、合力の家康や三河党をもって尾張に入り、岩崎から翌日は森山へ兵を進め本陣を移した。処が、その陣中で、粗忽な家臣の為に、元康は間違って討たれてしまった。仕方がないのでひとまず陣をはらって退却ということになった。

これが世に謂う「森山崩れ」だが、討ち果たされたのは、永禄三年より二十六年前の天文四年のことで、討たれたのは元康の祖父の清康と通説はなっている。しかし天文三年なら、信長の父織田信秀が岡崎城と目と鼻の先の安祥の城まで確保して、三河の半分は織田の勢力に入っていた頃、どうして岡崎衆が入りこんで尾張の森山へ陣取りなど出来るだろう。この頃の信秀は小豆坂合戦で今川や、松平を撃破して”東海一の弓取り”とうたわれ、尤も威勢の良かった時である。だから、それまで互いに戦いあっていた二人が、合併してその時から一人になる。

つまり松平元康が急死したので、当座しのぎの恰好で家康が後始末する為、元康の後釜に入った。ついで、尾張の熱田に居た、信康を取り返すため、家康は元康の死を隠して、まんまと顔の知られていない事を奇禍として、自分が化けて代わりに乗り込み、清洲城で信長と談合して起請文を入れ和平を誓い、信康を戻して貰った。その手柄を買われて松平の家来共の衆望を担い、如才なく家康は立ち回り、幼い信康の後見人に収まり、やがて松平党を、その属とした。(ここは大事な処なので重複するが詳細に記しておきます)

殿様の松平元康が誤って家来の阿部弥七郎の手に掛かって急死した、岡崎城では跡目の信康がいないから困った。その時三州山中城を自力で乗っ取り、次々と放火して手柄をたてた家康が「和子を尾張から奪い返す計略として、俺を亡き殿の身代わりに仕立てい」と言えば、松平党の面々は「これは殿の喪を表沙汰にし、他から攻め込まれなくとも済む安全な上策である」と、賛成したものと思われる。だから、諸説は色々あるが、家康、元康の入れ替わりはこの時になる。

そこで、まんまと松平元康ん化けてしまった家康は、恐れ気もなく永禄五年三月には清洲城へ乗り込み、三河と尾張の攻守同盟を結んで、熱田に居たか、清洲に居たか(大須万松寺天王坊の説もある)はっきりせぬが、当時は四歳になっていた信康を貰い受け、岡崎へ戻ってきた。この手柄は大きいし、それに山中城主になっていた家康自身が、もうその時は、既に何百と私兵を持った大勢力だったから「この儘で、元康様が成人の時まで後見人」ということになった。時に家康二十一歳だから、その年齢で四歳の子持ちというのは少し早いいが、何しろ苦労してきたので、ませた風采をしていたのだろう。だから信長もこの時は、永禄四年から毎年美濃へ攻め込んでは負けていた矢先であるし、まんまと尋ねてきた松平蔵人元康(家康)を本物と思ってしまい、美濃攻めに後顧の憂いのないようにと、東隣の三河と和平をした。そして足かけ三年も尾張にいたのだから、信康がすっかり可愛くなっていて、自分の倅らと仲良く遊んでいる様子に、その頃生まれた女の子に「信忠、信雄、信孝信康も加え、五人で五徳のごとく輪になって確かり地に立てや」と初手から嫁にやる気で五徳と名ずけた。

その縁談も信康を戻す条件として家康に持ちかけたものだろう。この時家康は一時の便法でまんまと信長を欺き元康に化けたものの、どうせ信長などたいした事はない、その内誰かに滅ぼされるだろうと、高をくくっていたが、これがどうして、頑張って美濃も攻略し稲葉山の井ノ口城をとって大普請し、岐阜城と改名。こうなると家康たるもの、化けの皮が剥がれて瞞していたことが判ったらどうしようと戦々恐々とした。よって元康と家康が別人であったなどという証拠は、ことごとく湮滅させた。だから、三河の一向門徒の騒動とは、

所詮は家康が元康に変身した為に起きた宗門争いである。というのは、三河岡崎衆は、尾張長島の一向門徒と手を組んでいた。そこに、野州二荒別所から、駿府の久能別所にいた家康は、その家臣達も大久保党は七福神系、本多一族は白山神社系。

榊原康政は伊勢白子の松下神社の氏子。酒井一族は修験者あがり、といったようにどれもが神信心の者達で占められている。時はお寺とこれらの社は仇敵同志の世の中である。反目している内に・・・・先ず岡崎城で、亡き松平元康の家老であった酒井將監が松平一族を糾合して家康に叛心を抱いたが失敗して猿投山中へ逃亡した。

ついで昔は城代までしていた三木領主の松平信孝も、その他出中に三木の館を徳川党に襲われ、戻ってきて明大寺合戦で一族もろとも家康に皆殺しにされている。この後、松平大炊助好景も、幡豆郡長良の善明丹宮で家康側に包囲され全滅。そこで堪りかねた松平党の三河武者が、浜松や伊勢から来ている他所者の徳川党と戦ったが独力では無理なので、一向宗の力を借りたゆえ、表向きは一向宗騒動となったのである。

その後は三河岡崎城では最早家康に楯突く松平衆は居なくなった。家康に忠誠を誓う者は、松平姓でもそのまま許され懐柔策はとられていた。しかし合戦の時は徳川衆は「東三河衆」と呼ばせて、これを酒井忠次に率いさせ、いつも危険なところや先陣は石川数正率いる「西三河衆」を使った。たまりかねた石川数正は小笠原秀政らを伴って徳川を見切って、太閤秀吉の許へ走ってしまったのである。

【家康二人説】(3)

<<武田信玄は家康の正体を知っていた>>

上州。ここは当時、榛名山麓箕輪城長野信濃守の勢力範囲で、厩橋城の長野左衛門が世良田辺りは押さえていた。処が天文二十年の大洪水で、それまで北を流れていた利根川が今日のごとく前橋の西へ変わったから、関東管領として上州平井城にあった上杉憲政がこれまでの天険の防ぎを失い、やむなく越後の長尾景虎の許へ逃げ込んだ。そこで上杉の姓と管領の肩書きを譲られた景虎(謙信)が、関白近衛前嗣卿を伴って上州へ攻め込み厩橋城を占領。そこを近衛卿の城として、関東制覇のため小田原攻めを敢行した。

永禄四年九月十日が川中島合戦になるのだが、謙信は小田原攻略に失敗したので、近衛卿が帰洛した後は、北条(きたじょう)高広が景虎の命令で厩橋城の城代をしていた。が、永禄六年十一月になると、武田信玄がこの城を力攻めで奪った。そこで上杉方も放っておけず取り返した。三年たった永禄九年に、箕輪城を落とした信玄は又も厩橋城を奪った。そして今川義元亡き後の駿遠二カ国もついでに己が領国となさんと信玄は企てた。

信玄は本願寺裏方の姉三条氏を妻にしている立場を利用して、当時一向宗と呼ばれた石山派の僧たちを、住民宣撫工作に招いた。元亀二年の織田信長の比叡山焼討ち後は、英俊、亮信、豪盛と呼ばれる延暦寺の名うての僧たちも、焦土と化した山を下って、信玄の庇護を求めてきた。そこで信玄は彼らを<宣撫工作班>として信州、上州の各地に派遣し寺を建てて近隣の住民を集め「信仰は御仏、領主は武田」といった説教をして聴かせた。この武田の進出に怖れをなしたのは徳川家康である。

自己防衛のため織田信長と攻守同盟を結び、元亀元年十月には「上杉家文書」「歴代古案」によれば、越後の景虎の許へ音物(金目の贈り物)をなして、同盟を結び信玄に対抗した。しかしそれでも武田の仏教宣撫班が、「武田の権僧正鬼より怖い、どどっと来たって、どどっと斬る」といった触れ唄を御詠歌調で口から口へ流すのには閉口した。何しろ幕末まで、この地口は伝わり、「甲斐の吃安、鬼より怖い。どどっと吃れば人を斬る」と転用される程だから、その当時にあっても、権僧正の位をもつ武田信玄の威名は鳴り響いていたのだろう。そこで家康は、今は仏法僧で名高い愛知県挙母鳳来寺の猿女と呼ばれる者たちの居る薬師寺に対抗策を講じるように求めた。

現代で謂う”宣伝合戦”である。そこで「家康こそ何を隠そう、鳳来寺薬師寺十二神將の一体の生まれ変わりである」と説いて回った。後には関ヶ原合戦で薬師寺系の大名を皆寝返りさせた程の実力のある全国的な組織ゆえ、「かしこまって候」と、鳳来寺から各地の医王山へ司令が飛び、それぞれの修験者達が家康のために武田に対抗した。
【紹介者・注】
武田の一向宗、つまり後の浄土宗や真宗の本願寺派は、西方極楽浄土を説くのに対して、薬師寺医王派というのは、白衣を纏い、正反対の東方瑠璃光如来、を教える東光派である。教義がまるで逆で、墨染めの衣を纏って読経するり、修験、修法を旨とする白衣派であり、「武田一派の本願寺派を折伏せん」と各地から動員されたものである。

こうして双方が宣伝合戦をしている内に、信玄は妻の義弟本願寺光佐の合力でまたぞろ出兵してきた。越中、越前、加賀の一向宗の勢力をもつて、越後の上杉景虎を防ぎ後顧の憂いをなくしたからで、やがて美濃岩村城を落とした信玄は遠州二股の城も降し、二万五千の兵は家康の浜松城めがけて殺到してきた。

家康は十二月二十二日、夜明けと共に、三河岡崎勢を前発させ、遠江勢を己の旗本として全軍を率いて浜松城を出ると、秋葉街道を南下してくる武田勢に向かった。が、あまりの大軍に驚き取って返し、籠城の支度をした。武田勢は姫街道の西へ出て追分けで北方へと隊列を変えた。家康を討つ胆なら、眼前の浜松城を攻撃すべきなのに、信玄はそうはせず、全く無視して三河岡崎城へ向かおうとしていた。さて、現在のように徳川史観そのままの「松平竹千代が成人して松平蔵人元康になり、それが姓も名もやがて徳川家康に 改名した」といった伝説を鵜呑みにしていては判らない話しだが、当時の武田信玄は、(松平蔵人が誤って森山で斬殺されたのを奇貨として、後家の築山御前めに近よってその倅の岡崎三郎信康めを籠絡、家康はまんまと替玉を勤めている。が、今や当初の約束は守らず、成人した信康に三河を返すどころか横領せんと企てている。

よって戦のたびに最前線に出され、損害の多い松平譜代の石川数正らは堪まりかねている。故に、三河を攻めて彼ら旧松平の者らを解放することこそ、街道制覇の焦眉の急である)と全軍を向けんとしていたのである。さて、前記したが、もともと三河は一向宗の地盤である。だから、不慮の死で急逝した松平蔵人元康の身代わりとなって、世良田二郎三郎(家康)が岡崎へ入って来た時、薬師寺派の彼に激しく抵抗した。やむなく家康はその与党を率いて、一向宗徒と提携した三河松平党の征伐をした。しかしとても完全に征圧できぬと知ると、家康は引馬城を増築して浜松城とし、さっさと岡崎を引払ってそちらへ移り住んだ儘である。そしてその後はあまり三河へは寄りついていない。

