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9/ 28(金) ニュース

2012/9/28(金) ニュース

<今日のツイートテレビニュースの話題>
                                                                                                                    Font MSP ゴシック サイズ11

2012/9/28(金) ツイートTV



1 橋下徹に民主か自民を選ばせろ!CIA創価の戦略
2 うぁー何これ?福島原発の水に感謝の念を送れ、って
3 ジャパンハンドラーズ:日本操り対策班の輩たち
4 吉良を殺せ!金融マフィア蜷川のスキをつき赤穂浪士を使え
5 信長を殺せ!天皇家と家康と金融マフィア蜷川の爆弾テロ






<ニュースウォッチ12:今日のニュース>
1 橋下徹に民主か自民を選ばせろ!CIA創価の戦略

2012/9/28(金) ニュース 概要 橋下徹に民主か自民を選ばせろ!CIA創価の戦略
2012/9/28(金) ツイートテレビニュース 概要 橋下徹 民主 自民 選ばせろ CIA創価学会 戦略






Yoshiki Fujiwara ‏@Gabicyou
RT@masashi358
橋下市長が弱い人間を見ると
腹が立つ理由とは?
http://bit.ly/QWtxV4

・・・こんなロクデモナイヒトを
知事や市長を選んだ大阪人は何を考えとんねん、
アホか!大阪出身者として山梨の人に恥ずかしい。

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http://blog.goo.ne.jp/mode-819/e/cd8ea6d2c04dc4ca5b4252b54795cde6

「橋下市長は弱いものが嫌いで、強いものが好きだそうです。」

マジ・・で、政権を取ったら、フリーターとか、派遣社員をイタブルのは間違いありません。

それを知らないで・・応援していると、後が怖いですよ。(笑)



■新潮では、橋下が司法修習生を終え「イソ弁」として所属していた事務所の樺島正弁護士が、橋下のことをこう語っている。

「橋下は本質的には弁護士という職業を嫌っていたと思います。彼は弱い者の側に立つのが嫌いです。(中略)彼は、弱い人間を見ると腹が立つのだと思います。自分はそういう苦境から這い上がってきた。だから、負けたままの人間には虫唾が走るのでしょう」
 (週刊新潮)

つまり・・橋下氏は、ネットで書き込みをしている弱者が大嫌いだと思います。


■また、「日本維新の会」が経済だけでなく、教育などあらゆる分野で競争を加速させると言っていることに、榊原英資元大蔵省財務官はこう批判する。

「話が逆。いま、日本に限らず、世界の政治家がやらなければならないことは、先ほども触れた格差是正なんです。非正規雇用者をどう減らすかといった課題が政治に託された大きな責務なのに、競争を煽り、格差を拡大させてどうするんですか。総じて『維新八策』は、各論なき総論でスローガンの羅列。いくら総論を訴え続けても、各論がなければ実現まで辿り着けません」
(週刊新潮)

ようするに、民主党のマニフエストと同じで・・選挙に当選するためなら何でも言えるということですよね。政権を取ったら・・民主党が消費税を決めたように、マニフエストに書いてないことでも決めていいです。「勝てば官軍デッス。」


■作家の佐藤優は、韓国大統領の竹島上陸にからんで、慰安婦問題にも言及したことを、こう難じている。

「慰安婦問題で、韓国に向けて『論戦したらいい』と言い放ちましたが、そんなことを始めたら収拾がつかなくなります。また、『強制連行があったかどうかの確たる証拠はなかったというのが日本の考え方だ』とも述べていますが、日本政府の考え方、すなわち河野談話では、強制を認めている。聞きかじりの耳学問で、外交ブレーンがいないのでしょう」
(週刊新潮)

だが、不思議なことに現代でも取り上げていたテレビタレント時代の発言、「徴兵制賛成」「核兵器を持て」という重大なものが抜けているが、どうしたのだろうか? (日刊サイゾー)


◎橋下氏が目指しているのは・・日本の破壊です。その後に、「徴兵制」「核兵器」ですかね?

これって、あのオウム真理教が目指していたのと、同じような気が致します。「徴兵制」「核兵器」といえば・・北朝鮮ですが・・・橋下氏は日本を北朝鮮みたいにしたいのでしょうかね。

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Koji ‏@kwave526
BS11 小沢一郎 民主党が政権を取ったのは、
「国民が学んだから」なのに、政党は学んだのか? 
「もう一度やり直して、国民の皆さんが、
期待に応えられる政党を作っていかないと。
民主、自民以外の政党は、
そういう政党を作っていかないといけない」



生活、10月に2次公認
 新党「国民の生活が第一」の小沢一郎代表は27日、BS11の番組収録で、10月下旬に都内で開く結党記念パーティーまでに次期衆院選の第2次公認候補を選定する方針を示した。9日発表した1次公認は29人。1次公認は前回選挙で小選挙区で出馬した現職(比例復活含む)に限定し、純粋比例の現職や新人は除外していた。小沢氏は、次期衆院選で100人規模を擁立するとしている。 (2012/09/27-15:11)
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小沢裁判ようやく結審でも一件落着とはいかない (日刊ゲンダイ) 

http://www.asyura2.com/12/senkyo136/msg/345.html
小沢裁判ようやく結審でも一件落着とはいかない
http://gendai.net/articles/view/syakai/138841
2012年9月26日  日刊ゲンダイ


 ベストセラー「検察崩壊」の衝撃

<これほどデタラメ特捜部捏造の政治裁判が現代のこの国で行われている闇>

 資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐり、「国民の生活が第一」の小沢一郎代表(70)が政治資金規正法違反に問われた事件がようやく“決着”した。26日開かれた控訴審では、検察官役の指定弁護士が新たに請求していた元秘書の供述調書や証人尋問が却下され、結審。11月12日に判決となったからだ。

 指定弁護士は10年以上前に辞めた高橋嘉信元秘書の供述調書を作成、証拠申請したが、これはムリ筋、嫌がらせのような話だ。

「選んだ人物が悪すぎます。高橋元秘書はかつて、小沢氏の“金庫番”と呼ばれましたが、その後、小沢氏と距離を置くようになり、週刊誌などで小沢批判の急先鋒になった。検察が西松事件や陸山会事件に着手するキッカケをつくったのも、高橋元秘書の存在があったと言われています。しかし、検察は結局、不起訴にしているから、高橋元秘書の情報はいい加減だったということ。指定弁護士が苦し紛れにしがみついたとしか考えられません」(司法ジャーナリスト)

 そもそも指定弁護士は1審段階で、この元秘書を証人として請求できたのに、何もしなかった。この程度の反論しかできないのになぜ、指定弁護士は控訴したのか。つくづく異常な裁判だが、もとはといえば、事件をデッチ上げ、検察審査会(検察審)を騙(だま)す捏造捜査報告書を作って、強制起訴を“誘導”した東京地検特捜部こそが諸悪の根源だ。

 そうした特捜検察のデタラメをあらためて浮き彫りにした本が話題になっている。元検事で、関西大特任教授の郷原信郎弁護士の著書「検察崩壊」(毎日新聞社)である。

 中身は、検察の捏造捜査報告書作成を問題視し、「指揮権発動」を検討していた参院議員の小川敏夫・前法務相や、元秘書の石川知裕・衆院議員ら4人との対談をまとめたものだ。中でも、石川が聴取時の様子を語った内容は衝撃的である。

〈吉田副部長は『このままでいくと小沢さんは検察審査会で間違いなく黒になる』と言うんです。参議院選挙の前、最悪のタイミングで強制起訴が決まることは、プロのわれわれはわかっている。そうならないことがあなたがたにとってプラスだから認めなさい、という説得をさんざんしてきました〉

〈今考えると、検審で黒をとるために途中から様子が変わったな、という感じがあります。終盤になるにつれて、何回も同じ内容を取り直すんです。小沢さんは不起訴と決めているから、後はもう、検審黒に向けていろいろ証拠固めをしていったな、ということを、今思います〉

 いやはや、これが特捜検察の実態だ。国家権力を持っている分、ヤクザよりもタチが悪い。

 郷原氏がこう言う。

「小沢裁判は、特捜部の謀略に検察審が騙されて強制起訴に至ったとんでもない事件であり、読者からも『検察はこれほどデタラメだったのか』という感想が寄せられています。事件そのものがインチキなのはもちろんですが、それが明らかになっても適切な対応を取らず、詭弁(きべん)やウソ、ごまかしを続けている検察のどこに正義があるのでしょうか。国民の信頼を完全に失っています」

<小沢代表控訴審を報じる大マスコミへ重大な疑問>

 摩訶(まか)不思議なのは、大マスコミの報道も同じだ。

 暴走検察と一緒になって謀略事件を騒ぎ立て、「小沢=悪」のイメージづくりに奔走した反省は全くなし。1審で16回に及ぶ公判を経て無罪判決が出ても、「完全無罪ではない」「グレー判決」とあれこれ難クセをつけていた。検察審の起訴議決や、指定弁護士の控訴だって、新聞・テレビの“洗脳報道”が後押ししたようなものだ。あらためて強調するが、控訴審で無罪判決なら、東京地検の2度の不起訴を含めて「4度目」の無罪である。

 マトモな言論機関であれば、さすがに「司法権力の乱用」「政治弾圧」と検察批判の一大キャンペーンを張るべきだろうが、そんな姿勢は一切みられない。

 司法ジャーナリストの魚住昭氏はこう言った。

「小沢事件で、メディアは『違法』なことと、『モラル』を区別しないまま報道を続け、これが裁判の本質を見えにくくしてしまった。あれだけ大騒ぎしたにもかかわらず、結果は政治資金収支報告書の事務的ミス。それを重大事件のように報じ、小沢氏の巨悪像をつくり上げたのです。メディアは、この事件の強制起訴着手の段階から今に至るまでの報道を自己検証するべきです」

 きっちり落とし前をつけてもらいたい。

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再生リスト:「国民の生活が第一」を支援する市民大集会 2012/9/1
http://www.youtube.com/playlist?list=PL2617FA4CFF36F3C5


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今日のイベント
原発関連:集会・イベント情報、Ustream番組表
http://2011shinsai.info/event/

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閑話休題

ツイッターの流行がわかる日刊ツイッターランキング 
http://twinavi.jp/news/daily?ref=top

今、話題の動画のランキング tweetmovie ツイートムービー 
http://tweetmovie.jp/

NAVERタブーまとめ

http://matome.naver.jp/topic/1LwS6







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<<日本 クローズアップ現代:国内の話題>
2 うぁー何これ?福島原発の水に感謝の念を送れ、って

2012/9/28 うぁー何これ?福島原発の水に感謝の念を送れ、って
クローズアップ現代 日本 国内問題 クロ現 うぁー 何これ 福島原発の水 感謝の念 送れ





yuri ‏@syoyuri
安倍晋三氏婦人が「福島原発の水に愛と感謝を送って下さい」と呼びかけていたことだけでなく、安倍晋氏の「教育再生」「教育再生会議」はどのようにトンデモだったのか、なぜそんなトンデモがまかり通ってしまったのか...報道に関わる方にはじっくり向き合った記事を期待します。