だから三河の土民や地侍達は、「三河解放」を豪語して信玄が乗り込めば、残存一向宗の者らと共に歓迎し、瞬時にして武田方へ靡くのは目に見えていた。だから、名を取るより実をとれと信玄は、目の前の浜松城をまるっきり無視し、この時三河へ向かうとしていたのである。そこで、閉じ籠もっていた家康も、(この浜松城へ攻め込まれんで助かった)と、ほっとするよりも、三河へ入り込まれ住民を煽動されたら大変であると周章狼狽。すでに日没になっていたが「追い討ちをかけい」と城門を開かせた。「三河物語」の中で、大久保彦左衛門は、

「家康公は浜松城から十二キロの余も撃って出て武田勢を追いかけた。もっと真暗になってから奇襲を掛けたら、勝利を得たかも知れないが、三河へ行かれるのを恐れてはやりすぎたので、薄暮の中で捕捉され失敗したのだ」と説明している。つまり、この三方原合戦で、家康は完膚なきまでに敗れ、また浜松城へ逃げ込んでしまい、勝ち誇った信玄は三河の大野へ出られる細江まで一気に進出した。しかし、信玄は瀬戸城に入って越年し、雄図空しくここで病没してしまう。
【紹介者・注】
信玄は一向宗の僧達を自在に使い、己の宣伝をすると同時に、他国(駿河、遠江、三河、尾張など街道沿いの諸国)にも一向宗の勢力はあるので情報収集もしていた。だから家康が元康の替え玉だ、ということも判っていて、己の兵力温存の意味からも、浜松城を力攻めせず、こうした合理的作戦を採ったのだろう。「加越闘争記」巻一の始めの書き出しにも、はっきりと、「是則ち、仏法は大魔にして、武士の怨敵なり」とでているぐらいで、元亀天正の頃は、徴税つまり年貢を取り課役を言いつける施政権の奪い合いで、仏教徒と非仏教徒の武士は不倶戴天の仇敵同志だったのである。だから、この時代を宗教闘争、民族闘争として捉えれば理解できる。
【紹介者・補記】
さて、八切史観で家康、松平元康を解明すれば以上の様になります。従って松平の血脈は信康(竹千代)で断たれ、松平一族は悉く殺されています。 そして、松平の「姓」は徳川に従うという意味から”属”とされ、大名にもこの姓を与えている。武鑑を見れば、九州の島津も、東北の会津も松平姓で、この姓は多い。だから、徳川秀忠と御台所(江与の方・信長の異母妹、於市の末娘で信長の姪御に当たる)の間に生まれた国松(駿河大納言忠長)には、織田の血が流れているというので、徳川姓は名乗らせず正式には”松平忠長”である。

「右は神君大御所駿府御城御安座之砌、二世将軍秀忠公御台所江被進候御書拝写之 忝可奉拝誦之者也秀忠公御嫡男  竹千代君 御腹 春日局  三世将軍家光公也  左大臣同  御次男  国松君  御腹 御台所  駿河大納言忠長公也 従二位 」とあるこの確定史料は現在内閣図書館に秘蔵されている<内閣蔵本>の<慶長十九年二月二十五日付、神君家康公御遺文>というのがある。

これは明治四十四年刊の国書刊行会のものに<当代記><駿府記>といった、徳川史料のものと並んで活字本で収録されている。これによると、生母が春日局と御台所との相違をはっきり出している。が、父の方は、忠長の方は明白に御二男としてあるが、家光の方は御長男、とせずに、御嫡男の文字を当てている。現代では”嫡出”といった用語もあるが、この時代は”猶子”といった名前だけの養子であっても、これが跡目と決まると、<嫡出>とか<嫡子>とか書かれたものであって、一男とか長子という文字が無い限りは、その長男とは認められないことになっている。

これは当時の<陰涼軒日録>や<御湯殿之日記>にも、「嫡男とは長男とは違い、他から入って嫡男となり、そこの倅共と争う事など」と残されている。さて、家康~秀忠~家光~家綱~綱吉と続く徳川家であるが、

八切史観では秀忠は鍛冶屋の平太の娘、おあいの子(後の西郷の局)で、家康直系。家光も於福(春日局)に産ませた家康の子で、秀忠とは異母兄弟である。この春日局は本能寺で信長を襲った一万三千の軍勢を率いた斉藤内蔵介の娘なのである。当時於福は稲葉八左衛門の妻で四人の子持ちであった彼女を探しだし、夫の稲葉には五千石の扶持(手切れ金)を与え、夫婦の縁を切らせた。これを伏見城に連れてきて仕込んだ子が家光その人なのである。

(しかし、知らぬは本人なりで、家康は家光を自分の種だと思いこんでいたが、本当の父親は天海僧正らしい。これは「八切裏がえ史」や「徳川家康」「家康は世良田徳川の生まれ」の本に詳細。)
【紹介者・注】
何故に於福の産んだ子に徳川家を継がせたかの謎も、これ全て「信長殺し」に起因する。徳川史料を鵜呑みにして家光を秀忠の子とすると、何も判らないが、徳川家では家光を秀忠の子としないことには、まずかった理由は、家光及びその子の家綱、弟の綱吉の三代にわたって、神徒系の徳川家が全く仏教系に変貌してしまい、<神仏混淆>と言う時代に変遷してゆく為の糊塗策とも見られる。

【引用参考文献】八切止夫著「徳川家康」「家康は世良田徳川の出身だった」「元禄太平記」「徳川家康は二人だった」 駿府政事録・大日本国駿州城府分時鐘銘・駿河誌・武徳編年集成・城塁記事
世良田二郎三郎のこと

現在徳川物で広く流布されているのは、山岡荘八の「徳川家康」ですが、これの底本と言うか、下敷きになっているのは「松平記」です。これが問題なのです。政権が変わると前体制の悪政を暴露するのが通常です。家康も豊臣の生き残りを九州へ送り(豊臣松園)といった特別部落名さえ今も残ってます。

だから徳川慶喜は「明治の世代わりになっても、徳川期のことや、家康が部落出身だったことは絶対に蓋隠すること」を条件に、金のない新政府に三回にわたって献金した。さて、明治になって新政府は徳川慶喜に対し「汝その祖崇の地へ戻るべし」と駿府七十万石に戻され、やがて公爵になり、華族会の会長になる。「華族は皇室の藩屏となす」との明治大帝の勅によって明治十六年七月七日から徳川はまた権勢を回復してしまう。

それまで徳川時代の真相を暴露しておけば良かったが何しろ新政府は学のない軽輩ばかりで天下を取った喜びで酒食に溺れ、明治七年の佐賀の乱からは治安維持に追われていた。現代でも政権党になれば、地元に国家予算を分捕り、利権に預かる政治屋が多いのは慨知のことで、この国は明治以来政治体制はちっとも進歩していません。閑話休題。

だから徳川時代の事を調べ直す暇もなく神祇省廃止で当時の歴史家に当たる国学者も追放され関知出来ずでした。長州御傭い学者リースが、日本での博士号設定の時、学士会が設立され、これに権威を持たせるため華族会の下に入れ、その指示を受けるようになった。だから筑摩書房の「明治史論書」にも入っている村岡素一郎の「史疑徳川家康事蹟」が明治三十五年に徳富蘇峰の民友社より刊行されるや狼狽し宮内省華族会によって買い占めて絶版となった。だがこの本も大変な労作だが「三河後風土記」よりの引用が多すぎる。

しかもこれは贋本、贋系図造りの名人、元禄時代の沢田源内のもので、「松平記」も源内作だからこれを根本史料とした山岡荘八の「徳川家康」はまるで実像が違います。さて前段が長くなりました。本題に入ります。世良田二郎三郎が徳川家康なのです。


「本多元孝譜」に「永禄四年十一月一日には元康の御名で手紙類を出されていたが翌五年八月二十一日よりの送信や文書からは家康と改められた」と、当時の秘書役に当たる「物書き方」だった当人がはっきり書き残しているし、これは徳川家公認の指出系図を集めたものだから「まだ徳川初期の寛永年間にあっては、上州新田郡世良田村の二郎三郎という者が、神君東照権現にならせ給うまで、初めは元康と名のられたが、直ぐ翌年夏からは松平家康。次ぎに上下とも変えて徳川家康とならせられた」というのは公認されていた事実のようである。

この徳川という姓は、上州新田別所出身の新田義貞の生き残りの一族が、世良田、新田、日光、徳川と分かれ、元禄年間より本家は、新田を蔭姓として岩松と変わったが、代々、徳川家へ系図を貸してやり手当を貰っていたが、幕末、皮肉なことに徳川家が倒れると今度は本家の岩松満次郎が先祖の功により「新田男爵」となった。

また、元禄年間以降に編まれた徳川家の歴史では「松平清康ー広忠ー元康」となっているが、岡崎の大樹寺に葬られている広忠には「瑞雲殿広政道幹大居士」となっていて慶長十六年の寺の過去帳では、広忠の供養のため建立された寺だから「大樹院殿大居士」となっている。一人の松平広忠に二つの法号は変だが、同じ岡崎の松広寺にも広忠の墓があって、そこでは「成烈院大林寺居士」とあるし、その他にも「滋光院大林居士」の法号もある。

一人の死者に狭い岡崎の内で四つも戒名が有ると言うことは複雑すぎる。これは松平元康が徳川家康になったという元禄以降の仮説をもっともらしくするためには、「元康の墓や戒名が在ってはいけないから、四つの戒名を一つにして広忠にしてしまった」のだろう。これでも家康と松平元康は別人だということが判る。つまり本物の元康は家康の前身とされてしまったばかりに、戒名も墓も判らなくさせられている。

俗史では家康が三河へ入ると一向一揆がおきて、三河武者の大半がそれに荷担して家康に反抗したとなっているが、この真相も、「他所者を追い払おうとした当時のレジスタンス」であろう。何しろ家康になってからの二郎三郎は松平一族の長老の松平蔵人信孝を明大寺村で殺し、鵜殿康孝も殺し、松平好景も明丹宮で殺し、松平一族は殆ど全滅させている。そして全然無縁の連中に改めて松平姓を付けて糊塗したり、やがて本物の元康の子の「岡崎三郎信康」が成人すると、これに三河一国を返すのが惜しくなり、武田へ通謀ということにして、うるさい築山御前と共に始末している。俗史では、信長が、我が子に比べ三郎信康が利口なのをやっかんで、家康に命じて殺させたと言うが、本当の妻子だったら家康も殺すはずがないし、信長もそんな命令など出す訳がない。

この岡崎三郎は信長の猶子、つまり養子身分になって、信の字を名に付けて貰ってる位だから、これを信長か殺せと言う訳がない。天正二年に家康は鍛冶屋の服部平太の娘”あい”に作らせた長子秀康が、天正七年には後、二代将軍となる秀忠も生まれた。もうこうなると、信康やその母の築山御前は邪魔だから、産後のひだちが良好で自分の子達がよく育つとみきわめがつくや、親子とも始末した。勿論色々と体裁を作って誤魔化したろうが、これが信長に知れる。

と言うのは一介の土民から身を起こし、世良田二郎三郎と名のっても、尾張の名門の出の信長と違い基盤となる領地がない二郎三郎は三河に目を付け、松平元康が死んだ後、後見人と言えば恰好がいいが、本人になりすましたのである。(どうも、奇計を持って元康を殺したらしい。これは外国の推理小説に良くあるパターンである。

現在家康物を経営の手本とする本が出回っているが、この実像の家康を企業経営の手本としては”殺しの経営戦略”となってしまう) そして後に、松平蔵人元康として清洲城で信長と盟約を結んだ。この時人質として信長に取られていた本物の元康の子三郎信康を取り返し、三河と尾張が手を結ぶ一種の平和同盟である。

そして取り決めの誓紙二通に松平元康として署名捺印する。これはまさしく欺瞞、詐欺である。今で言えば私文書偽造だし、他人名義を詐称しての取り決めなどなんの効力も発生しないのは、当時であれ決まりである。これがばれたら信長に殺されるのは明白である。だから以後、信長の言うことを良く聞き、守ったのである。

こうした後ろ暗い負い目があるから、戦国時代には珍しく堅い同盟が続いたのである。だが「永禄四年に取り交わした誓紙の松平元康名が詐称だった」ことがばれそうになった。そこで慌てた家康は、五千両を持って天正十年五月十五日に、安土城へ命乞いにいった。

半額だけ受け取ってもらえてその場は納まったが、家康が京へ行くと五月二十九日に信長は小姓三十騎を連れ、突如として上洛してきた。家康は慌てて船便を求めてその日堺へ逃げた。しかし堺取締の信長の家臣松井友閑は一隻の船も自由にさせず、家康一行を軟禁した。

六月二日本能寺の変が起きた。そこで「フロイス日本史」では「三河の王(家康)を討たんとして信長は兵を集めた。しかし集まった者は裏切って、信長は髪毛一本残さず吹っとばされた」とある伊賀山中を越え、必死もっしの難行苦行で逃げ戻った家康は、直ぐ大軍を出して愛知県の鳴海に本陣、前衛を津島まで出した。しかし秀吉が十三日ライバル光秀を山崎円明寺川で全滅させてしまった。ところが家康はその五日後に至るまで鳴海で頑張っていた。

勝った者向かいといった勝ち抜き戦の有様なので、この時家康は秀吉を討ちたかったらしい。

しかし情報網を張り巡らしていた秀吉に(信長殺しは家康の差し金)という弱点をつかまれていたので、やむなく二十日に陣払いして戻っている。そして、(他へ知られたくない急所)を握られていたばっかりに、秀吉の在世中は諾々とその命令下にあったらしい。

なにしろ用心深い秀吉は、三河衆の筆頭石川数正を引きぬきして、いざという場合に備え生き証人にしていた。その他にも岡崎三郎の長女の夫小笠原兵部少輔秀政と次女の夫本多美濃守忠政の二人も秀吉の臣となってしまったので、これでは家康としては「信康殺し、信長殺し」と続けてボロが出てしまうので、鳴くまで待とうホトトギスと、時節到来まで辛抱していたのだろう。だから秀吉が死ぬと直ぐ、大阪城を焼いて天下を取った。そしてその間に信長殺しをさせた斉藤内蔵介の娘阿福が他へ嫁し四人まで子があるのに、

これを伏見に引きとって子をしこませ、やがて産まれた子と共に江戸の秀忠のもとに送り込んだ。家康としては、信長の異母妹於市の産んだ達子の子国松には、織田の血脈が流れているから「あれに徳川の家を継がせるなど、もってのほかである」と於福(後の春日局)に産ませた子の竹千代(後の家光)をもって三代将軍家光とした。

秀忠も老いた父の家康から信康殺し、そのためやむを得なかった信長殺しの顛末を聞かされると「徳川家の恩人斉藤内蔵介の娘の子」つまり異母弟にあたる家光が二十歳になるのを待って直ちに将軍職を譲ってしまった。家康は己の晩年の子の家光を三代将軍に決めて駿府へ戻ると安心したのか翌年に大往生をとげた。しかし三河の人間でないから駿府の久能山へ葬るよう遺言した。所が家光は「自分を将軍にしてくれた父家康の恩に報いるため」まず織田家の血を引く名目上の弟の駿河大納言忠長を上州高崎で殺させ、その母の達子は押し込め同然にした。ついで家光は世良田村の奥に日光別所があるのに目をつけ、ここへ今も現存する日光東照宮を建てた。戒名も墓も判らぬ松平元康に比べると、二郎三郎家康は幸せである

世良田事件
この事件は、徳川幕府崩壊後、初めての反徳川騒動である。徳川家は、明治三十年になって、徳川の由緒正しさ、出自の正当をことさらうたった「松平記」を創作して配布した。そして村岡素一郎の「史疑徳川家康」が出版されるや、徳川公爵家の権威で内務省警保局によって買い占めや発禁処分にし、この事件にも、ほおかむりの知らぬ顔を決め込んだ。よって今では隠匿され忘却の彼方である。群馬県、上州新田庄世良田郷というのは、今も「徳川」の地名が残っている、昔は特殊村落である。

権現様(家康)は此処の出身だから前名は世良田二郎三郎を名乗り、代々新田の長史である岩佐家の系図を「お借り上げ」と称して召し上げ、その代わり岩佐家には新田郷の人頭税を取ることを許可した(この新田家は幕末まで続き維新後は男爵となる)此の地の人間は絶対に農耕をしないので、富裕ではないが「恐れ多くも此の地は神君家康公の生誕の地である」と、家康の御威光によって、近村から上納米を徴収して幕末まで徹底的に搾取してきた歴史がある。

さて、現代でもこうした特殊村落出身の成功者ほど、その出身を隠したがると、いわれる元祖は徳川前公爵家かも知れぬ。勿論、家康の血統の尾張の継友を毒殺して、その弟の宗春の子供も一人残らず仕末し、すっかり根絶やしにして、三代家光からは朝鮮の血を引く徳川に変貌したせいもあるが、臆面もなく堂々と、「徳川家康は松平蔵人元康の改姓名」とするような徳川神話を作った。これは、皇室の藩塀たる華族会長の徳川の祖先が、特殊村落出身ではまずいということで、誤魔化しの発表である。故山岡荘八がその現代語訳の大河小説「徳川家康」をそっくりそのままで書いているので、今では松平元康=徳川家康が通説となっている。

さて、明治時代まで近郊の者は世良田郷の人たちに遠慮し「世良田徳川は権現様の由緒ある地」と別扱いしていたのが、徳川公爵が「権現様は松平元康と同一人物で、三河の生まれ」と世良田生まれを否定したのが一般にも広まったから大変である。「よくもこれまで何百年も徒食していたな」と、積もりつもっていた積年の恨みが爆発して「二千の近在の者が、僅か二十四人しか住んでいない処へ乱暴して仕返しをした」のが、この世良田事件なのでである。

此の事件で、徳川公爵家は見舞いどころか、全く我関せずと頬被りした儘なのが後の差別問題にも大きな影響を与える結果ともなったのである。そこで世良田徳川の者は鬼石やその他近くの部落に応援を求めて竹槍隊を組織しこれが全国水平社運動の始まりとなるのである。
【紹介者・注】
この一事をもってしても、松平元康が徳川家康だとする説は嘘だと いうことが明白である。ここで留意したいことは、特殊部落から出て世間で立身した者はその前身を隠したがるのか、同じ部落出身者を酷く嫌う。現代でも有名な某会社等も、新入社員は興信所で身元調査を徹底的にさせているし、他の同じ部落出身の社長の処も会社側が極度に嫌っている。

『此処で誤解のないよう断っておくが、差別を容認したり助長するのが目的でこの文を書いているのではない。むしろ全く正反対で、謂われ無き差別は、歴史を正しく理解すれば解消される、という立場だという事を強調しておくものである』

徳川家も家光以降は、此の傾向の先駆であって、臭いものには蓋をしたがるゆえ有名な「三河風土記」は沢田源内の偽作であるし、大久保彦左衛門の「三河物語」は初めのものと大きく変わって、これも家康神話に迎合して彦左衛門の子孫が加筆した偽作である。

何しろ「人間の一生は重荷を背負って・・・」の遺訓が、明治になって勝海舟らの旧幕臣らによって偽造された。が、これは「そんなことは嘘だ」と尾張徳川家ではバラしている。海舟にすれば、幕臣なのに、自分はいち早く徳川を見限り、新政府に巧く取り入った罪滅ぼしか、徳川家のための最後のご奉公だったのだろう。徳川家は小田原合戦後、それまでの三河遠江駿河を取り上げられ、関東に移ったが家康は世良田徳川の出身だから、同族である関東の地侍もみんな召し抱えた。領地が三倍に増え人手不足もあったろう。

尾張の三河は、一向宗一揆の名目にはなっているが、国中が家康を目の敵にしたから、家康は生涯で半月も岡崎城には居らず、いつも浜松城にいた。だから、「三河譜代」と言うが、家康が召し抱えたのは関東の三河島衆のことで彼らを片っ端から旗本として召し抱えたのが本当のところである。「野史辞典」に、尾張三河の旗本は一家のみと出ているのはこのためで、旗本八万騎とは全部が三河島の地侍である。だが現地採用の彼らに箔をつけるため尾張三河出身と変えたのか、講談で誤られたか、広められて武鑑すらも間違えている。三河岡崎が家康の出身地なら、徳川家の直轄にする筈だし、家臣の水野五万石にするはずはない。

水平社運動

大正十二年の関東大震災前後から、日本全国の特殊部落の人々が、ただ恰好だけに過ぎない、明治四年に発令された「エタ非人称号廃止令」は返上し、昔のように自分たちの限定職業を戻して欲しいと各地で集まったのが、この運動である。明治維新後、近代国家建設を目指した薩長政府は、国民に税金を課すことになり、新しく戸籍を作ることになった。これを明治壬申戸籍という。

江戸時代までは百姓は寺人別帳、町人は町人別帳として、それぞれの人口把握はなされていた。しかし、これらの何れにも属さない限定地に住む日本原住民の数は把握されておらず、この当時、お上は数十万人と軽視していた。所がそれは家長のみの数で、大正時代にはいると自らエタと誇らしげに叫ぶ原住民でさえ三百万。

まだ身元を隠して都会などに流入している潜在人口を推定すると二千万に近いことが判明した。そこで叛乱を恐れた政府は慌てて「大和同志会」なるものを官費で各地に作って懐柔策に出た。この時出獄してきた松本治一郎が水平社を作り、小学校での差別や各企業での故なき解雇に対して、むしろ旗をたてて、人間は平等なり、の戦いを開始した。