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「強硬一辺倒路線の安倍晋三氏を防げるのは昭恵夫人だけ」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120927-00000015-cnippou-kr

中央日報日本語版 9月27日(木)10時6分配信


「安倍晋三氏の強硬一辺倒路線を防げる人は昭恵夫人(50)しかいない」。韓日外交関係者が26日、「安倍自民党総裁」の登場に懸念を表しながらも見せた共通の“期待感”は昭恵夫人だった。

昭恵夫人は「韓流ファン」として噂になっている。最近も韓国ドラマをよく見ているという。

ドラマ「冬のソナタ」に出演したパク・ヨンハ(2010年死去)の熱烈的なファンで、05年9月の韓国訪問当時、安倍首相夫妻はパク・ヨンハと一緒にゴルフをした。昭恵夫人は当時3人で撮った記念写真の夫の部分を切り取り、パク・ヨンハと自分の部分だけを額縁に入れて大切に保管しているという。安倍氏もこれを“容認”したという。

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特に昭恵夫人は従来の日本ファーストレディーとは違い、政策面でも積極的に自分の考えを夫に伝えて説得するスタイルだ。昨年の福島第1原発事故後、「脱原発」に向かうべきだという主張を積極的にフェイスブックなどに載せて注目を集めた。昭恵夫人はファーストレディー時代の07年4月にも、夫の慰安婦問題発言(「慰安婦動員に狭義の強制性はなかった」)と関連し、CNNのインタビューで、「同じ女性として慰安婦の方々は本当にお気の毒だと思う」と所信を明らかにした。

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安倍新総裁夫人・昭恵氏のブログ http://www.akie-abe.jp/index.php?ID=629 "江本先生の研究によると水はすべての情報を記憶するそうです。 明日、31日正午、福島原発の水に愛と感謝を送って下さい。 たとえ離れた場所からであっても、その想いは必ず届き水は記憶します。" ...うわぁ

http://www.akie-abe.jp/index.php?ID=629

『水からの伝言』の著者であり、波動の研究家である江本勝先生。
その先生から「愛と感謝の祈りを福島原発の水たちに送ってください!!」というメッセージが届きました。
未だ収束に向かう気配すら感じられない福島原発。
江本先生も書かれていますが、放射能を防ぐのも水、広げるのも水・・・。
そして津波による甚大な被害、水道水の汚染が懸念されミネラルウォーターを買いに走り回る人々・・・。
水は恐ろしくもあり、ありがたくもあることを改めて知らしめる出来事の数々です。

江本先生の研究によると水はすべての情報を記憶するそうです。
明日、31日正午、福島原発の水に愛と感謝を送って下さい。
たとえ離れた場所からであっても、その想いは必ず届き水は記憶します。
そのことによって事態が少しでも好転すればいい・・・。


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安倍日本首相の父親「私は朝鮮人だ」
2006年09月30日14時19分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版] comment3hatena0
「私は朝鮮(人)だ」--。

http://japanese.joins.com/article/386/80386.html?servcode=200§code=200


日本の安倍晋三新首相の父親、安倍晋太郎(1991年死亡)元外相が普段からこのように言ったと、世界(セゲ)日報が日本の「週刊朝日」を引用して報道した。

この週刊誌は10月6日付カバーストーリーで「安倍晋三研究-家政婦が見た安倍、岸3代」という見出しで安倍首相家門の内側を特集報道した。

岸と安倍の家門で家政婦として40年を過ごした久保ウメさん(80)は、週間朝日とのインタビューで安倍首相の父親、安倍元外相が告白した家庭の内部を比較的詳しく伝えた。

久保さんは「パパ(安倍元外相)は誰にも言えないことを私には言ってくれた」とし「(安倍元外相死去直後)入棺のとき、この人の骨格を見ながら本当に日本人の物ではないと思った」と説明した。それとともに「頭からつま先までまっすぐに横になっていたが、完全に韓国人の体形だ。(安倍元外相)自らも『私は朝鮮(人)だ。朝鮮』と言っていたが、この人は朝鮮人だと思った」と回顧した。

・・・・・・・・・・・・
この雑誌は安倍元外相は生前に安倍家の起源は10世紀くらいまで韓半島北で中国大陸にかけて存在した渤海(パルヘ)国に始まったという考えを持っていたが、日本での安倍家の起源は明らかではないと報道した。安倍家の起源について久保さんは「安倍家の本流は青森県だ。安倍元外相が朝鮮だと言ったが、これは今の北朝鮮ではなく、その北と吉林省の下側にあった渤海」と「11世紀平安時代の武将だった安倍が今の安倍家の祖先と一致する」と説明した。




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<世界 クローズアップ現代:海外の話題>
3 ジャパンハンドラーズ:日本操り対策班の輩たち


2012/9/28 ジャパンハンドラーズ:日本操り対策班の輩たち
クローズアップ現代 世界 クロ現 海外問題 ジャパンハンドラーズ 日本操り対策班 輩たち



中国、領土問題におけるアメリカの仲介に反対

http://japanese.irib.ir/news/latest-news/item/32086-%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%80%81%E9%A0%98%E5%9C%9F%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E4%BB%B2%E4%BB%8B%E3%81%AB%E5%8F%8D%E5%AF%BE

中国が日本との領土問題へのアメリカの仲介に反対を表明しました。

中国共産党の公式見解を反映する人民日報は、東シナ海にある尖閣諸島の領有権におけるアメリカの日本支持について触れ、「多くの場合、アメリカは自らの利益に基づいて仲介に入る」としました。
人民日報は、アメリカは誠実で公正な仲介者ではないとし、アメリカが仲介した国はすべて状況を悪化させており、多くの場合、戦争か衝突につながっており、さらにマイナスの問題と結果を引き起こしている、としました。
人民日報は、アジア太平洋地域での駐留を拡大することはアメリカにとって重要なことだとし、「アメリカはこの地域すべてにおいて、口実を探しており、海の争いを介入の口実にし、平和と安定を脅かしている」としました。
中国と日本は東シナ海の尖閣諸島の領有権を巡って争っています。
この長年の対立は日本が尖閣諸島の一部を国有化することを発表してから高まりました。
尖閣諸島は豊かなエネルギー資源を有し、その周辺の海域をめぐって両国は昔から争ってきました。
その一方で今回は、アメリカが日本を支持したことにより、日中の関係は異例の形で悪化しています。

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日本操り対策班
2010/11/12(金) 午後 6:08日記その他政界と政治活動
きなこのブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/kinakoworks/450180.html

世界帝国アメリカの尖兵として属国日本の政・官・財・学・マスコミを、思うがままに動かしてきた「日本操り対策班=ジャパン・ハンドラーズ」

ロバート・ゼーリックは、麻生政権で財務・金融大臣だった国士の中川昭一を、篠原尚之財務官と財務省国際局長だった玉木林太郎と、その愛人の読売新聞経済部の越前谷知子を使い、ワインに薬物を入れてフラフラ(朦朧)会見をさせ失脚させた。

ロバート・ゼーリックは竹中平蔵を操った一人でもある。小泉純一郎より竹中のほうがアメリカから直接指令を受けていた。ブッシュ前政権では国務副長官になろうとしていたが、中国でハニー・トラップ(女性問題)に引っかって、国務副長官を辞めた。ところがその後、不思議なことに世界銀行の総裁になった。ゼーリックもまた、“皇帝”デイビッド・ロックフェラーの直臣のひとりだからだ。

竹中平蔵を育ての親だったのは、ピーターソン国際経済研究所(IIE)というシンクタンクの所長であるフレッド・バーグステンだ。バーグステンが竹中にずっと目をかけて、アメリカに資金を貢がせる係として教育した。(それを見抜いた植草一秀氏を、竹中は手鏡痴漢事件で陥れた。

バーグステンは1985年の「プラザ合意」(先進国為替密約)の下書きを書いた張本人でもある。(この合意を日本に突き付けるための脅しが、(中性子爆弾を使った)1985年の日航機墜落(撃墜)事故(事件)だ)バーグステンは、CFR(米外交問題評議会、日本の経団連に相当)主催の講演会でもよく講演する。デイビッド・ロックフェラー直系だ。

竹中平蔵の直接の教育係は、コロンビア大学教授のグレン・ハバードである。竹中とハバードは、ともにハーバード大学で秘密の会合の参加者として出会っている。ハバードが、ハーバード大学留学組の元銀行員にすぎなかった竹中を「学者にしたてて」日本政府にレンタルした。

竹中は、金融担当大臣に就任する以前から、「タケナカ、次はこうしろ。その次はこうだ」と支持を受けていた。「竹中プラン」は、ハバードからの指令という性質が強い。ハバードが、「日本の不良債権の処理速度は遅すぎる。もっと加速せよ」と露骨に日本政府に圧力を加えて、日本の金融業界を混乱に陥れた。

デイビッド・ロックフェラー⇒フレッド・バーグステン⇒グレン・ハバード⇒竹中平蔵=そして日本がボロボロにされた。という図式だ。

「日本操り対策班=ジャパン・ハンドラーズ」の中には直接日本までやって来て、現地司令官として日本政府の政策や、金融・経済の運営にまで口を出す連中がいる。日本の政・財・官界を動き回り、直接圧力をかけている。
彼らの暗躍が日本を悪くした。

ジャパン・ハンドラーズの金融・経済の分野での代表が、ジェラルド・カーティス、ケント・カルダー、エドワード・リンカーン、『ワールドビジネスサテライト』によく出てくる、ロバート・フェルドマンである。

この中で、今も現地司令官をしているのが、コロンビア大学名誉教授のジェラルド・カーティスである。この人物の日本に対する干渉はひどい。日本の大臣たちの人事にまで干渉した。首相官邸まで乗り込んでいって、わいわい文句を言う人物だ。カーティスは恐妻家で、奥様のみどりさんが「次の大臣はこの人と、この人にしなさい」と指示を出していたそうだ。

日本の政策研究大学院大学というシンクタンクは、カーティスの肝いりでつくられた日本操り大学である。ロバート・フェルドマンはモルガン・スタンレー在日法人の主任エコノミストで、竹中平蔵の通訳係(ご養育係)である。フェルドマンがいつも日本にいて、直接、竹中平蔵に指示を与えている。

戦後65年を経過しているにもかかわらず、駐日アメリカ大使館内には、「日本管理委員会」なる機関が存続しており、ことあるごとに日本政府に対して強圧的にさまざまな要求を突きつけてきている。

この要求のなかには、アメリカ政府やデイビッド・ロックフェラーなど私人からの要請なども含まれて、都合の悪い日本の政治家や財界人らを強制捜査により逮捕・起訴・有罪判決・刑務所送りにして、拘禁してしまう。

被害者たちは、これを「国策捜査」と呼んでいる。鈴木宗男元北海道・沖縄開発庁長官、小沢一郎元代表らが、その代表例である。


<「成果主義」と「経営責任」と「格差社会」>
斎藤貴男さん ジャーナリスト
http://jinjibu.jp/GuestIntvw.php?act=dtl&id=37