これが日本労働運動の嚆矢である。こうなると政府としては「大和民族は単一民族なり」とする看板に傷が付くのを怖れ、時の山本権兵衛内閣は己も同系の出身なのにも係わらず、国家機密費をもって、金で動く右翼を作り、それによって水平社退治を全国的に官憲の応援のもとでやらせた。

「水平社運動史」の血生臭い各頁を見れば出ているが、縄文時代さながらに、竹槍で対抗する水平社の闘志に対し、日本刀や散弾銃、時には軍隊払下げ銃の右翼各団体が、一部落つぶせば何百万円の懸賞で襲撃した。当時奈良から岡山にかけては、殺されるのを恐れて部落民が各地区から次々と逃亡が続出した。妙な話だが、博徒系の右翼団体は歴っきとした日本原住民なのである。それか゛大正時代になってもまだ「夷をもって夷を制する」と藤原時代そのままで、金でつって戦わせたものらしいが、全く金が義理のこらえ性のない奴隷根性の民族性である。

勿論協力しなければ弾圧されるので泣く泣く右翼の連中は命令に従ったのだと「酒井栄蔵回顧録」には出ていて仕方がなかったらしい。昭和56年3月。NHKで当時の生き残りの水平社の人々の回顧放送があったが、苗字にみんな石とか伊の字が付いていて、当人は知らずだろうが、壬申戸籍で新しく部落の者にも苗字を付ける際、多くはその出身地名をつけたがその他は「夷」の当て字変えをしたからである。

終わり
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八切史学の古代日本王朝史考

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/yamataikokuco/yagirishigakuco/kodaiotyoshico.html


「家康サンカ説・八切史学概説・信長考・真書太閤記考、その他」を転載しておき、後日検証する。
最近、読者からの質問が増えてきました。八切説の出典は何かと聞かれます。勿論、先生は膨大な史資料を読破して、考えて
考えて書いております。「家康は世良田徳川の出身だった」には、出典が明記されておりますが、ここでは家康関係の史料について少し紹介します。
尾張徳川家書物奉行が、代々受書を出して、名古屋城幅下三の丸の書庫で厳重保管されていた、門外不出の
『源神史巻・重代記』と、この中の『章善院目録』を見せて貰い、家康が二人いたという事が判ったと書かれております。又、村岡素一郎の『史疑徳川家康』も参考にはしたが、これは労作ではあるが『後三河風土記』よりの引用が多すぎる。ともあります。
これは贗本ですから史料ではありません。興味のある方は「家康は世良田徳川の出身だった」(日本シェル出版)を是非読んで理解を深めて頂きたいと切望します。以下に会議室の発言を紹介しますが、一部重複と、順不同をご容赦願いたい。

【共通史観・大前論の疑問】

大前研一通信、VOL28のアジア連邦の世紀にみる、日本がアジアで成功する10の法則の内、第9の法則に<アジア各国と歴史の教科書を共同で作る>とあります。会員の方は既読のこととして、ここでは重複を避けますが、私も基本的に大前説に大賛成です。

実は他の会議室でも議論になって、私は一衣帯水の距離の韓国との「両国の歴史の検証をせよ。その場合は日本側のメンバーは東大を頂点とするアカデミックな学者は外す事」を提唱しました。

何故なら「記紀」を金科玉条として、足利史観、徳川史観、皇国史観を拠り所としている現状の官学の彼らからは、正しい民族の歴史認識は生まれよう筈がないからであると。従って、大前説を実行するには「日本史の再構築」が必要で、それを持ってアジアの国々と、自国に都合の悪い部分をもさらけ出して、すり合わせる事が重要だと思う。新しい史観で、
”過去を隠さず、過去の怨念は捨て、過去を宥恕出来れば”可能であろう。

私が危惧するのは、”新史観の確立”など現状の日本ではとても無理で、教育改革、大学改革も含めた部分的改革より、平成維新成就後、「日本が良い国」になった暁に在野の識者を広く募り一気に断行した方が、近道ではなかろうか。
現状の史観をもってアジア諸国と討議しても、大前さんが言うように、一行も合意されない事になって、取るか取られるかの緊張関係に向かってしまう。これは、日本にとっては決して得策ではないと思うのだが。

さて、それでは現状の「史観」に代わる新史観を構築するための手がかりは在るのだろうか。実は以下に紹介するが「八切史観」がまさに確立されて、存在しているのである。ただ日本の歴史学会が認めないで、無視しているだけである。

四百年以上も前にデカルトは言いました。「学ぶと言うことは疑義をもってそれを解く技術である。一切の先入観を棄て全てを疑い、そこに自己の存在を不可疑として確立。我れ思考し我れ疑うゆえに我れ在り」と、形而上学の課題を提起しました。

(八切史学概説)

八切説では、中国大陸よりの藤原氏が律令体制による日本全国統一がなされるまでの日本列島には、少なくとも八っの王朝が存在したと説きます。

1)奈良王朝===大和、河内
2)吉備王朝===中国系の(華夏)で岡山
3)白山王朝===裏日本北陸
4)東日流王朝==東北津軽
5)蘇我王朝===神奈川、曽我
6)淡海王朝===琵琶湖から中部地方にかけて
7)富士王朝===富士山の麓
8)阿蘇王朝
  隼人王朝===九州

【注】王朝といっても、大きな部落で、この部族の長が統治していて、人口は数万と思われる。そしてこれらは、さして争いもなく、日本列島に棲み分け、していたのである。

そしていわゆる大化改新の前は、この中で、蘇我王朝と白山王朝(いずれも新羅系の騎馬民族)が提携して主導権を握っていた。
だから、大化改新なるものは、百済系の奈良王朝(中大兄皇子)と中国系の吉備王朝(藤原鎌足)が連合して、蘇我(白山連合)の実権を打倒したクーデターということになる。
次に、白村江の戦いで、唐、新羅連合軍が、百済、日本連合軍(但し、ここに日本というのは誤解を招く。実質的にそれは百済系の日本内分国、植民地としての奈良王朝ということである。奈良王朝は母国百済存亡の危機にみまわれ、総力を挙げて母国救援の軍を出した)を壊滅させた後、いよいよ唐が日本占領に乗り込んで来るのであるが、唐の占領政策は、日本列島内で主導権争いを続けていた高句麗系、新羅系、百済系の対立抗争を巧く利用する。

即ち、百済系を重用し、これを主たる代理人として、日本の全国統一権力体系を作ること。それゆえ百済系をして、高句麗系、新羅系、古代海人族を駆逐させること。この辺の八切史観はきわめて示唆的である。

こうして唐の占領軍は日本原住民の大叛乱の抵抗に対して、百済系を手先として全国統一の律令体制を確立し、その支配のイデオロギーとして、彼らの仏教を利用する。七世紀末から八世紀初頭にかけての、三、四十年を準備期間として、日本はこのように一変したのだが、それから千二百年の間、現在に至るまで、天皇を頂点とする、この律令体制の大枠は維持されている。
そして文部省の学校歴史とされている。

八切説は、日本史を天武天皇以前と以後に大きく二分するのだが「日本奴隷史」を書いた阿部弘蔵氏も、八切説と根本的には一致している。この律令体制に於いて、貴族と賤民が区別される訳だが、ここにいう貴族の正体とは唐占領軍の幹部連中、百済の亡命王族、貴族のことを意味し、律令制の位階制では、五位以上が宮中に入れ、貴族としての身分と、経済的特権が保障されている。

賤民とは、江戸期の大名でも従五位下であり、彼ら貴族以外の全ての日本列島の原住民を指すのだが、その種類として

○日本列島に最も早く移住してきた西南系海人族(これが縄文時代、及びそれ
以前からの日本原住民である)
これは後に七福神信仰でまとまっていく。

○弥生時代になって、大陸、朝鮮からやって来た侵略者の為、マレーシア、雲南
方面からの水田稲作農耕の奴隷、農奴とされた人々。
これを八切説では古代海人系という。

○弥生時代に大陸の影響のもとで日本列島に始原の国家が出来てゆくが、これを
天の朝と名付ける。この天の朝は、古墳時代に朝鮮からやってきた騎馬民族
武内宿弥のために滅ぼされた。しかし、天の朝の残党は
日本各地に生き続けて、現代も多くいる。

○古墳時代の権力は朝鮮半島の三国、高句麗、百済、新羅の分国(植民地出先権力)
に他ならないが、律令体制下では百済系が唐系の権力に組み込まれ
高句麗系、新羅系は権力の座から追放され、蕃族として圧迫され、迫害
された。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
以上大別して、四つの種類の民族が賤民とされたわけである。つまり、庶子の民とされる現代我々が使う「我々庶民の生活は苦しい」等と使う庶民であり、平民とされた。その後の千二百年はこれら四種の賤民たちの下克上の時代と云いうるのであるがその中でも

イ)文治革命(西南系海人族の伊豆の北条氏と新羅、高句麗系騎馬民族で
  頼朝に代表される源氏の同盟によって、律令体制に挑戦して、鎌倉に
  幕府を立てる。しかし、北条政子は夫である頼朝を殺し、その子たちも 
  殺し、頼朝の血脈を断つ。ついで源氏の主立った者たち、三浦、梶原など
  も殺す。その為、生き残った源氏の残党は各地に分散し、隠れ住む。
  結局、源氏は政子に利用され、使い捨てにされた)

ロ)信長による革命(織田は平氏を名乗っているように、古代海人族の系統で
  信長は日本各地の同族達の解放を目指しただけで、日本全土の征服まで
  考えていなかったと思われる)

ハ)幕末維新革命(当初、これは神祇による、仏教打倒の革命として始まったが
  つまり、源氏と平氏の大同団結で革命が成就しかかったが、隼人族の末裔
  である、薩摩や長州のため失敗する。
この三つが特記される。

明治以降の日本の体制は、律令体制の土台の上に(あくまでも律令制の大枠は破壊されていない)欧米の資本主義制度を設営し、国益尊重を第一としたものである。それゆえ、現代の日本的資本主義の変革は、欧米系制度のみを目標にする訳にはゆかない。

その下にある律令制の土台、即ち官僚制をひっくり返さなければならない。そうするための不可欠の第一の前提、準備作業こそ、律令体制の産物としての記紀に始まる日本史の偽造の正体を暴露し、日本原住民の真実の歴史を
明らかにしてゆくことである。八切史学は、その為の口火を日本で始めて切ったわけである。
戦国時代から切り込み、そこから上代に遡り、現代にまで下がった。これが八切史観の概説なのである。

だから私の批判の矛先はアカデミイズムに胡座をかき、記紀を金科玉条としている歴史学会にどうしても向けざるを得ない。

以前、和歌森太郎、梅原猛、八切止夫の三氏で週間読売で座談会がありました。その時和歌森氏が梅原氏をつかまえて「俺はリースの直系の孫弟子にあたるぞ」と言ったら、梅原氏が畳に手を突いて最敬礼したといいます。

ルドウイッヒ・リースは日本の学校歴史を作った最高権威者で、その直系門下は虎の威をかる狐なのです。八切氏は面前なので冗談かおふざけかと思ったら、「いや、愕くなかれ二人とも真面目で本気なんです。故和歌森太郎が言いたかったのはリースの直系だと毛並みと言うか、その誇りなんですね。リースの直系の弟子というのが小川銀次郎、それから三上参次、その教え子が直系の弟子なんです。そして又その教え子の和歌森太郎はその孫弟子になる。サラブレットの血統書なみ・・・」と言っています。

医学界も白い巨塔ですが、こんな徒弟制度では、師と全く違う新説など出しようがないでしょう。
だから私学や民間の研究者の方が大胆な仮説をどんどん出していますが、反論もできずこれらは無視です。
そして重箱の隅を突っつくようなことばかりやっているのが現状である。

何しろ師は就職や昇進、儲けの大きい教科書編修員の斡旋など、強大な権力を握っているので、たいがいの人間はナエてしまいます。何と言っても”生きる”ということは大変ですから。
大学全般に言われていることですが、制度改革が急務です。余談ですが、先日、官学理系の助教授と話していたら
「○○さん、大学は解体ししなければダメです」と過激な発言です。「君たちが内部改革できないのか」と聞けば「やりたいが、やればクビが飛んで食えなくなる、それに危機意識なんか無い奴が多い」と言います。

現在、大前さんが提唱しているように、日本的システムの世界化が急務ですが、前記したように、21世紀を見据えた、大学改革も
含めたゼロベースでの大改革が必要です。中でも教育、特に世界史に合わせた日本史の見直しが大切です。
前半が神話で後半が歴史だという記紀が根本史料では日本史は霧の彼方です。

さて、あらゆる史書は政治的です。が、その内容は同質ではありません。何を以って史書となすべきかと言えば、日本側はさんざん改竄、偽造したけれど巧く偽造しきれなかった文書、即ち国家的な偽造でない<上記><宮下文書><秀真伝>等に史料価値があります。拙劣な偽造と言う意味では<旧事紀大成経>や<東日流三郡誌>もあります。

朝鮮側では形式化しすぎた嫌いはあるけれど<桓壇古記>系の一連の史書が在ります。その他<契丹文書>も在ります。
これらを総合すれば日本史の復元は可能です。しかしこれをやっても儲からないから誰もやりません。民間の鹿島昇氏、佐治芳彦氏、八切止夫氏ら極少数です以前飛鳥を発掘した時、大化改新のクーデターの舞台の板葺宮の跡が出てきました。
「古事記」「日本書紀」では火事で焼けたと在りますが、全くやけた形跡が無い。大化改新の舞台は板葺宮ではなく、浄御原宮ではなかったかという、誠にあやふやな話しがあります。

天皇陵の発掘をすれば、日本史の謎の部分が解明されるのだが、宮内庁は絶対に許可しない。
よく大和朝廷、と言いますが、この当時まさに日本に強大な独立国家が在ったような印象ですが、まだ大和だけの勢力で、色々な王朝があって群雄割拠であった。
それが遣隋使を送ったということは、大陸から攻められないため貢物を送り各王朝が臣従していたということです。

日本に対して決定的に大陸勢力が強くなるのは西暦663年以降で、唐の時代からです。遣隋使は朝鮮の王朝も送っていますし、岡山以西の各王朝も送っていたと考えられます。贈り物の多少によって、どちらの方が勢力が在るらしいとか、向こうから判定されて、金印や鉄剣を貰っていたと思われます。これが倭の五王と称する讃、珍、済、武までなのです。

【引用参考文献】
八切止夫著「天の日本古代史研究」「日本古代史」「サンカの歴史」
     「野史辞典」「庶民日本史辞典」 
九鬼文書・竹内文書・宮下文書・ウエツフミ・ホマツツタエ・ミカサキ・
物部四書・契丹日本史・桓檀古記・三国史記・三国遺事・隋書・史記・
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☆☆☆☆☆八切史学の入門書☆☆☆☆☆

「八切史観」は始めから完成されていたものではありません。氏が48年間かけ、次々と考究して完成させたものです。
従って、従来の通説歴史とは全然相異するもので、類書等は他に存在しません。おそらく日本開闢以来の史観です。

三百数十冊の著書があり、考証物から、読みやすくと配慮したエンターティメントの物も在ります。しかし、どの著書も史、資料を集め
埋もれていた史料を発掘し、全国に延べ三百人もの人間を派遣し、土地の古老などの聞き取りもしたものです。

「点と線と言うが、点を見つけ、漢字の当て字にとらわれず、常識をもって納得がいくまで感を働かせ、理詰めで、何故に、何の目的で、誰が書いて誤魔化しているのかと、裏読みしていくのが八切史観、八切史学にかけ、考えに考えることが、私の全てであった」
と、氏は言っております。

だから、膨大な数の著作の中の一冊や二冊を読んでも、理解は無理です。真実の歴史を知りたい人のため、お節介かも知れませんが、読む順番を記して置きます。

(1)天の古代史研究      (1)八切裏がえ史
(2)日本古代史入門      (2)続・八切日本列島原住民史
(3)野史辞典 廉価版     (3)忍術論考
(4)庶民史辞典         (4)八切日本外史
(5)不可思議な国ジャポネ   (5)隠匿の日本史
(6)日本人の血脈        (6)特殊部落発生史 
(7)同和地域被差別の歴史  (7)武家意外史
(8)八切史観補遺        (8)幕末の群像
(9)サンカ生活体験記     (9)女達の動乱史   

以上の物を読んでから「サンカの歴史」を読めば、文部省学校歴史や通説、俗説がいかに出鱈目か良く理解できます。

以下も読者の質問への回答形式
○○さん今日は。ご返事遅くなり済みません。
>この資料は公開されているのでしょうか?また、いわゆる歴史家との討論は
>なぜなされていないのでしょうか?不思議な気がします。

八切先生は亡くなる二年ほど前、ご自分の史資料をフアンに限定販売や無料贈呈しました。明治三十七年、名古屋市役所編纂の「名古屋史要」は古書価格で百三十万。現在残存一部といわれる、小谷圭一郎の「ジンギスカン義経」の種本の明治刊の内田弥八著「義経再興記」や、本物の「松平記」「手書き兵法雄鑑」等の珍奇本、赤穂義人纂書、1、2、3、巻、幕末確定史資料大成、
徳川合戦史資料集大成、日本歴史史料集大成明治史学会雑誌などなど。これらは古書相場十万から八十万です。

先生は三十年間に約二億円位かけて、二万点余の史資料を集めています。嫌みったらしく値段を書いたのには訳が在ります。
史資料は、真実探求の飽くなき情熱があり、足を使い、金を惜しまなければある、と言うことを、いいたかったのです。
勿論、活字本になっているものも沢山在ります。現物でなくとも写本だってまだまだ在ります。

東大歴史編纂所には、豊富な史資料が在るので、研究する気が在れば出来るのです。しかし現在のような、記紀金科玉条主義、足利史観、徳川史観、皇国史観その儘の学会からでは無理でしょう。むしろ、唯物史観の連中の方がよく勉強しています。
だから八切史観にも反論出来ず無視を決め込んでいます。日本はまさに巨大な”偽史シンジケート”が牛耳っているのです。

○家康、元康入れ替わり説について、謎の徳川家康の続編として紹介します。
#1919、#1979にも記してあり、一部重複しますが。

次郎三郎は今川義元が上洛するにあたって、三河の当主松平元康の子、竹千代を誘惑した。というのは、今川の先駆けとしての元康が討ち死にでもすれば、三河の当主の跡継ぎを次郎らが押さえておけば、三河一国は握れるだろう、という深謀からである。

だから狐が崎の人質屋敷から、大久保、板倉、酒井らと共に竹千代をさらった。さて、この時の事。
次郎は大河内源三郎の妻である乳母の協力のもとに、竹千代を誘拐して、慈悲尾の増善寺へひとまず逃げ込んで、ここに暫く隠れていたいた後、その寺の等善坊の助けで小舟を借り、寺男の瀬平が葛籠に竹千代を匿し、共に石田湊に出て、鍛冶屋の娘おあい(後の西郷の局、秀忠の母)のいる、掛塚へ戻った。次郎が家康となって天下平定後、等善坊はこの時の手柄で遠州可睡斎という拝み堂を新築して貰い、土地では「恩禄を得た有徳な修験者」として評判だった。寺男瀬平も、神君より召し出されて、「味知」という姓を道案内の故事からとって安倍川の西の持舟山一帯の朱印状を貰った。「神君御難の時背負いまいらせた名誉の者の家柄」ということで、この子孫は
幕末まで連綿として続き、苗字帯刀だったと「駿府志」にある。

しかしこれは運の良い方の話しである。酷い目にあったのは、誰が松平の世継ぎを奪って逃げたか直ぐ判ったから、乳母の大河内源三郎の妻や、次郎の祖母源応尼がそれぞれ捕らえられ殺された。桶狭間合戦は永禄三年五月十九日だが、その当時のことゆえ狐が崎の刑場で殺された源応尼の屍は部落の者に分けられ、内蔵や脳味噌がそこの唐人薬屋へ渡されたのは、華陽院の墓碑名によれば「永禄三年五月六日」となっている。

つまり桶狭間合戦の十三日前に源応尼が処刑されたのだから、次郎が松平竹千代を奪取したのは四月ということになる。そして、
「松平啓運録」に「狐が崎の知恩院に尼を葬り奉りのち、慶長十四年にこれを移す」とある静岡の玉桂山華陽院府中寺の寺宝になっている徳川家康自署という掛額がこの間の事情を裏書きしている。ここに原文のまま一部引用する。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
是斯梵刹也者、祖母源応尼公之旧地也、初今川義元、略東海之諸州、居府城之時、
為厳父君遠出三州而質於府下寓居於禅尼之家、禅尼慈愛之、頗紹干所生而受恩
於尼公、従幼至志学之後、「既始発義軍於浜松、而征数州禅尼思之痛矣、
干時永禄三庚申夏五月、聞訃轅門不堪哀慕之情然如之何、使人送葬干此然是行
戎役未息墳墓唯為封而己、

(旧漢字が多く、辞書から出てこないため後略します)

龕  慶長十四年春三月
                   大將軍 翁  印
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
さて、この中で問題になるのは「自分は遠州浜松で義軍をあげ数州を征した」の箇所で、少しも三河岡崎でとは書いていないことと、直ぐそれに続いて、「禅尼(源応尼)がこのことで思い痛め心配した」という一句である。家康が武門の出身なら、岡崎でなく浜松であったとしても、旗揚げしたなら、「こりゃめでたい」と賞めるべきであって、祖母の源応尼が心配するというのは変である。つまり徳川家康の出身が、祖先は新田義貞であったにせよ、この祖母の頃はぜんぜん武門の家柄でなかった証拠であろう。
つまり「とんでもないことを次郎はしおって、おかみに逆らうようなことをして、申し訳もないことになったわい」と源応尼は案じていたことが、これでも良く判る。