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日本操り対策班
世界権力者人物図鑑

● ロバートゼーリック


中川昭一もうろう会見を仕組んだ男
なぜか世界銀行総裁になった。
ブッシュ政権で国務副長官
アメリカの金だと思っていたのを日本政府が1000億ドルIMFに拠出するとして中川財務・金融大臣がローマで調印したのに怒り、篠原尚之財務官がゼーリックの命令で動き、財務省国際局長の玉木林太郎と親しい関係にある読売新聞経済部記者越前谷知子がワインに毒物を仕掛け、フラルラ会見からの自殺、中川氏失脚後、日本は、米国債買い(年間で21兆円)を再開した。



● ジョセフ・ナイ

小沢一郎逮捕攻撃に失敗した策略家

ジョセフ・ナイは、金融・経済とは別に、政治=外交=軍事の場面でのジャパン・ハンドラーズの頭目。国家情報会議(NIC)というCIAより上の諜報機関のトップ。クリントン時代国防次官補。ソフトパワー論で売ってきた。

ナイは、2009年6月、中日大使として赴任予定だった。その前に「小沢一郎を片づけておけ」とCIAの対日本の謀略部隊に命令を下していたが、失敗した。

2009年3月から、小沢一郎に「西松献金疑惑」を仕掛け、2010年初めから「小沢政治資金収支報告書」攻撃を仕掛けた。

警察特捜部(特捜部長佐久間達哉)・検察庁(検事総長樋渡利明、最高検検事大鶴基成)、法務省・警察庁の漆間巌(前官房副長官)らが謀略を仕掛けた。

彼らアメリカの手先に対して共謀なマイケル・グリーンが暗躍して、直接指令を与えている。

リチャード・アーミテージ、ジョセフ・ナイ、マイケル・グリーン、ジェラルド・カーチェス、コロンビア大学教授らジャパン・ハンドラーズらは、日本に資金提供させるべく、自民党の親米ポチ政治家や日本の官僚たちを飼育してこれまで多くの汚いことをしてきた。


子分 船橋洋一朝日新聞主筆
朝日新聞を堕落させた極悪人

山本正日本国際交流センター理事長
デイビットの日本総代理人



●リチャード・アーミテージ


ジョセフ・ナイとアメリカ軍事場面での年次改革要望書(対日圧力文書)「アーミテージレポート」を作成したのが、リチャード・アーミテージ元国務副長官。

元海軍中佐で、南米のコロンビアのコカインとか阿片のカルテルと絡んでいる恐ろしい人物。ベトナム戦争の時から麻薬と絡んでCIA軍事部門の裏資金を背負ってきた人物。

2001年、9・11事件が起こった時、日本はアーミテージから「ショー・ザ・フラッグ」(旗幟鮮明にせよ)という要求を受けた。このときアーミテージは、田中真紀子外務大臣と対立関係に入った。アーミテージは、自分と会わないと言った田中真紀子に怒り狂い、日本のテレビ・新聞(政治部長会議)に命じて、失脚させた。



2009年3月、アメリカは「西松献金問題」で策略を仕掛けて、小沢一郎を潰そうとした。このとき、岡田克也を抱きこんだ。「首相にしてやる」と因果を含ませ、直接岡田に圧力をかけたのは、マイケル・グリーン。しかし、このアメリカの策動は失敗しつつある。

子分
前原誠司
長島昭久


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尖閣問題と日中米の利害
2012年9月27日   田中 宇


http://tanakanews.com/120927senkaku.htm

 日本が9月11日に尖閣諸島の土地を買い上げて国有化する方針を決めて以来、中国では、日本を非難するデモが各地で行われた。デモでは、毛沢東元主席の肖像画が掲げられることが多かった。「抗日」という文字も目立った。戦前に日本が中国を半植民地化していた時代、毛沢東は、共産党軍を率いて抗日戦争を続け、日本が戦争に負けた後、ライバルの国民党軍を中国大陸から台湾に追い出し、中華人民共和国を建国した。日本を追い出して中国を植民地化から救ったというのが、中国共産党の中国人民に対する政治正統性で、毛沢東や「抗日」の文字はその象徴だ。 (Chairman Mao rears his head in China's anti-Japan protests)

 高度経済成長で貧富格差が増して貧困層の共産党に対する信頼が揺らぐ一方、共産党が胡錦涛から習近平への10年に一度の権力の世代交代を進めている今、中国の全土に日本敵視のデモが広がることは、共産党の政治正統性の再確認につながるので、共産党の上層部にとって良い。だから共産党は、中国全土での反日デモを容認ないし計画した。日本政府が、尖閣諸島に関する領土紛争の棚上げという、これまで中国と(暗黙に)合意してきた枠組みを、尖閣の土地国有化によって破り、中国側を怒らせたことは、中国共産党にとって好都合だった。 (Japanese businesses reopen in China)

(日本では「日本の領土である尖閣諸島の土地を国有化するのは日本側の自由であり、中国側がそれを非難するのは100%間違っている」という世論が強い。読者からの非難中傷、非国民扱いをおそれずに書くと、この考えは間違いだ。尖閣諸島は、日本が実効支配しているが、中国と台湾が自国領であると主張しており、領有権が国際的に確定していない国際紛争地である。米政府内では、国務省の日本担当者が「尖閣は日米安保の範囲内」として日本の領有権を認める発言をしたが、先日日中を歴訪したパネッタ国防長官は日中どちらの肩も持たず中立の姿勢をとった。尖閣問題について、米国の姿勢はあいまいだ) (U.S. Says Disputed Islands Covered by Japan Defense Treaty) (US 'will not take sides over islands') (尖閣諸島紛争を考える)

 しかし同時に、毛沢東の肖像は「左派」のシンボルでもある。共産党の上層部には、トウ小平が敷いた路線に沿って、経済成長を最重視し、貧富格差の増大などの悪影響を看過する傾向が強い中道派(穏健派)と、経済成長重視の政策を批判する左派(急進派)がいる。外交面では、中道派が米国との対決を回避(先送り)する対米協調戦略である半面、左派は米国との対決をいとわず、米国の覇権が弱体化する一方で中国が台頭しているのだから、中国は米国に遠慮する必要などないと考える傾向が強い。外交面で、人民解放軍は左派的で、中国外務省は中道的だ。ここ数年、これまで外務省が決めてきた外交政策の決定過程に、軍の幹部が首を突っ込む傾向が強まっている。日本風に言うなら、中道派が官僚的で、左派は右翼的なナショナリストだ。 (In protests, Mao holds subtle messages for Beijing)

 文化大革命後、左派は中国政界の主流から追い出されている。胡錦涛主席や温家宝首相は中道派で、胡錦涛は米国との対立回避を重視した超慎重派だった。温家宝は、左派の突き上げに対抗し、リベラル的な政治改革によって貧富格差や人々の不満を解消しようとした(温家宝は、天安門事件以降、封印されてきたリベラル派の再起を望んだ)。これから主席になる習近平も中道派だ。しかし、高度成長の持続は中国社会にさまざまなゆがみをもたらし、その結果、経済至上主義の中道派を敵視する左派への草の根の支持が広がっている。左派は、胡錦涛から習近平への世代交代を機に、中国政界の主流に返り咲くことを模索している。そして左派の代表だったのが、今春にスキャンダルで失脚させられた重慶市党書記の薄熙来だった。 (劉暁波ノーベル授賞と中国政治改革のゆくえ)

 薄熙来は根っからの左派でなく、優勢な左派に接近し、左派的な政策をやって人気を集めて政治力をつけ、共産党の中枢で出世しようとした。薄熙来の策は成功したが、同時に党中央で主流の中道派の人々は薄熙来の存在に脅威を感じ、胡錦涛から習近平への世代交代の政治儀式が始まる今夏より前に、薄熙来をスキャンダルで引っかけて逮捕し、権力を奪った。薄熙来自身は逮捕され失脚したが、薄熙来を担いでいた左派の不満と、党中央の中道派に対する怒りは残った。 (薄熙来の失脚と中国の権力構造)

 そして、左派の不満がくすぶっていたところに起きたのが、尖閣問題での日本との対立激化だった。左派の人々は、毛沢東の肖像画を掲げてデモ隊を率いた。表向きは、日本に対する怒りが発露された。しかしその裏に、デモを激化させ、日本への怒りとは別の、貧富格差や役人の腐敗など中国国内の政治社会問題に対する怒りを発露させるところまで進める意図があった。このような政治的手口は中国でよくあるので、中道派はデモ発生の当初からその危険性を知っていただろう。当局は、各地でデモが激化してくると取り締まりを強化し、デモを終わらせた。だが、尖閣問題で日中が対立している限り、中国で反日デモが再発し、それを左派が国内政争の道具に使おうとする動きが続くだろう。 (These Anti-Japan Protests Are Different)

 中国では、日本が尖閣の土地国有化に踏み切った背後に米国が黒幕として存在するという見方が強い。米国が、日中対立を扇動しているとの見方だ。今回の尖閣土地国有化の動きの始まりは、今年4月に石原慎太郎・東京都知事が米国ワシントンのヘリテージ財団での講演で、東京都が尖閣の土地を買収する計画を唐突に表明したことだ。米政界のいずれかの筋が、石原に対し、尖閣を買収して日中対立が激化したら、米国は日本を支持し、日米同盟を強化できると入れ知恵(提案)した可能性がある。 (東アジア新秩序の悪役にされる日本)

 米国は、南シナ海の南沙群島問題でも、フィリピンやベトナムが領有権の主張を強めるのを後押しし、これまでASEANと中国の間で棚上げ状態にしてあった南沙問題を再燃させた。米国は、比越などを代理にして中国包囲網の戦略を展開し、比越に最新鋭の兵器を売り込んでいる。そして、南沙と同じ構図が尖閣でも起きている。米国は、石原を誘って、日本が尖閣問題で領有権の主張を強めて島を国有化するのを後押しし、これまで日中が棚上げしていた尖閣問題を再燃させ、日本にミサイル防衛関連の新型兵器(レーダーなど)を追加で買わせた。 (南シナ海で中国敵視を煽る米国) (米国が誘導する中国包囲網の虚実)

 尖閣問題も、南沙問題と同様、米国がアジア諸国を代理役にして中国との対立を激化させる策になっている。中国側は、背後にいる米国への敵視も強めている。尖閣問題で反日デモが激しくなった9月18日には、北京の米国大使館前で50人の市民が米国大使の車を取り囲み、車を傷つける事件が起きた。 (Beijing demonstrators damage US ambassador's car)

 中国は、1989年の天安門事件で米欧に制裁され、当時の経済発展が初期の段階にあった当時、今よりも重要だった投資や貿易、技術移転を何年も制限されて、経済発展に悪影響が出た。その教訓から、中国の経済発展を主導したトウ小平は「経済力が十分につくまで、米欧に挑発されても反撃せず我慢せよ」と命じる遺言(24字箴言)を残している。トウ小平の弟子たちである中国政界の中道派は、この家訓を忠実に守り、米国の中国敵視の挑発に乗らないようにしてきた。 (中国軍を怒らせる米国の戦略)

 だが、経済優先の中道派の姿勢に反発し、近年のナショナリズムの強まりに乗って政治力をつけた左派や人民解放軍は「米国の敵視策を見て見ぬふりして我慢する必要などない。米国に売られた喧嘩をかって反撃せよ」「中国は国際的にもっと自信を持った方が良い」「空母など新鋭機の開発、貿易決済の非ドル化や米国債の放出、発展途上諸国を味方につけて国際政治で米国を封じ込めるなど、米国の覇権を崩す策を強めるべきだ」といった主張を強めている。

 中道派は、あと10年ぐらいトウ小平の家訓を守って慎重な外交姿勢を続けようとしているが、左派は、もう十分に経済力がつき、すでにトウ小平の家訓の範疇を過ぎたと考えている。ドルの過剰発行、イラクやアフガニスタンでの失敗など、米国の覇権が経済・政治の両面で失墜していきそうな中、次の10年間に中国が米国の敵視策にどう対応するかをめぐり、政権が胡錦涛から習近平に交代する今の時期に、中国の中枢で議論が戦わされている。 (中国の次の戦略)

 習近平政権の外交戦略が定まっていない今の微妙な状況下で、日本が尖閣国有化で中国のナショナリズムをはからずも(背後にいる米国にとっては意図的に)扇動したことは、中国政界で左派を力づけることにつながっている。尖閣や南沙の問題で、米国と同盟諸国が中国敵視を強めるほど、中国のナショナリズムが燃え、習近平の政権は左派に引っ張られ、対米戦略を協調姿勢から対決姿勢へと転換していくだろう。

 日本政府や石原都知事にとって、尖閣問題で日中対立を煽った目的は、日米が共同して中国の脅威に対抗する態勢を強めること、つまり日米同盟の強化だろう。中国の左派が尖閣紛争を逆手にとってナショナリズムを扇動し、中国の日中に対する外交姿勢が協調型から対決型に転換したとしても、米国が今後も盤石な覇権国である限り、中国は米国にかなわないのでいずれ譲歩し、日米に対して協調姿勢に戻り、日米同盟の強化は成功する。しかし、これまで何度も書いてきたように、米国の覇権は経済政治の両面で揺らいでいる。ドルや米国債の下落、米国の財政破綻、国連での米国の主導権喪失が起こりそうだ。半面、中国はロシアなどBRICSや途上諸国との連携を強め、これらの諸国が集団的に米国から覇権を奪う流れが続いている。 (ドル過剰発行の加速)

 これまで米国の忠実な同盟国だったオーストラリアは、米国抜きのアジアを容認する外交戦略の白書を作り、近く発表する。「アジアの世紀のオーストラリア」と題する白書は、豪州が今後、中国、日本、韓国、ベトナム、インドネシア、インドとの経済関係を重視する戦略をとるべきだと書いている。米国に言及していない点が重要だ。豪州は米経済の回復に疑問を持ち、米国を軽視していると、WSJ紙が危機感をもって報じている。政治軍事的にも、豪州には、米国のアジア支配に協力すべきでないとする論調がある。豪州には、国家戦略を表だって議論して決める政治風土がある。国家戦略をこっそり決める傾向が強いアジア諸国(東南アジアや韓国など)でも、豪州と似た議論が起きているはずだ。 (Oz Doubts U.S. Staying Power)

 この手の議論を、表でも裏でも見かけないのは日本ぐらいだ。今後、財政破綻などで米国の覇権が劇的に弱まると、その後の米国は、国力温存と米国債購入先確保のため、中国敵視をやめて、ベトナム戦争後のように、一転して中国に対して協調姿勢をとる可能性が高い。米国の威を借るかたちで中国敵視を強めた日本は、孤立した状態で取り残されかねない。 (経済覇権としての中国)

 中東では今、米国の威を借りてイラン敵視策をやってきたイスラエルが、米国からはしごをはずされている。9月25日、国連総会でのイランのアハマディネジャド大統領のイスラエル批判の演説に対し、席を立ったのはイスラエル代表団だけだった。これまでイラン批判をしてきた米欧はどこも席を立たず、イスラエルの孤立が浮き彫りになった。中東政治における攻守が逆転した瞬間だった。イスラエル同様、米国だけを頼みの綱としている日本人は、この展開を他山の石として注目し、自国の戦略を深く再考する必要がある。だが実際のところ、もちろん日本のマスコミは、この国連総会の出来事をほとんど報じていない。 (US Envoys Stay Seated For Ahmadinejad's UN Speech, Israel Walks Out Alone!)

 ここまで、尖閣問題をめぐる日本と中国の姿勢とその意味について書いてきた。日本の上層部は、日米同盟(対米従属)の国是を保持するために尖閣問題を煽った。中国は、左派が国家戦略を乗っ取る目的で、日本から売られた対立強化の喧嘩を積極的に買い、習近平の国際戦略を急進化しようとしている。残るは米国だ。米国はなぜ尖閣や南沙問題を煽って中国包囲網を強化しているのか。 (日本の政治騒乱と尖閣問題)

 米国の上層部は一枚岩でないので、複眼的な考察が必要だ。軍産複合体の視点で見ると、尖閣や南沙問題を煽るのは、中国との敵対を煽って恒久化することで、米国と同盟諸国に末永く高価な兵器類を売り続けられる。米政府が財政緊縮に取り組んでも、中国の脅威が大きい限り、軍事費の削減に手をつけにくい。しかし、中国を敵視し続けていると、中国で米国と対決したがる左派が強くなり、すでに揺らいでいる米国の覇権を、経済・外交の両面で崩されてしまう。米国が中国に左派の政策をとらせるのは自滅的な失策だ。 (中国の台頭を誘発する包囲網)

 米国には中道的、穏健的な外交戦略を好むリベラル派もいる。だが、マスコミを握る軍産複合体と右派が結託して911以来展開している好戦的な戦略に圧され、リベラル派は弱くなり、好戦的なことを言う「ネオリベラル派」として何とか生き延びているが、ネオリベラルは右派と違いがない。

 米国には、自滅的な失策とわかっている戦略を政府にとらせる勢力がいる。政治面では、軍産複合体と組んでいる右派(タカ派、ネオコン)である。大量破壊兵器がないと事前にわかっていたのに、ネオコンが大量破壊兵器の存在を主張し、開戦に持ち込んだイラク戦争が好例だ。ネオコンなど右派は、過剰に好戦的な外交戦略をとり、米国の覇権を自滅させている。経済面では、公的資金や連銀のドル過剰発行によって、リーマンショック後に大量発生した金融界の不良債権を買い支えたバーナンキ連銀議長やポールソン前財務長官らが、米国覇権を自滅させる政策をあえて進めている。彼らは、政治面で軍産複合体、経済面で金融界と組み、マスコミの論調を決定しているので、自滅策の自滅性を指摘されずに突き進んでいる。 (ウォール街と中国) (リーマンの破綻、米金融の崩壊)

 彼らは、なぜ米国の覇権を自滅させる策を続けるのか。私の見立てでは、彼らの上位にいるのはニューヨークの資本家層であり、世界のシステムを米欧中心(米国覇権)から多極型の体制(新世界秩序)に転換し、それによってこれまで米欧から経済発展を阻害されてきた途上諸国の経済成長を引き起こそうとしている。私は数年前から、彼らを「隠れ多極主義者」と呼んでいるが、それについての分析は、これまで何度か書いてきたので、それらを読んでいただきたい。 (資本主義の歴史を再考する) (米中逆転・序章) (隠れ多極主義の歴史) (多極化の本質を考える)

 最近の数年間で、BRICSやイランの国際台頭、米国の繁栄を支えていた債券金融システムのリーマンショックによる瓦解、G7からG20への国際意志決定権の移動など、彼らの多極化戦略は着々と成功している。私の「隠れ多極主義」の分析は、大半の人々にいかがわしいものとみられているが、人々がどう考えようが、私が隠れ多極主義の推論を考えた後、世界は多極化の方向にどんどん進んでいる。 (世界経済多極化のゆくえ) (米経済の崩壊、世界の多極化)

 米国の中国包囲網は、隠れ多極主義者が軍産複合体を誘って始めた戦略だ。短期的には軍産複合体が儲かるが、長期的には中国の台頭と対米対決姿勢を誘発し、米国の覇権衰退と世界の多極化を早める。日本が米国に誘われて尖閣問題で日中対立を激化する策は、長期的に見ると失敗するだろう。すでに日本政府は、特使を中国に派遣して日中関係の修復を目指すなど、早くも腰が引けている。日本は経済的に、中国との関係を断絶し続けることができないからだ。日本政府は今後、尖閣問題を再び棚上げして中国との敵対を避ける姿勢に戻るかもしれず、腰が引けているがゆえに、大したことにならないかもしれない。 (多極化の進展と中国)


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「偽ユダヤは日本を使って中国をたたかせようとしている」

http://blog.ap.teacup.com/applet/jiritu/1651/comment?ap_protect=hfbsxo9nimo

明治維新の後ロシアたたきに日本を使って、その後共産主義の防波堤に日本を使った。

(共産主義自体が、世界管理のために、偽ユダヤが育てたものです。スターリンを援護していたのはロックフェラーでロックフェラーはナチスも援護していた。ヨーロッパを戦場にするためです。)

ドイツも同様です。

偽ユダヤの世界戦略にいいように使い回されていたのです

今の、松下政経塾政権も、わけんわからん維新とか言って政権を取らそうとタケナカを使って偽ユダヤに使い回されている橋下も同じです



アホはおだてて使え。。。。



日露戦争のご褒美は満州と朝鮮半島。ロシアたたきまでは利害が一致していたが、オレンジ計画で日本を追い出すことは既定の路線。ハリマンは、日本軍人をそそのかして、中国へ侵略させた。米内光政が手先である。。


待ってましたとばかりに「国際社会」=偽ユダヤ連合日本はたたき、から日本の孤立へ。。

かくして日本帝国は滅亡。奴隷の身分に。。。。

冷戦の防波堤にするために日本に経済力をつかせたが

強くなりすぎたので、円高誘導日本たたき

それでも日本は強いので、またもや、バブルを使った日本たたきと、日本企業乗っ取り

リーマンショックで神風がふいた。(おそらくプーチンがAIG株を叩き売ったから。。。)

さらに暴走自滅を演出し、尖閣を使って日本企業の中国資産、市場破壊、

日本に対して100年前と全く同じことを偽ユダヤはしている。

ただし今度は日本は武力=核兵器がなく、アメリカと中国の両方に食われる役割である。

いい加減気がつけよ、アホ。。

日本民族はいま地球上でいちばん愚かでアホな民族である。。。




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<追跡!真相ゼロtoZ>
~ゼロの意味する原点の意味の原因を探り
 定量的、科学的にZの行き着く先の真相に迫る~

4 吉良を殺せ!金融マフィア蜷川のスキをつき赤穂浪士を使え

2012/9/28 吉良を殺せ!金融マフィア蜷川のスキをつき赤穂浪士を使え
追跡 真相 ゼロtoZ 吉良を殺せ 金融マフィア 蜷川 スキ 赤穂浪士 使え







▲▼▲▼足利義満と金▼▲▼ 
http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/ashikaga.htm


現在の高校歴史教科書で採用されている『詳説日本史』には「足利義満は尊氏の孫であって、細川、斯波、畠山氏らによって守護領国制も確立し、六十年の長きに及んだ南北朝の対立も合体させ、幕府の全国統一を成した。