さて、轅門、というのは陣中のことだから、この文面では、「永禄三年の五月に源応尼が亡くなったのを聞き、自分は悲しんだが、陣中にいたので如何することもできず、そこで秘かに人をやって葬らせた。が、後も戦が続き仮埋葬のままだったが、いまや自分は征夷大將軍となって天下の兵馬の権を握ったから、五十回忌にあたってここにまつる」となっている。
しかし、今日の俗説では、「今川の人質となって行く途中を奪われ、松平竹千代は尾張の織田家へやられたが天文十八年十一月、今川義元と織田信秀が三河の安祥で戦った際、人質にとられた信秀の長子と交換で竹千代は今川へやられた。この竹千代が成人して、やがて松平蔵人元康となって、義元の死後岡崎城を回復し、やがて徳川家康となる」となっている。
どちらが真実かは読者の判断に待つよりない。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
竹千代というのは代々世襲の幼名だったから「松平蔵人の幼名が竹千代」であっても差し支えないが、尾張へ行っていた竹千代が、その蔵人だったと思えない証拠が現存している。

天文十八年というと、信長十六歳、その時の竹千代は八歳になる勘定だが、「寛政二年戌四月加藤忠三郎書出し書」という、尾州候へ提出の文書があって、その中に、
「てまえ先祖加藤隼人佐妻よめが、竹千代をお守りした時に作って差し上げた雛人形二対及び賜った桐の御紋の盃を、今に到るも家蔵している」というのが今も「尾州藩史料」に入っている。しかし、女児ではあるまいし、八歳の腕白坊主に、お雛様を作ってやって遊ばせたというのはどうであろうか?と疑問が生じる。
俗説の家康がこれでは八歳で変てこでだが、もしこれを、松平蔵人の跡目の竹千代。つまり、後の岡崎三郎信康、と見れば、彼なら世良田次郎三郎や酒井浄賢が盗みだしてきた時は、まだ二歳だから、これならお雛様でも遊ばせられたはずである。
又、その幼児が後の徳川家康ならば、上州新田郡世良田村は別名「葵村」と呼ばれるように葵が多く茂り、徳川は「葵紋」を採用したが、松平の方は、代々ずっと桐紋しか用いていない。
だから文中の盃の紋からしても、預けられた子は俗説の家康ではなく、松平元康の子の信康であることは間違いないであろう。

この後竹千代は田原城の戸田弾正に奪われ、信長の許で育てられる。そして奇妙丸(信忠)、信雄、信孝、五徳姫、と信康の五人を信長は可愛がる。五徳と言う名の由来は、火鉢の中へ入れる鉄製の金具で、五本足でしっかり支えて上に薬缶をのせるものである。

つまり、五徳を岡崎三郎信康と一緒にさせようと信長は思っていたらしい。この「信康」という名乗りも、信長の父信秀の異母弟で、織田与二郎信康という織田家隆盛には一方ならぬ骨折りをして、討ち死にした柱石の叔父の名からとって「岡崎三郎も、その信康にあやかって織田家に尽せ」と信長が命名したものである。

だが通説では、信長は成人した信康の武辺や武功目覚ましく(これでは己が倅共より立ち優って行く末とても剣呑である)と、手なずけるため五徳を嫁にやって、隙を見て信康を亡き者にしようと謀っていたところ、我儘者の五徳がざん訴してきたのを勿怪の幸いに、事実無根を百も承知でこの好機逃すべからずと、直ちに家康に処分を命じた。家康は我が子可愛さに信長に対し嘆願したが許されず、
泣く泣く最愛の我が子の信康を殺し、その連類者の築山殿までも、信長殿の言い付けには違背出来ぬと、泪を呑んで腹心の野中三五郎らに斬殺させた。

だが、信康を入れて五人で仲良く力を合わせるために折角”五徳”と己が姫に名づけ、それを嫁にやるくらいなら、三郎信康が目ざましく成長し天晴れな武者ぶりを見せてきたらなら、これは信長には願ってもない喜ばしいことであって、それを嫉妬したり、自分の倅共の行末に邪魔になる、取り除いてしまえと、策を弄して家康に命じて処分するのは話しとして筋が通らない憾みがある。
信康が武者ぶり優れ、衆望を担ってきて、それで迷惑するのは信長ではなく、三河を横領出来なくなる家康その人なのである。

これまで徳川家康が尾張へ人質となっていた、という説の傍証として扱われているものは、「この時、尾張の者にて高野籐蔵といえる者あり。君御幼少にて知らぬ境にさすらい給い、見も馴れ給わぬ田夫野人の中におわすを劬り、朝夕様々にいとおしみ、小鳥など参らせ慰め奉りければ、神君家康公のち御成人ありて後に、この籐蔵をば三河へ招き召し出され知行を給り昵懇せしめられしとぞ」
という「参河後風土記」の中の一節に拠っている。

そして現代でも歴史家の中にはこの書物を「良質の史料」と誤認している人が多いが、これはすでに江戸中期において建部賢明がその<大系図評判遮中抄>という著書の中で「大系図三十巻というのを作ったのは、江州の百姓沢田源内を主犯とする系図屋共の贋作であって、彼らは依頼に応じて次々と贋物の系図を作りあげたばかりでなく、その他の偽本類つまり今の「中古国家治乱記」「異本難波戦記」「参河後風土記」といった、さも尤もらしいデッチあげの贋本をこの他にも十余点あまり、やはり依頼主の先祖の名を書き加えるために、これを写本として出している」とその署名の一覧表を揚げて、「これを誤って史料扱いするような愚は、慎んで絶対に避けねばならぬ」
と、既に元禄時代にこれを注意している。

つまり「参河後風土記」というのは、史料のように見せかけているが、真っ赤な偽物であると証明が三百年以上前に出されている。
だから知らずに間違えて引用するのは、これは不勉強である。信じられる史料は前記した「加藤忠三郎申上書」なのである。
                                   【織田信長像】 


信長の出自で、諸説は色々在るが故菊池山哉の研究に「アマの国は淡海の国か」とある。天の王朝のことで、この王朝の民は尾張むらじの系図の中に隠しこまれていて、判然としないが、判りやすく言えば近江八田別所に隔離されていた一族が、越前、加賀の仏教勢力である一向宗の勢力から逃れて尾張へ行き、織田家に仕え勝幡城の城番となったのである。

そして織田の姓を貰った旧姓八田信秀の子が織田信長なのである。そして信長が美濃を入手するや伊勢を占領し、やがて近江に入り琵琶湖畔の弁天崖に七層の安土城を建てて君臨したのも、彼だけの武勇知略ではない。

<天下布武>では尾張、伊勢に多い「八」の民が、天の王朝復活のために彼に協力し、世直しをして欲しさに米穀の在る者は出し、男は皆武器をとって、信長に従って進撃したものらしい。

「・・・又も負けたか三師団」といった言葉が戦時中あった。これは東北健児や九州の師団と比べ、京都と名古屋の兵は弱いのが有名で評判にされたのである。「名古屋商法」といわれる程、銭儲けにはたけているが、戦場で勇ましい話しはあまり伝わっていない。つまり接近戦の苦手な尾張兵のため、信長は鉄砲が喉から手が出る程欲しかったのである。だから、大国ロシアと戦うには奇襲戦法しかないと、明治軍部が桶狭間合戦、をおおいに宣伝したが、この時ついていったのは山口飛騨守、佐脇籐八、らの四人の近習者だけにすぎない。大勝利の筈の桶狭間合戦なのだから、その時の近習達を重用するのが普通だが、信長は棄て殺しにしようとしたため、彼らは家康の許へ身を寄せ匿って貰っている。(こうした彼らの謎の行動に歴史家は何故目を向けないのだろう)

という事は、三万五千からの大軍を率いて上洛せねばならぬ立場の今川義元がなにも近くの尾張で戦うならば、前もって掃討していた筈である。だから実際は信長は既にもう降参していて、尾張領内は無事通過の保証がされていたと見るのが常識である。なのに俄かの大雨で、信長が畏怖していた今川本陣の火縄銃が濡れ、全く唯の棒っきれになっている田楽狭間の光景を見て、信長は心変わりして、ぞろぞろついてきた野次馬や一旗組を指揮して本陣目がけ逆襲したのが真相らしい。これは戦などというものではなく”裏切り行為”である。だから家康は裏切りの生き証人として万一の際に備えて彼らを匿っていた。
だからその為、高天神城が攻められた時は信長は援軍を一兵も送っていない。だが三方が原合戦の時は、家康は彼ら生き証人を最前線に出して棄て殺しにしてから、信長に救援を乞うたのである。互いに虚々実々の駆け引きである。

さて分捕った五百挺の銃を持ち帰り、ねねの兄の木下雅楽助を鉄砲奉行にして、永禄三年から、毎年夏になると美濃へ日帰り進攻をくり返した。が、新兵器を持たせても尾張兵は弱い。毎年連戦連敗。みかねた信長の妻の奇蝶が、まむしの道三と呼ばれた斉藤道三の娘ゆえ、買収戦術に切り替え、美濃三人衆の安東伊賀、稲葉一鉄らを抱き込んでようやく永禄七年に美濃、井之口城を占領した。

岐阜城と名を改めて大増築工事中の永禄十年に、斉藤龍興が、服部右之亮らを先手として一向宗の力を借り舟をかり集めて長良川から攻めこんできたのを、本城は改築中ゆえ今の洲股大橋の処の中州に砦を作って、木下籐吉郎が防いだだけの話しである。ここは以前にも墨俣砦として記してある。

こんな事も歴史屋さん達は判らなく、講談の儘なのが現状である。明治に入って学士会を押さえる華族会会長の徳川公爵が青山堂から「松平記」を刊行して、家康は非人の出身だった、と暴露した「史疑徳川家康」を書いた村岡素一郎の刊行本に対抗させると、東大史学会は徳川家の「松平記」の方を創作と知りつつ確定史料と認定した。その中に斉藤龍興の美濃合戦が狂歌として入っているので、岐阜城陥落は永禄十年が学説とされている。

余談になるが、那古野と呼ばれていた時代から奴隷扱いされていたので、尾張兵は弱かったと想われる。それが調略とはいえ、伊勢を押さえ近江まで進出出来たのも天の王朝復活のため、八の民が進んで協力したからである。

播州赤穂の森城主が今で言えば体育のため、木刀の指南を召し抱えたというのが、今で言う治安維持法の叛乱予備罪容疑とされ、城地を没収され妻の里方へ身柄お預けになった。その後へ浅野内匠頭の祖父が上州から転封されたきた。
この時に「塩尻」と呼ばれる製塩奴隷として那古野者が、強制移住させられたことがある。関西へ行けば非人扱いで苛められるからと、連行中に脱そうを企てた連中は漁食人種なのに山国の信州の囲い地へ送り込まれてしまった。

此処が今では「塩尻峠」の地名で残っていてトラック便の中継地点になっている。つまり天の王朝の民は名古屋を中心に伊勢の荒神山から三重の桑名に近い矢田河原まて住まわされていたので、愛知県海部字市江町が、かっての邪馬台国ではなかったかとの異説をたてる者もあるくらいである。