従一位太政大臣となって勢威をふるい、応永十一年には勘合符をもって官船の日明貿易を始めたが、中国の伝統的外交方針である属国の朝貢という形式がとられたゆえ<日本国王臣源>と義満は臣下の礼をとり、その代わり多くの貿易上の利益を収めた。勘合船は中国南支沿岸の寧波で査証を受け、首都北京で交易に当たったが、朝貢形式のため関税も掛らず滞在費、運搬費、帰国費まで明側で負担したので、その貿易の利潤は大きかった」とあり、その後に続いて「1392年の明徳三年ついに李成桂が、明の援助によつて高麗にとって代わって、<李氏朝鮮>が建国された。足利義満は倭寇の禁止を求められ、それに応じて国交を開きその貿易も、中国との勘合貿易と同様の形式で続けられた」の記述である。

これでは李氏朝鮮に対しても義満はやはり<臣日本国王>として朝貢の形式をとって貿易していたのだろうか?という疑問がどうしてもわいてくる。李氏朝鮮建国から二七年目の応永二六年には、朝鮮海軍は対馬へ攻めてきて無血上陸し、乱暴や略奪をしたあげく住民を奴隷に連れ去る暴挙をあえてしている。だが足利氏は何もせずただ傍観。そしてこの年も勘合符を持った官船が恭しく貿易にいっている。対等の国交ならいくら平和的人間でも抗議ぐらいはするか、その年だけでも貿易停止はすべきなのに、この弱腰は何だろう。

なにしろ、義満は国内では、山名氏清を倒し(明徳の乱)長洲の大内義弘をも堺で攻め滅ぼして(応永の乱)いる。これも学校歴史に出ている。となると対外的にはペコペコしていても、実際には平和愛好家とは言えぬ。相手が中国でも朝鮮でも金儲けにさえなれば、ヘラヘラして臣従していたのが足利義満。はたしてこの真相は如何に。

足利義満が左大臣になった明徳三年に高麗王朝が李王朝に代わってしまったのは初めに述べた。この知らせに義満は驚いた。「これは大変である。早く国内を統一せねば」あわてて義満は吉野の後亀山帝に戻って頂き、神器を北朝の立てていた御小松帝に授けて貰い、南北両統を合一し己は太政大臣になつた。
この時に何故義満が国内を急ぎ纏めをして警戒しなければならなかったかと言えば、それなりの訳が在るらしい。かつて大陸で元が建国した後直ぐ文永、弘安の来寇があった。

その後も押し寄せては来なくても朝鮮に大軍集結の情報が次々ともたらされた。つまり北条時代というのは、時宗以降は、又何時襲ってくるかと防備に身をやつし、兵力も銀や銭も防備に廻してしまい、九州へ全力投球していた。だから肝心な鎌倉が手薄になってしまい、新田義貞に稲村ガ崎から攻め込まれた時も、兵が足りず、北条高時は時の執権北条守時らと共に火中へ身を投じて滅んでしまったのである。


今の歴史屋は、何故に元が北条時代に、無謀とも言える無益きわまりない来寇を繰り返したかの理由を明らかにしない。しかし<元史>とも呼ばれる『南宋実録』には、その条にはっきりと「復仇」の二文字が読みとれる。(なにも北条氏が元の国を攻めたわけでもない。それなのに復讐に来寇される訳など無いのである)と歴史屋は全く問題にもしていない。

しかし日本の四民四姓(源平籐橘)の内でわれらミナモトの民なり、と白山神を仰ぎ尊ぶ白旗を立て「蘇民将来子孫也」の柳幹を腰にぶら下げ、馬に乗って山野を駆けめぐった源氏は、沿海州から北鮮にかけて発祥した元と同じ種族の騎馬民族である。

つまり「チンギスカンは源の義経」説がでるくらいに、言語習慣も同じであるし、笹りんどうの紋は、沿海州ハバロフスク民族館の入口には民族章として、今でも堂々とレリーフとして飾られている。つまり今日の学校歴史の如く、北条政子が頼朝の妻だったからの理由づけで、北条氏を源氏と見てしまう史観では判らないが、北条は拝火教で源ではなく旧平家だった事さえ判れば、この差異は呑み込める。

つまり元寇とは、源が北条(平氏)に滅ぼされたのを知り、日本列島も元と同種族の源の国に戻さんとしてのくり返しの来襲であったという明白な事実が判って来るのである。これを今の日本人は全く知らないが、昔の十四世紀の日本人はよく判っていたらしい。「また北条時代のように来寇されては堪らない」と。
だから義満は狼狽した。親明政権の李世桂によって統一されたから、明国と共に攻め込んで来るかと恐れてである。そこで政争を南朝方としていては大変と急遽和解をした。そして、(前、北条政権は平姓で源を滅ぼした敵姓だったが自分は違う)と、ことさらに対外的には保身のため源を名乗ったのだろう。つまり勘合符を使って明や新興朝鮮にも朝貢と呼ぶ恰好で臣従の礼を示したのも、足利体制を守るため、割り切って頭を下げていたのである。

だから大陸人によって無謀にも壱岐対馬を荒らされても(局地的被害は仕方がない)と目をつむり、平静に振る舞って貿易を続行していただけの話しである。だが、義満の外交手腕で明や朝鮮をまんまと騙したが、国内では上手の手から水が漏るの譬通り、案外と抜けたことをしている。というのは、

火は清浄なものであると崇拝する拝火教徒は死後は火屋(ほや)に入れて焼く。しかし騎馬民族の元や北鮮からの源氏は、死者の顔に白布を被せ、頭を北枕にして土葬する風習があり、これは幕末まで続いている。

所が「源」を名のっていても、足利氏は土葬ではなく火葬にし、等持院に葬り木像を飾っている。これは「輪廻」といって、人間は一度死んでも何度も生まれ変わるものだと、信じられていたのが中世期の思想だったためである。
それゆえ葬いだけは、次ぎに生まれ損なってはいけないから、拝火教徒は神妙に死という汚れをお清めするための火葬は、来世蘇生のため止められなかったらしい。信仰のせいである。

(日本史の捉え方として、原住系と外来系との対立、民族間の闘争。そして宗教対立という視点から入れば解明しやすくなります)つまり足利義満が大陸勢力を極端に恐れたのは、元から睨まれる西南系拝火教の末裔という、そうした出自からである。そしてこれが「応永の乱」と呼ばれる大内義弘が堺に拠っての叛乱にも繋がる。日本史に隠されているが、渡来した中国人によって早くたてられた吉備王朝の昔から「中国地方」と呼ばれる岡山以西は、中国渡来の文化人が住み着いていた土地ゆえ、山口は京そっくりだと小京都の別名もあるくらいで、その血を引く大内氏は南シナ海のニンポーに出先機関を持っていた



(この大内氏というのは「朝鮮百済王聖明の三子の琳聖、東海の周防大内県(吉敷群)に一族と来たり。初めは多々良氏を称す」と、当時では栄誉ある舶来系で、大内氏を称してからも「我が祖の家系について」と朝鮮へ身元確認の親善使をたてたりしている。明国のニンポーは今で言う領事館である。
その山口には「日本国昔年欽奉、大明国勅賜御印」と但書の付く「日本国王」の印鑑。

それと「朝鮮国賜印、景泰四年七月造」という銅印を持っていて「祖国朝鮮、明国万歳」とやっていたのが大内氏である。
だから長門へ追われて逃げた時も、大陸の血を引く公家さんたちの佐中将二条良豊、持明院権中納言冷泉隆豊らが一緒だった程である。)

「寧波」の漢字を当てるが、そこから堺まで海流を利用した航路が開かれていて、大内義弘は本国の長州より、海流の便利を考え、南支よりの応援を当て込んで堺で兵を上げたのである。

※安倍晋三自民党総裁と大内一族、田布施システム(天皇エタを守るシステム:日本が戦争を続けざるを得なかった理由)


(信長も堺とマカオ間に火薬輸入のため、航路をもっていた)「吾が足利のことを向こうへ知らせ、助力の兵が来ては大変だ」と、この時義満は狼狽しただろう。そして自分が先陣に立って全軍を指揮して一気に落とした。

九州の南朝方を討伐するときでも自分は行かず、今川貞世を名代に出している。山名一族叛乱の明徳の乱の時も河野通義を派遣して、自分では戦争に行ったことがない義満が、堺まで出かけて指揮を執って攻めたのだから、如何に彼が大陸を恐れていたかが判る。さて、である。いくら義満が「臣」とへりくだっても、明国がそれだけで満足して「よしよし」とビタ銭と呼ぶ鉄銭を、公式記録では六十万枚だが、その後日本では幕末まで一文銭として全国的に通用していたのだから、実数はその百倍の六千万枚
にも及ぶ莫大な物を「日本王は臣として朝貢してきているのだから、どんどん呉れてやれ」と果たして気前良く送荷してくれたであろうか。今の歴史は、臣従したことへの報酬と極めて安直に解釈するが、常識的に判断して、こんな事が果たして有り得るだろうか。今まで誰も解明していないが、八切史観の一連の著書では、これも詳細に解明されている。

鉄貨流入は臣従と関係ない貿易による物と思推される。では日本からの輸出品は何かとなる。学校歴史では漆器、蒔絵、甲冑、日本刀の類と言うが、向こうに日本人が居ないのにこれはおかしい。隠されているが、それは黄金である。当時の日本列島にどんどん産出された山金や砂金を大陸に送り込んでいた。
黄金で同じ重さの粗悪なビタ銭と引き替えていたものらしい。実数を六千万枚と見ても、ビタ銭一枚七十五グラムとして、四十五万キロもの夥しい黄金がむざむざと足利氏によって、明国へ、貿易とも言えぬ、割の合わない、朝貢
という美名で搾取をされていた。足利氏御用の日銀であり、大蔵省でもあった蜷川家の手で、現在の常識では考えられぬが、次々と送り出されていたらしい。


マルコ・ポーロの『東方見聞録』に「北京の宮廷で夥しい山金の塊りや袋入りの砂金をみて、何処からと聞けば東方の島国からと言う。そこはまだ開発途上国で材質柔らかく、装飾用にしかならぬ黄金の需要など全くなく、鉄や銅のごとき硬質の物のみ求めている黄金で輝く島があり、道にも岩金がゴロゴロしていて、全く無価値と言われる」と言った意味のレポートが出ている。だが日本ではまさかと従来は誇張の如くとられている。しかしルネッサンスの植民地支配時代に入ったヨーロッパではアフリカやインドの有色人種は、その肌に似合うからと黄金を欲しがっていた。つまり他国より先に植民地を確保するためには、どうしてもその地の王や有力者の関心をかうため、黄金を必要とした。が困ったことに金が何処からも採掘できぬヨーロッパである。

つまりジャン・パルジャンが教会から盗み出した燭台の如く、それまでのヨーロッパ は銀だけが貴金属だった。所が植民地確保の競合に突入すると、白人には銀が似合うが、有色人種は金を好むゆえ各国が競って金を求めて当時ポルトガルのエンリケ航海王によって発見された、海流航海法を利用するため急ぎ大型船建造を始めた。もしヨーロッパで昔から金が貴金属視されていたものなら、錬金術といったまやかしものが堂々と各宮廷に突如として出てくる筈はない。

王や貴族が何処でも錬金術師を歓待したのは、それまで金を軽視していた証拠である。慌てていたのであろう。それが証拠に大英博物館やロンドン塔、ルーブル美術館へ行っても、ルネッサンス以前の物で金を用いた装飾品やコップの類は少ない。つまり金と銀の評価が現在と中世では、まるっきり違っていたことが判らねばならない。そして『東方見聞録』の内容は各国で評判になったらしい。彼らにとって喉から手の出る程欲しい金がゴロゴロしている島国が東方洋上にあるというので、各国で建造した大型帆船を皆東洋向け出帆させた。

当時魔女狩り旋風の吹き荒れる欧州各国から、一斉に日本向け船が来たのは、何もキリスト教布教の為でなく、黄金の宝島探しのためであった。幕末のペルリの来航が、当時のアメリカの捕鯨船団の給水補給基地に日本を当てるため、黒船を率いて浦賀へ来たように、15~16世紀の南蛮船の来航目的は黄金探しが真相である。当時の日本の国情が詳細に欧州にレポートされ、今も保存されているのも、このおかげである。

つまり日本からの物を向こうへ渡して儲けていた明国では、黄金の値打ちが判っていて、バーター制で同量の金を運ばせようと、ビタ銭をどんどん鋳造して日本へ送っていたのである。

つまり縄文期の銅器時代が終わり、武器や農耕機具に銅より硬い鉄が必要なのに日本では鉄の産出が少なく、金だけはごろごろしていたのが中世の日本だったと言えよう。金時計や金歯、金指輪も無かった時代なので、牛若丸を奥州へ連れて行った者も「金はいらんかね、安くしとくよ」と、当時は日本一の消費都市の京へ平泉の有り余っている金のセールスに来ていた<金売り吉次>(きんうり)の名で今では偲ぶだけである。

金が未だ貨幣でなかった頃。金は叩いて延ばせば広がるが実用的なスキ、クワも出来ぬし、釘や鋸にもならない。京へ持っていっても、金屏風の箔位にしか買ってもらえない。あまり売れないので吉次は牛若丸を営利誘拐したか、甘言で騙して奥州へ連れていったのかもしれない。

何しろ余り売れないので、平泉では金色堂といった金の延べ板の堂や、箱や壺等作っていたらしい。現在でこそ貨幣が金本位制になり、発行する紙幣に見合うた゜けの量が無いから、インフレ対策に金の延べ棒や板が財産保全にと大切にされている。未だ住民の殆どが穴居生活をしていた当時の奥州でも、装飾品にしかならぬ金は益無き代物ゆえ、堂の壁板や瓶に細工しやすいから使っただけの話し。

それなのに、現代では勘違いされて、今日的価値判断で見て間違い、金がふんだんに惜しみなく派手に使われているのは、さぞ文化水準が高かったのだろうと「藤原三代の栄華」とか「平泉文化」と帰納してしまう。これはおかしい。足利末期の関白一条兼良が、応仁の乱の時避難していた奈良興福寺大乗院の院主は兼良の三男だが「黄金は明国人へ進物にすれば歓ばれると、京の各寺にては鋳物の下人に命じて鋳型にて黄金板を作らしめている」と、今に残る「大乗院寺社雑事記」に書き残されている。

活字本でも読める。つまり足利末期でさえ金は進物品としか見られていなかったのを尋尊大僧正が自筆で書き残した程ゆえ、その一世紀前の義満やマルコ・ポーロの頃には「こんなもので宜しければ、どんどん持たせます」と、明へ進上していたのも判る。何しろビタ銭に鋳られてくる鉄銭は溶かせば刀や槍にする事もできる。だが足利末期の応仁の乱では、双方共矢種が尽きてしまい、鉄銭で矢じりまで作った。つまり二束三文と言う言葉も、当時の矢は一筋と呼ばず一束といっていたから、一文銭三つ溶かして矢が二本出来たということを指すのである。「応仁私記」にも「近頃は金も値が貴くなりて」と出てくるように、勘合符で運んでくる官船の他、私船で買い取りに来る商人も増え出し
たので、金にも商品価値が出てきたらしい。つまり儲かる黄金を自発的にどんどん積み出してくるので「テンホウである」と、足利氏の素性が海洋民族であっても一向に構わんと、進攻等しなかっただけと見るべきで、この点義満の対明政策は成功といえよう。

そして対明用に集結した金の延べ板の余ったので今のプレハブ住宅なみに、応永四年四月一日に北山に金閣寺を作らせ、僅か半月で完成させ、十六日に検分している。しかし対比上、銀の方も建てようとしたものの、材料入手難で計画倒れとなり、八十七年後の足利義政の代になってようやく銀閣寺は完成している。この一例をもってしても、銀は金に比すべくもない貴金属だった明白な証拠といえる。


金が無くて倒産というのはある。だが大阪城のように天守閣には割竹に流し込まれた金の延べ棒が山積みされていて落城してしまった事実は何を意味するのだろう。分銅流しとか竿金の名称で「頑丈な天守の床板が軋むほ程に積み上げて在った」と記録にある。有り体は、この時期においても金はカネでなかったことである。


大阪落城後の焼け跡に岩のようにごろごろしていた黄金を、略奪したり、掻払った兵もいない。「汝に悉皆みな呉れてやる」と家康に言われて全部貰った籐堂高虎も有難迷惑そうに集めて茶釜や茶壺を作っている。歴史屋は(猛烈な炎に焼きただれていたゆえ、そうした用途しかなかったのだ)と説明する。だが鉄屑のスクラップを溶かして新鉄にするごとく銀でも金でも火力のため黒ずみは表面に出るが変質することはない。

高虎にしても、黄金がカネなら茶壺など作らず通貨に鋳造し直す筈だし、それより吝な家康が気前良く皆呉れてやるはずはない。これは家康が元和元年五月の時点で、黄金とは単なる装飾用軟質金属にすぎず、まだカネではないと認識していた例証でもある。十六世紀と現代では様々な事象に対して評価が逆なのを理解しなければならない。「黄金の茶室」を秀吉が作ったからと言って、さも豪華絢爛だったごとく目を奪われ間違えるが、金閣寺や金色堂と同じように、廃物利用とはいえぬまでも、余っているから使ったに過ぎないらしい。

当時ヨーロッパ各国もルネッサンスの為のバブル金儲けの植民地政策上、従来の銀本位制から金本位制に切り替えていたゆえ、織田信長もポルトガルとの火薬輸入決済に日本を金本位に切り替えようとしたらしい。

しかし、当時の日本の銀の大半を支配していた蜷川道斎に忌まれ、その姪の夫にあたる丹波亀山在城目付の斉藤内蔵介に率いられた一万三千の軍によって本能寺で爆死を遂げた。(この内蔵介を影で操った黒幕が家康だが、これは八切止夫著「信長殺し光秀ではない」に詳細)

次の秀吉も大陸遠征の火薬や資材購入のため、やはり対外的には金で決済だったゆえ、金本位制に貨幣制度の切り換えを目論んだ。その計算の元彼が作らせたのが、日本最初の金貨である天正大判小判なのである。
だが秀吉の権勢をもってしても、足利時代から連綿として続いてきた蜷川財閥金融資本の銀は強く、切り替えは出来なかった。


やむなく勲章代わりに各大名へ与えたり、公家を集めて「金配り」とばらまいたと言うのも、金本位移行の為の布石か、又は蜷川勢力に勝てぬ事への鬱憤ばらしとも考えられる。この計画のため、佐渡金山を取り上げ、上杉景勝を
会津百万石へ移封させもしたが、雄図空しく金がカネにならず、用途を失った地金がやむなく大阪城に山積みされていただけの話しである。だから無価値な黄金を貰っても仕方ないと、諸大名も味方しなかったのである。又大阪城の幹部連中も京阪では蜷川の目が光っていて金は価値なしと判っては、集まった浪人共の士気が阻喪するだろうと、遠隔地から集めてきた女達で、大阪城三の曲輪に大慰安所を設けた。落城の際、女が二万人の余も居たと伝わるのは、淀君付きの侍女や腰元だけでなく、慰安婦が一万五千余も居たからである。

つまり大阪城では浪人共が外部へ出なくてもすむように、城内で酒と女をふんだんに当てがって、これも黄金の力なりと信じ込ませて奮戦させたものらしい。そして、次の国家主権者の徳川家康でさえ、銀本位制の変革はせぬと伏見城内で鋳造させた金の小判は関東へ移し、金を貨幣として通用させるのは箱根の山から東だけと限定した。

二十世紀の現代でも「一金何円」と、領収書、小切手、約手に書く習慣も、幕末まで天下の権勢によって箱根の関所で東西に分け、以東は金で一両は四分、一分は四朱だが、三島から九州までは銀本位制で何匁が単位だった。


「箱根の山は天下の嶮」と言うのは、ここの関所は入国管理所と税関のような所で通過する旅人から「お前の所持金は十両だから、手数料二分を置いて行け」と、やっていて、莫大な儲けになったらしい。

”天下の嶮”は権力の”権”の意である。金と銀では等価が違うから、領収書その他に金で払うのか、銀で払うのかを初めにつけて区別する名残が今でも在るのはこの訳である。さて、日本全国の銀を支配していた蜷川道斎の姪婿の斉藤内蔵介の忘れ形見の阿福が春日局になる。その前夫との子の稲葉正吉が、金銀交換で儲けの多い天下の権の箱根を押さえる小田原十万石の城主に、従来の大久保家を陥れてなったり、その子の正休は若年寄になって幕政を担当するのもそれなりの訳があった。

同じく春日局の孫娘を妻とした堀田は後に大老となって天下を押さえだした。だから親類に当たる蜷川が、春日局の家老と言う恰好で、当時の喜左衛門が江戸へ来て大名並の豪勢な暮らしをしていたと、太田南畝の考証にもある。
が、貞享元年八月二十八日に千代田城内で若年寄稲葉正休が、現在換算で数十億にものぼる春日局の遺産を、直系でもない孫婿のくせに堀田正俊が横領しているのはけしからんと刃傷。

共に殺し殺されてしまった事件が起きた。このため幕閣を押さえていた春日局の孫共が断絶廃家となった。

蜷川喜左衛門の孫も京へ戻ったし、それまでの蜷川の圧力も減じてきた。そこへ目を付けたのが柳沢吉保その人である。

「足利義満のために日本の金も豊臣家以降は底をつき、通用量に事欠く有様。よってこれまでの含有量の多い大判小判は禁止し、銅増しの新小判を鋳直すべしと砂田彦十郎の献策だが、吉良上野介殿は京方の足利氏の血脈である。その為に向こうでは頼られていて、よって毎年の如く行かれ知己も多い。一つよしなに新小判造りの采配をおみに頼む」佐渡金山を開発した上杉家の三姫を妻にしている、高家筆頭の切れ者の吉良上野介を呼んだ柳沢は次ぎに「京都所司代小笠原備後守や、京都町奉行松前伊豆守には、おことに協力して仕事を成すよう既に命じて在る。銀をどうしょうではなく、蜷川に関係のない金だが、そこは用心するように」と命じた。