現代でも名古屋市が市章に○に八を入れているのも、かって弱かった尾張兵がこの紙旗で進軍していたせいである。
彼ら旧平氏の祇を信仰する者には、同堂、つまり同じ宗教の者とは戦わぬとされる厳しい戒律があった。神社とか神宮はネギというのを、彼らの拝み堂で、博士、とか小太夫と呼ぶ。元締めは太夫とか長吏と呼ぶ。

一方騎馬民族では、部落の元締めは弾正とか弾左エ門という。だから信長は鉄砲隊を全面に押したてて、尾張から美濃、伊勢、近江と進軍して、三河以東の騎馬民族の末裔たちが頑張る土地は家康に委せたのも、それなりの訳があったのである。
どうも信長は、日本全土制覇といった野望は無く、同宗の圧迫されていた地域解放だけを目指していたようである。

というのは、秀吉の代になると「何処方面を討伐せよ」と、武将達に軍資金を渡していたが、信長はもともとアマの民の物を取り戻すだけだからというのか、金は出してやっていない。何しろ永禄六年に商売はハチの者に限ると布令を出している。
つまり物の売買は「八」と呼ばれる同族に限ったで、清洲を税金無しの楽市にしたり、当時は課税のため設置されていた関所の徹廃もしてのけた。「八」はヤとも発音するゆえ、これが尾張屋、近江屋、松阪屋といったヤ号となって現在も残っている。また、蜂屋頼隆らを使わし、勝手に商売をしている地区からヤ銭を徴収させ、それを軍費に充当させていたのである。まあ、やらずぶったくりの合理的戦法である。
【紹介者・補記】
永禄十一年信長は堺衆に対して「矢銭二万貫の割当て」と日本史に在る。従来この矢銭の解明が出来ず、(弓矢の矢代=軍費のこと)
(屋銭と解釈して=棟別銭)の二通りの分け方がされている。しかし尼子資料の「出雲鉢屋記録」でははっきりと「八銭(やせん)」と
なっている。だからこれは、八族である原住系が、(これまで同族を奴隷に売り払って不当利益をあげていた仏徒に対する罰金)として強制徴収したものらしい。

この年の上洛の時の信長は、弓矢より良く飛ぶ最新兵器の鉄砲で武装していた。だから、もし軍事費名目なら弾薬代とか、弾銭、というべきで、もうこのの時代の名目としては「矢銭」では可笑しい。秀吉時代になると「段銭」という文字が出てくるから、一町一段というような
田畑の面積への課税とも間違えているが、幕末までの漢字は皆当て字ゆえ、段は弾丸の弾らしい。
<<引用参考文献>>
八切止夫著「天の日本古代史研究」「利休殺しの雨がふる」「野史辞典」
言継卿記・後愚昧記・今井宗久茶湯日記その他。
                                    【真書太閤記考】

この本は十二遍で三百六十巻のものである。当時のことなので版行に先立って、縁故の在りそうな処を廻って前もって予約販売の恰好で前金を貰い歩いた。この時阿波の蜂須賀家の江戸屋敷でも応分の金子を出した。だから<真書太閤記>の中では、
「蜂須賀子六正勝というのは、犬山の信清(信康)の子の信安に仕え、しばしば戦功をあげた足利修理太夫高経の末裔にして」といった具合に、金を出しただけの事にはなっている。

ところがこの後になって<絵本太閤記>という目で見る型の出版が企画された。現代の劇画のはしりである。また三田四国町の蜂須賀の江戸中屋敷に、金貰いに出かけていった。ところが蜂須賀家にとって運の悪いことに、この先年から南八丁堀にも中屋敷ができ、お留守居役が二派に分かれ一決しなかった。しかし、阿波徳島二十五万七千九百石で、従四位侍従、大広間詰、の格式だから「些少だが、良く書いてくれ」と十両か二十両をポンと投げ出せば、それで済むのに、「如何に取扱いましょうや」と責任逃れに鍛冶屋橋御内の上屋敷の当時出府中の阿波守に伺いを立てた。

この時殿様から「よきに計らえ」と言われたのに、良きに善処して出す物を早く渡せばよかったのに、
「前の時にも応分の金を出したが、御当家御先祖の小六正勝様は、ほんの刺身のツマで、あれは日吉丸の本じゃった」といった意見が江戸勤め重役から出た。
未だ当時のこと故「紙の暴力」だの「マスコミの脅威」ということを知らなかったせいもあろう。しかし版元にしてみると「まあ百部位は予約して頂けよう」という皮算用が外れてしまい、そこで「構ったことはねえ、悪役にしちまえ」ということになって出版されてしまった

そこで、岡崎の矢矧川の橋の上で、
「やいやい大人と子供の区別はあっても、同じく人間だ。よくも足を踏んでおいて一言の詫びも言わぬとは何だ」と日吉丸にすごまれた蜂須賀小六が、ぎょぎょと驚き狼狽。
「俺様を誰だと思う・・・こう見えても賊徒の張本日本駄右衛門・・・じゃない小六様だぞ」と睨みつける大人げない場面が、見開き二面の挿絵になり小六は悪党づらにされてしまった。ところが、この岡田玉山の絵本太閤記が当時のベストセラーになってよく売れた。だから殿中で、「・・・松平阿波様の御先祖は、強盗団の首領でござったというが、まことでござるか」などと絵本の方を、歴史そのものと思いこむ者が、昔も多かったから直接に聞く者もいる。

「余は不快なるぞ。それなる絵本太閤記なる本をそっくり買い占めてしまえ」と、殿様は激怒した。そこで在府の家臣共は江戸市中を廻り、片っ端から買いあさって背負って帰る。 「・・・いくら刷ってもこりゃ売れる。驚異的ベストセラー」というので版元は次々刷りまくっては売り出す。洛陽の紙価を高めるというが、これでは鼬ごっこできりがない。そこで日本橋亀島の藍玉問屋で蜂須賀家へ出入りの者が
仲に入り、「版木一切譲渡し」ということで話をつけ、絵本太閤記は絶版にして蜂須賀家で買い取ることになった。

が、それでも、よく売れるからと秘かに出版されたので、公儀に訴え出たから、文化元年には出版禁止となり、岡田玉山は手ぐさり、版元は罰金に処せられた。「一文惜しみの百失い」という言葉があるが、この騒動で蜂須賀家が使った費用は膨大なもので、この為、幕末になっても藩庫が空っぽで、同じ四国でも土佐の山内容堂は活躍したが、蜂須賀候は阿呆踊りでもやらせて憂さをはらすしかなかった。

今日、名前だけは有名だが「絵本太閤記」の当時の現物が稀にしかなく、明治の再刻本しかないのは、蜂須賀家で買ってきて片っ端から焼き捨てて仕舞った為でもある。これも一種の焚書といえるだろう。

さて嘉永に入って、英船浦賀、露船下田、ペルリ来朝という時勢になってきて、この国難に対し「英雄待望論」が起きた。
そこで栗原柳庵が真書太閤記や絵本太閤記を種本にして又書いた。これが重修太閤記、という名のもとで又も脚光をあびた。今日いわゆる「太閤記」というのはこれなのである。そして最早、蜂須賀家でも手がつけられなく、放りっぱなしにした。柳庵も「矢矧川の橋の上」は見せ場だから、やはり小六を野党の首領にはしたが「殿ッ」と日吉丸に呼ばせ、ここで格好を付けた。

しかし一度広まってしまった火はなかなか消せない。そこで大正時代に入って、蜂須賀侯爵家は先祖の汚名をそそごうと、当時の歴史学の泰斗渡辺世祐博士に依頼した。博士は天文日記・美濃明細記・渭水聞見録・阿波徴古・の他に天文十六年九月二十六日の、
「伊勢御師福島四郎右衛慰宛文書」をもとにして、「この国の取り合いの儀につき、神前に懇ろにお祈り下され、おはらいや大麻に
御意をかけられ謹んで有難く(御護符及び長鮑)を頂かして貰います。去る十七日に合戦に及び武藤掃部助を始め数名を討ち、その後関へ敵が押し寄せて来ましたゆえ、すぐ切り崩し、大谷とか蜂須賀などと申す輩も数多く討ちました」

という斉藤道三がお賽銭につけて報告した織田信長の父信秀との合戦の文書の中に「蜂須賀」という名のあるのをとりあげ、「わが蜂須賀家の祖というのは、室町御所より任命されていた尾張管領の斯波家の大和守広昭の次子である小六正昭で、この孫が小六正勝その人である」といった記載をし、由緒正しき名門であるかの如く故渡辺博士はしている。名門でも、野盗でもいいようなものだが、違うらしい。
【紹介者・補記】
日本の歴史学の泰斗といっても、金を貰えば平気で系図をデッチあげてしまう。全く困った国柄で、現代でも「貴方の御先祖を調べて系図を作ります」等という広告が多い。そして日本人の先祖を美化したがる心理につけ込んで、金儲けをしている手合いも居る。

例え先祖が奴隷であっても卑下したり、恥じることなど全くないし、武士だったからといって、これ又嬉しがることもない。熊本の殿様の細川護煕氏を見れば、大名の末裔もあんなもので、先祖がなんであっても関係ないということが、よく解ろうものである。
先祖が武士でも、百姓でも、奴隷でも、現在の自己を拘束するものではないし、大切なのはその人の人間性であり、現在であり、未来なのだと思うのだが。


                                 <墨俣砦>

これまでの講談によると、もともと種本が絵本太閤記だから、「美濃へ攻め込もうとした信長は、その足場として洲股(墨俣)に砦を築こうとした。だが誰を差し向けても成功しない。そこで困っていると木下籐吉郎が名乗り出て、他に策のない信長が許可したところ、籐吉郎は頓知を出して成功。そこで信長は洲股に進駐して、そこから美濃一国を占領できた」という事になっていて、通俗歴史書も皆その受け売りをしている。

しかし、実際はその反対で、この洲股築城は信長が岐阜を占領してから二年後の永禄九年の出来事で、これは三省堂の歴史年表や確実なものには記述されている。永禄三年に桶狭間で今川を破り、信長は当時の最新武器であった鉄砲を入手するや、翌四年、五年と木曽川を越えて各務原へ進攻したが敗退。
同六年は小牧へ移って犬山口から、関の方へ向かい又負けたが、翌七年もやはり右回りして今度は瑞龍寺砦の方角から、美濃三人衆の裏切りでやっと美濃を占領したのである。現在の墨俣大橋の辺りは昔は中洲で、ここに洲股の砦は在ったのだが、これは大垣よりで、ぐっと左手である。つまり中央突破か右回り攻撃しかしない信長か゛、反対の左手へ進んで洲股に砦を築く筈は有り得ない。また当時の信長の美濃攻めというのは速戦即決、つまり夜明けに国境の木曽川へ兵を集めて進入。負けて午後に引き上げ。
つまり「日帰り戦争」か、長いのでも永禄六年の一晩泊まりくらいのもので、とても、のんびりかまえて、
「稲葉山眼下の長良川(当時は墨俣川)の中州へ築城して」等という余裕はなかった。これが間違えられたのは籐吉郎の出世噺として、占領後に攻められ堡塁を築いたというのより、「進む足場」とした方が人聞きがよく、勇ましい武勇談になるからだろう。