これが悪貨は良貨を駆逐するといわれた元禄小判の誕生である。進言したことになっている砂田彦十郎は勘定奉行に、協力した所司代は一万石加増の幕閣の老中。

松前伊豆守は江戸南町奉行に出世。だが総指揮を執って柳沢政権の金箱となった吉良は「おことは源氏白旗の高家筆頭の名誉ある武家の棟梁の家柄なれば」と若年寄にも昇進させてもらえぬ。だから、嫌気の出た吉良は「辞める、隠居する」と言いだした。吉良の口から偽金造りの裏話が流布されては困ると、田舎大名の浅野内匠頭に、吉良に抜刀させるよう挑発せいと命令したのに、失敗したから即日浅野をバッサリ殺して口封じをした。これが有名な赤穂事件の発端となる。
が、これは後日の話。
        
        【終わり】
   
〓〓〓引用参考文献〓〓〓
「八切日本史選集全八巻」・「論考八切史観」・六国史・塩尻資料百巻・布衣記
徳川禁令考・豊臣大閤御事書・半日閑話・東西遊記・武家名目抄・永楽王墓碑・
建武元年二条河原落書・更級日記・令集解・類聚三代格・空也堂記録・その他

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大室寅之祐が明治天皇になったといえる勇気を持とう!
大室寅之祐明治天皇問題を国会でとりあげてみませんか?(明治維新真実情報公開法案の早期法案提出を)


http://blog.livedoor.jp/asdthkou/

大室寅之祐が明治天皇になったといえる勇気を持とう!2005春
nariaki@vanilla.ocn.ne.jp

私、地家は大室寅之祐東京明治天皇の弟地家朝平の玄孫です。国会中継をみ
ていましたが橋本龍太郎さんは証人喚問に応じません。
なぜなら日本で一番権力をもった男がハシリュウだから。(天皇陛下より権力をもっ
てる)
なぜか。彼(ハシリュウ)は大室寅之祐東京明治天皇の弟大室庄吉の娘大室ヨネと橋
本卯太郎との間に生れた橋本龍伍の長男だから。
僕の父とハシリュウはまたはと子の関係です。橋本龍太郎と2号との間に生れた和子
さんの娘が敬宮愛子です。
要するにマサコさんに2001年12月に押し付けて国民には内密に養子にしたわけ。
皇太子さまの父は徳川恒孝で恒孝さんの父は大室近祐。(岸信介と昭和天皇が田布施
コネクションの権力で美智子様にヒロノミヤをおしつけたわけだ)
近祐の父は大室儀作。儀作の父は大室庄吉。庄吉の父は地家作蔵。作蔵の父は海賊
某。

アキヒト天皇の父は三笠宮崇仁。崇仁の父は東久邇稔彦。稔彦の父は中川宮朝彦。朝
彦の父は徳川斉昭。

今日、週刊誌よんできたけど皇位継承1位は浩宮に確実に決定していて
第2位を愛子にするか秋篠宮にするかが問題になってる。
まず、おさらい。
日本で一番権力をもってるのは橋本久美子その次が橋本龍太郎(明治天皇のメイの
孫)
2番目に権力もってるのは皇后様でその次が正田巌。
3番目に権力もってるのは曽野綾子。
皇室にてらし合わせると橋本龍太郎の妾との間の娘和子の娘愛子が1番権力。
2番目の権力は今上陛下。
3番目の権力が皇太子様。(明治天皇の弟大室庄吉の玄孫)
政治家に当てはめると1番権力者がハシリュウ。(橋本派)→女帝改正派。
2番目がポスト小泉の麻生太郎(旧宮沢派)(今上陛下の実の父は三笠宮崇仁だから
麻生太郎の妹が寛仁殿下に嫁ぐ。
3番目が小泉、晋三の旧安倍派。→岸と昭和天皇の権力で裕仁のいと子の曾孫を浩宮
として皇室にねじ込むいわゆる右翼派。(明治天皇の子昭和天皇派)

そこで女帝にするかそのまま放置していずれ秋篠宮が天皇にゴールするか。
僕は後者のほうだと思う。小泉も愛子を女帝にしたくないから結果的に放置。→結果
的に血は水より濃しでアキヒトと美智子との間の子秋篠宮が次の次の天皇になるだろ
うし
眞子さま佳子さまも美智子様のまごである。

女帝にするように必死なのは橋本派が必死だからであと2年弱でハシリュウが引退し
て権力がなくなるから で
愛子を女帝にしようと必死になって女帝改正しようとしている。
しかし小泉もポスト小泉の麻生も女帝改正に消極的。
皇太子様がなくなられたら2050年ころ秋篠宮が天皇になるかも知れないしあきしのは
病弱だから早死にするかもしれない。
2050年頃は当然眞子も佳子も愛子も結婚してるから天皇家の後継者はゼロになる。

以下情報

「萩」へマンジュウつくりにいってくる→饅頭作るとは死体の山を築くという意味→
つまり萩へ人切りしに行くという意味でようは高杉晋作が挙兵した功山寺挙兵にさん
かしにいくという意味。

田布施町のタブー2005春


①大室寅之祐=東京新明治天皇の出自と近代皇室について2003
      
2003年2月14日作成

一、発端

明治天皇が奇兵隊に属する力士隊士大室寅之祐であるとの説を、鹿島昇氏が新国民社
から公刊し6年経つが、(裏切られた三人の天皇---明治維新の謎)一般人は知ら
ず、歴史に興味を持つものにとって、このことは実に計り知れない衝撃であった。2
chのスレに、南北朝問題に関する、情報がいくつか集まった。自信ありげな発信者
は少数に過ぎないが、基本的には鹿島説にたって大室明治天皇説を敷行していた。残
りの発言者は無知ないし、善意の第三者で大室説に対して、素朴な疑問をぶつけ、あ
るいは皇太子殿下に対して、感情的な悪声を投じていた。

 

情報は大室天皇説と北朝説に大別される。前者は、「明治天皇は大室家から出たのみ
ならず、皇太子殿下も今上陛下の子ではなく、大室近祐の息子徳川恒孝の子」である
と言うもので、後者は「今上陛下は東久邇宮稔彦の息子三笠宮崇仁の御子である。」
と明言するのであるが大室系を南朝と呼び(実は水戸斉昭の子である)中川宮朝彦系
を北朝と称することにおいては全員の見解は一致しているようで鹿島説が世に浸透し
共通の理解になっている事が伺えた。



これに橋本龍太郎の出自が加わった。すなわち、「龍太郎の父龍伍は橋本卯太郎と大
室ヨネの間の子である」との事。(橋本龍伍の戸籍) 大室ヨネは大室寅之祐の弟庄
吉の娘であるから、橋本龍太郎は明治天皇(従って今の皇室)と同じ家系と主張する
ことになる。論点は更に皇位継承問題に及んだ。



◆山口県田布施町の大室さん

橋本龍太郎氏の祖母大室ヨネ(米)(橋本龍伍の戸籍謄本より)の父大室庄吉の兄大
室寅之祐(東京明治天皇)についてお話します。

そもそも、田布施町のタブーについて(この事)(大室寅之祐について)は、田布施
町麻郷の古い人間なら500%知っている事実で、佐藤栄作、岸信介すらわかっていた
が、うちの爺さんが「大室家が南朝光良親王の末裔で500年以上続いて、しかも寅之
祐が大室家24代目なんて嘘だ!」と言ってた。始め意味が分からなかったが本質は、



1.寅之祐の大室家が本当に南朝光良親王から24代も続いているのか? 

2.本当に寅之祐の親は大室弥兵衛なのか? 

と言う事であった。その後、大室家(後の大室家)は1794年から始まり、頼山陽に
よって、大室家の家系図が整備された。文政時代に初代大室家当主が死去。だから、
大室寅之祐の代で、後大室家4代目に当たる。

さて、大室寅之祐が地家作蔵の息子で行方知れずになる1864年頃迄戸籍名大室寅吉
(通名(普段使う名前)は大室虎吉)(とらきち)である事も判った。芸者連れて
1867年10月下旬、田布施町麻郷に帰ってきて「虎吉改め、寅之祐が・・・」となる訳
である。寅之祐が芸者の格好して帰ってきた。(そう書かれた木簡が出てきた。)
(鹿島昇先生調べ)

大室近祐がワカルといってもせいぜい1863~1867年頃迄であろう。だから大室家が光
良親王(後醍醐天皇の玄孫)(1400~)から24代500年以上も継続してるとは嘘であ
る。(500年以上も前の話等分かる訳無い)

これを踏まえて本当の所は、苗字も無い海賊某の息子作蔵と興正寺基子(SUEKO)=
スヘ(1831年5月1日~1855年11月20日)が結婚した年は1846年5月頃でスヘ15歳の時
である。だから 1845年頃迄には父、興正寺昭顥(ショウコウ)坊(照景?)とスヘが
田布施町麻郷西円寺に京都浄土真宗興正派、興正寺から来てないといけない。(興正
寺昭顥坊は興正派門主一族)
作蔵(1824年?~1887年5月頃?)と結婚し、1年後、スヘ16歳の5月頃、長女(1847年4
月14日生まれ)を出産した。1850年1月10日(戸籍では庄吉の誕生日になっている)
に寅吉(普段使う通名は虎吉,後の大室寅之祐)を出産。この頃(1849年頃)作蔵が
西円寺の東隣の麻郷「地家」に家を建てる。だから「地家」の地名を苗字にした。
(「地家」とはそもそも村の中心地と言う意味)



1852年12月8日(戸籍では寅助の誕生日になっている)庄吉(通名は省吉)出産。
1854年2月29日に三男朝平出産。(俺の高祖父)

>>その後、1854年初頭(5月頃?)に作蔵とスヘが離婚。長男寅吉、次男庄吉をスヘが
引き取り、西円寺の実家へ戻る。 大谷(興正寺)昭顥(照景?)の家。(京都には
帰ってないであろう)



1854年下旬(10月?頃)独身の大室弥兵衛(41)とスヘ再婚。地家寅吉は大室寅吉
に、地家庄吉は大室庄吉となる。1年後、大室弥兵衛とスへ(24)の間に大室寅助
(1855年11月頃~1857年6月22日)が生まれたが直後、スヘが産後のひだち悪く肺結
核で死亡。(西円寺池で入水自殺か?大室近祐説?) 
その後、大室弥兵衛と文右衛門の娘ハナ(1815年12月5日生まれ 当時 40歳?)が再
婚したが寅助の方は2歳弱で病死。文政時代に初代大室家当主が死去してから4代目と
思われる大室寅助死去により大室家断絶。つまり後南朝大室家の血統は地家作蔵の血
統になった。

そこから先は、新国民社刊『裏切られた三人の天皇 ── 明治維新の謎』に書いてあ
る通りなので省略。 1867年4月には既に大室寅吉(寅之祐)は行方知れずとなったの
であろう。(1867年3月ごろ麻郷村の人間が手分けして探した)

◆行方知れずになってから(1866年7月以後の大室寅吉)

情報 1.