また資料的に誤られたらしい原因に、「松平記」という慶長期の本がある。「義あき公(足利義昭)は美濃のながい山城(斉藤龍興)を頼まれんとして断られ」というのが永禄九年の条に出ている。

だから永禄九年は斉藤龍興が、まだ美濃国主だったと勘違いされた為らしい。つまり、これはその位、龍興が長島の一向門徒の助けを借り、美濃入りしてくると勢力が強くなって、占領軍の信長が尾張へ追い返されたように、当時の京へは聞こえていたせいだろう。
信長としては四年がかりで、ようやく占領はしたものの、美濃人たちの祖国復帰運動が凄くて手が付けられなかったから、足軽上がりの木下籐吉郎を登用したり、かって散々に手向かいした敵の片割れの蜂須賀党等も仕方なく目見得させてもいる。蜂須賀はこの後信長の直臣になる。講談で有名な洲股築城という話は、小瀬甫庵の太閤記が底本で、これには

「ある時信長卿は老臣衆を呼び集め『美濃へ何度も攻め込んで狼藉をつくしたがてんで効果もない。かえって此方の兵の士気がゆるみ、軍勢がたるんでしまった。なんぞ良策は無いか』と相談された。すると『川向こうの適地に要害を築いたらよろしい』まるで猫の首に鈴を付けるような案が出た。勿論試みに誰を差し向けても駄目で、そこで川を越えて居住出来る者、というので人選したところ、
木下籐吉郎が自分が、と名乗り出た」とする。

渡辺世祐博士も雄山閣の昭和四年刊では、「大小の長屋十軒、軒櫓十、塀二千、柵木五万本を筏に組ませて、永禄九年九月一日にこれを流し、五日には信長みずから小牧山より洲股に到着し工事を監督する一方、木下籐吉郎を召し、稲田大炊助、青山小助、加治田隼人らと共に蜂須賀子六も招かせてこれを守備させた」と、尤もらしく説明しているが、三省堂の日本歴史年表、にも、「永禄七年八月二日、織田信長は稲葉山を攻めて斉藤龍興を走らし、ついに占領して岐阜と改称す」とはっきり出ている。

折角二年前に占領した美濃を、何故信長が小牧山へ戻って、また攻め直しをするのか、さっぱり訳が分からない。
おそらく猿も木から落ちるのたとえで、歴史学会の泰斗の渡辺世祐氏も、講談本で誤られたものだろう。

<<終わり>> 
<<引用参考文献>>
八切止夫著「信長十二人衆」「八切裏がえ史」「サンカの歴史」「野史辞典」
絵本太閤記・真書太閤記・その他
                          <<家康と煙草>>

「駿府記」の慶長十七年七月十日の条に、「南蛮よりの妙薬にて、万能にきわめてよき効能ありと申しはべりて献上の者ありしが、如何に用いるやと尋ねられそうろうところ、点火して胸深く吸えば可とお答え申し候ところ、煙の出るやと仰せあり、その煙にて悪気邪気しっかい払いますると謹んで述べしに、首をふられて、拒まれたまい、立ち給えり」とだけある。

問題は家康へ、何病にもきく悪気邪気払いをなす妙薬として、奉げられた物は、どう見ても火を付けて吸う煙草しか、この場合は考えられぬという事である。「慶長風俗絵巻」にも、最早巷には輸入された莨が万能薬として大流行していて、長刀位の大煙管を共奴に担がせた武士の絵も、絵巻屏風にはいくつも出ている。

処が。倅秀忠に江戸は委せて、静岡の駿府城に入っていた家康が「煙が出ると申すのか」と不機嫌になってしまい、席を立ってしまったのは何故かという疑問が生じる。

今でこそ「嫌煙権」とかいって、煙草嫌いな人も多くなっているが、慶長十八年には、英国人が駿府へまで来て、家康に珍奇な献上品を捧げ、よって通商交易も許可していた時代である。新興都市の江戸では長い大煙管が流行して、刻み煙草を詰め、遊里の女達まで競って吸っていた今でいう処のナウな物である。なのに家康は好奇心が全くないのか、それとも煙草嫌いだったのか。
鯛の天婦羅を賞味していたと伝えられるし、変わった料理を好んでいた物好きにしては妙である。勿論現代のように癌になるとか、心臓に悪いと言われだしていたら、不機嫌になる訳も判るが、当時は万病に効く薬とされていた。
後で判りやすく書くが<家康が煙草を嫌った訳>は、彼は歴とした日本原住民系の出身で、煙草そのものではなく”煙”を嫌ったのである。日本列島が大陸人によって侵略統一された時。

いち早く降参して奴隷となった人々が居た。捕らえられ、進駐軍のお情けで種を頂戴して、以後綿々と続いている。

しかし隷属を嫌い、頑強に抵抗し、戦って破れてもなお、流浪の民となりながら種を仕込まれる前の女性を伴って山や海へ逃げ、子孫を残した人達もいた。そして次々にそれぞれの土地に落ち着き、居付き、生活する人達がつまり、純粋な日本原住民であり、サンカと呼ばれる人々である。

しかし何時の時代も体制側からは差別され、弾圧や虐殺を幾度となく、くりかえされてきた。このサンカの人達は家族毎に人目を避け、小集団で各地を転々と旅して、この集団が(これをセブという)安全確認や危険通知に山から山へ合図し合うのを狼煙という。しかし近間どうしの合図にあげる煙は極細い微かなものである。それを待ちかねて家族で注意深く眼を光らせているゆえ、一本の細い煙でも判るらしい。このセブへ交替に入り込めると、飲み水や、洗濯の水も湧かして沐浴もできる。
魚を捕って焼石で調理もできる。そして一度に五ケ所しかセブは張れないから、他の家族は自分たちの順番が来るまでは藪蚊に刺されつつ茂みに隠れていた。

そしてその辛抱してじっと待つことを、彼らの言葉で”焔待ち(ホマチ)”という。だから焔待ちの煙ゆえ、煙草などくゆらせられたら見間違う惧れがある。だから誰も煙草などに火を付けぬのが、彼らサンカのセブの掟なのである。

三年後には大阪を落城させ、天下平定を成す家康ですら、煙を出すと聞けば顔色を変えたくらい、このサンカ出身者はセブノロシと紛らわしいゆえ、嫌煙なのである。この一事からも三河の名門出の松平元康と違い、家康は世良田出身の部落民、即ちサンカ出身だということが判る。

                               <サンカ焼石>
前記の処で焼石、と出てきたが、関連するので紹介する。先土器遺物包含層には丸石の群が見つかり、俗に芋石と呼ばれている。これはサンカの調理炊事法と呼ばれている。熊本や東北でも地面にその儘で残っているが何処でも皆山中で発見されている。

サンカは鍋釜類は携行せず、ささら衆と昔は呼ばれたごとく、青竹を縦割りにし、中節を削って谷川で捕った小魚や食せる山菜を重ねて、並べて荒塩をかけ、石を上に置いて蒸すようにする。米飯を炊く時は、麦を下に置き上に米や粟は乗せるようにして、焼石をのせる
前に良くかき廻す。サンカは海流で流されて日本列島に漂着した連中も混ざっているから、日本列島に上がらずハワイ方面まで流されて行った人々もいた。

だからハワイでも「カルア」と呼ぶ焼石料理があって、豚でもパンの実でも何でも煮炊きに鍋やフライパンは用いない。
近頃は観光客寄せの名物料理に「焼石料理」を売り物にしている所が多いが、これは歴としたサンカ料理である。
石を温めてほかほかにしたのを厚手の布袋にいれ「温石」と称して今日のカイロの元祖を考案したのは、吉良上野介の一つ年上の妻で上杉十五万石の三姫だと伝わってるが、足利時代に、南無阿弥を唱え僧体に似せて同じ人間扱いにして貰えて同胞衆(同明衆)と呼ばれる連中に転向した日本原住民系が、この焼石料理を京にも広めた。

だがその儘では野趣に富んでいても室町御所には不向きだった。そこで石を裸で焼かずに杉の皮などに包んで用いたが、いつの間にか高尚化されて今は「懐石料理」等と呼ばれ京名物にさえなって、極めて由緒ある会席料理に化けている。

しかし本当のサンカの焼石料理は、雑草や枯木に火が移って山火事にならないよう完全によく水をかけて消して、跡形無くして去っていく。だから何の痕跡も残さぬことを俗に「焼け石に水」とも言い、今でも一般に用いられている。
【紹介者・補記】
サンカを書いた有名なものに三角寛の「サンカの社会」がある。しかしこれは仏教側からの立場で
書かれていて、悪人として彼らを一括している。柳田国男も果敢に挑戦したが、折口信夫との関係をお上に握られ民俗学へ
転向を余儀なくされている。1997年1月10日付けの北海道新聞に東大のY教授が「世界の歴史刊行」に寄せての一文が載っていた。文中柳田の民俗学に触れて次のように書いてある。

「柳田の民俗学で使われる”常民”という言葉は、市民でもなければ平民でもない存在を指す。それはやはり”常民”としか呼びようのない文化の基底を担う人々なのだ。彼らに対する無私の愛、その存在への想像力こそ、柳田学から現代史学が受けた貴重な刺激ということになろう」

この先生、国際関係史とイスラム史が専門らしいが、柳田が何故民俗学へ転向しなければならなかったかの、経緯も判らず、常民もサンカの意味もまるで判っていない。また、後段で秀吉とフエリッペ二世のライバル関係から云々と的外れな考察もしている。

私は以前少し触れたが五木寛之の「風の王国」では、居付きサンカとトケコミサンカを一緒にして常民の側に置いて書かれていて惜しいが、この方が東大の先生の考察より数段ましである。


<<引用参考文献>>
八切止夫著「サンカ生活体験記」「天の日本古代史研究」
     「日本全国特殊部落発生史」その他。






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原発再稼動を停めようと佐賀県庁にのりこんだ山本太郎さんを
刑事訴訟した京都の行政書士の方が
なぜか半年近くも経った今頃、下記のビデオを見て、
その行政書士は幸福の科学の信者ではない、とのことで
「名誉毀損及び名誉感情侵害行為」で
慰謝料 45万700円を支払うように
こんどは私を訴えてきました。
(^_^;)

どうも小沢一郎さんと市民との対話という番組に出て
「裁判所もおかしい」と言った直後に告発している感じです。
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その時、必ず9800円の定価に近いロープライスを選択して買うべきです(^_^;)
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3万円台では
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(東京都からの貸し出し用で採用している機種だけど0.30μSv/h~2.50μSv/hふらつきあり)
私も「放射線測定器 Dose RAE2を買って」 (^_^;)
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