(大室寅介とは庄吉のことで、寅介の名前で奇兵隊に参加)

 京都の上賀茂神社って知っているでしょ。毎年9月9日に烏祭(からすまつり)って
のがあるのだけれどさ、このお祭りで奉納相撲が行われるのだけれど、この奉納相撲
の記録ってのが残っているんだ。(記録って言っても寛政4年以前は残っていない)

この記録には慶応2年(1866年)の奉納相撲の出場者の中に「村岡権七、名和小一
郎、天野才五、西沢半次・・・・」って続くんだけど、その中に、「大室寅介」とい
う名前があったぞい!

情報 2.

(大室虎助とは大室弥兵衛の弟?(分家)が萩に在住しててその息子のこと。 松蔭
ははじめ南朝光良親王の血を引くこの親子を玉(天皇)にしようとした。 庄吉も寅
吉(寅之祐)も連れ子で、南朝大室家の血統ではないから。)(虎助は京都明治天皇
睦仁と同じ年で新撰組に殺された)

新撰組が長州の不良力士達を殺害する事件があったのは慶応3年10月29日。沖田総司
が殺害した力士の中に大室虎助(16)の名前があった。

下鴨神社蔵の「神楽勧請録」の慶応3年の記録には、「大室虎助(16)(中略)等、
同年10月29日、新撰組ガ為二被害」とあり、新撰組側の記録にも「(慶応3年11月)
先日、長州の不逞力士5人を誅す、残党なお洛中に潜する無し」(『慶応洛中日記』
・『会藩新兵余話』・『新撰組遺事』等)とある。

その後、大室寅吉(寅之祐)は新撰組に斬り殺された、と言う事になってるそうだ。
(本当は虎助が殺されただけ。田中光顕が三浦天皇に語った萩生まれの玉とは虎助の
こと。庄吉も寅吉も田布施町麻郷生まれだから。なお寅吉は1866年1月時点で奇兵隊
の力士隊をとっくに卒業してたと言う。

 こんなのあったよ!

大室寅之祐の実の母、スヘの実家が興正寺だとしたら何か関連があるのかもしれな
い。(母の実家、興正寺を革命のアジトにしてたのかも知れないし、麻郷に徳川系柳
生の忍者跡があった様に、佐幕派が不良力士達を監視する為の施設が京都興正寺周辺
にあったかも?。 こう考えると正しく明治維新は革命だったと思えてくる。この辺
を調べない事には幕末の歴史、動きが分からなくなってしまう)

 不動堂

木津屋橋は堀川に架かった橋で七条通りの二筋南。この橋の東西の通りを木津屋橋通
りと言う。油小路は南北の通りで、この付近は現在の堀川通りの一筋東。木津屋橋通
り油小路の南に不動堂がある。現在の不動堂は油小路塩小路の南の小堂になっている
が、旧幕時代は境内の敷地も広く、有名な不動堂であった。

慶応元年(1865年)9月末、この不動堂村に新選組は京都の最後の屯所を置いた。推
定 3700坪と言う大名屋敷並の豪華な新築で、幹部は個室を持ち、30人程も入れる大
浴場もあったと言う。

 木津屋橋油小路

不動堂村屯所の筋向かいの興正寺の下屋敷に近藤勇は妾を置いていた。此処に慶応3
年(1867年)3月に新選組から離れた伊東甲子太郎を近藤が招く。計画された暗殺で
ある。同年11月18日、近藤勇、土方歳三、山崎烝、原田左之助らが集まり、酒宴とな
る。帰り道伊東が木津屋橋通りを東に謡曲を歌っていた所を、大石鉄次郎が槍で伊東
の喉を刺した。伊東は刺されながらも刀を振るい男を切り伏せる。しかし、深手を負
い、東の本光寺門前で倒れ絶命した。 伊東の死骸は七条油小路の辻に引きずられ置
き捨てられる。これを引き取ろうとして駆けつけた御陵衛士7人もまた新選組隊士40
人に囲まれ斬り合いになる。藤堂平助ら3人が斬殺される。藤堂は新選組の前身、試
衛館からの同志であったが、伊東について隊を離れた人物。この殉難を恨んだ衛士側
は、12月18日、伏見街道の墨染で鉄砲を用いて近藤に重傷を負わせた。

 情報 3.

(大室寅助とは行方知れずになってからの大室寅之祐(寅吉)のことで、スヘ(基
子)と大室弥兵衛の間の2歳弱で死んだ大室家の血統の寅助になりすましたわけ。)
(庄吉も寅吉も作蔵とスヘの間の子で連れ子だから。) 

寅吉が注目を浴びだすのは1863年7月頃から。高杉が奇兵隊を結成。伊藤博文が麻郷
の大室家に遊びに来たころで、七公卿落ちの時三条が大室家に立ち寄ったのもこのこ
ろ。だから吉田松蔭と寅吉の接点はなく、吉田松蔭の死後1863ころから寅吉が玉とし
て浮上してきた。 伊藤の玉が寅吉で慶喜の玉が水戸斉昭の子中川宮朝彦。

(情報)山口県萩市の萩八幡宮の「延命寺燈篭」には、「万治参年・・・大室寅助」
の名前が刻まれている。ただ、万治3年と言う年は本来存在しない。計算上は慶応3年
という事になるが。西円寺にも「延命寺石灯篭」あったで。

>>万治(慶応)3年は西暦1867年に該当。

万治3年は「慶喜に応じる」という意味にも取れるので、長州では慶応の前の年号で
ある「万治」を使用していた。延命寺(えんみょうじ)は天台宗東叡山寛永寺の末寺
だったので、慶応3年5月に倒幕派によって焼失。 ちなみに幕府が慶応の次に決めて
いた年号は「延寿」。出典は『後漢書』「王允伝」より。

そして、大室寅吉(通名虎吉)は1867年10月下旬、田布施町麻郷に帰ってくるのであ
る。それが、「大室虎吉改め大室寅之祐が芸者連れて麻郷に帰ってきて・・」 と書
かれた例の木簡が出てきた話に通じる。大室寅吉が大室寅助、、、寅之祐と名前を巧
みに変えたのは伊藤博文が林宇一や林利助や俊輔の様に名前を変えて変名を用いたの
と同じ事。 通史にある王政復古の大号令(1867年12月9日)とはもちろん京都での話
ではない。田布施町麻郷の高松八幡宮の話で今でも三条実美の七公卿が滞在したと言
われる石碑がひっそりと残っている。 午後の小御所会議もそうで、通史にある京都
御所での話ではない。

その後、寅之祐は再度上ラク(薩長軍を率いて)。 慶応4年1月3日、鳥羽・伏見の
戦いで勝利。1月8日慶喜が大阪城を明け渡す。旧暦1868年1月10日の早朝睦仁をご
しょから
追い出し、その後睦仁は比叡山方面の寺に亡命し維新後も僧としてそこで生き延び
た。その後1月10日その日のうちに大室寅之祐が御所に入る。御所の人事を一新し
(維新)
慶応4年1月15日大室寅之祐が明治天皇として即位する。そこからの明治天皇の伝記に
ついてはドナルド=キーン氏『明治天皇』上巻に詳しい。 つまり1868年旧暦1月15日
から
の明治天皇の伝記は通史のとおり。

1.天皇すり替えに関しての疑問

天皇(院)の存在自体知らない、あるいは存在は知っていても、現代の様にテレビが
ある訳では無いので顔は知らない、と言うのが庶民レベルなのかなと思いまして。だ
とすれば顔が変わっても、庶民には分からないのかな?と思った次第です。

2.解説

いやいや、実は、テレビが無い時代庶民は情報を得難かったと思うでしょう。それが
どうも違うみたいなのです。と言うのは、孝明天皇暗殺事件等はとっくのとうに京の
庶民の間に噂が広まっていた訳ですし、古くは菅原道真の時代(平安時代)等も、一
般庶民の間に道真の怨霊(天神様)の噂があった位ですから。 案外庶民と言うもの
はばかじゃないのですよ。鹿島曻氏の著書に、京都御所内だから天皇を大室寅之祐に
すり替えた所でばれない等と書いてありましたが、正しくは、鳥羽・伏見の戦で薩長
軍が勝ったからこそ、明治元(1868)年1月15日に、大室寅之祐が京都御所に「明治
天皇」として迎え入れられた訳です。

それ迄は薩摩藩邸に待機していた訳ですが、仮に京都御所内ですり替えられたとした
ら、公家や女官が何百人もいる訳で、全員の口を塞ぐ等と言う事は無理な話ですし、
孝明天皇暗殺の噂と同様に、瞬く間に天皇すり替えの噂が京の庶民に広まるでしょ
う。ですから、田中光顕が三浦天皇に語った通り、明治天皇はすり替えられたのでは
無く、京都御所に維新の時迎え入れられたと言う方が正しい。慶応3年(1867)年7
月に京都明治天皇(睦仁親王)の方は暗殺されていましたから、半年間、日本に天皇
が存在しなかった事(空位)になります。(多分半年間、中川宮と慶喜が京都御所を
仕切っていたと思われる。)

慶喜は、斉昭の息子中川宮朝彦(自分の兄)を天皇にするつもりで自分は雄藩連合の
長、総理大臣になるつもりだった。だから慶喜が勝をつかって勝が坂本と相談し、坂
本が慶喜をたすけるために木戸と西郷を引き合わせ薩長同盟をむすばせた。つまり薩
摩党と長州党と慶喜党の3党連立で慶喜内閣を作ろうとしたが長州がこれに反対。 
木戸も西郷も寅之祐に権力もたせたいが為、慶喜と中川宮双方に消えてもらう必要が
あった。慶喜の背後にフランス軍がついてたが薩長の背後のイギリスのパークスが、
慶喜と背後のフランスをつぶすために「開国を認める天皇(寅之祐)の元で薩長藩閥
政府を作り慶喜を排除せよ」と命令。薩長にイギリスが加担し戊辰戦争(鳥羽伏見)
勃発。慶喜と中川宮は敗れ去った。上野の戦いでは家達と玉の東武皇帝を打ち破り、
寅之祐が天下をとったわけ。

即位前(睦仁親王時代)

即位当初の少年京都明治天皇(写真

  http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html

睦仁親王(京都明治天皇)は幼少の砌(みぎり)、裕福であったので種痘を受けた。
故に疱瘡(天然痘)には罹っておらず、顔面に「あばた」は無かった。睦仁親王(京
都明治天皇)は、右利きだった。

御所の女官達の中での温室育ちであった睦仁親王は、充分に教育され帝王学を学んで
いた訳であり、当然躾(しつけ)も厳しかった。故に、左利きになる訳が無く、ひ弱
で喩(たと)えは悪いが女癖も悪くは無く(育ちが良かったので)、右利きであっ
た。基本的に「佐幕攘夷」(親徳川=公武合体派) 先帝・孝明天皇の政策「攘夷」
を継承。

この場合、「神風」でも吹かない限り、「攘夷」の実行は不可能。(英・仏と言った
欧米列強とまともに戦った所で、日本が負ける事は端から分かり切っている。つま
り、天皇=現人神(あらひとがみ)が不可能な事を命令した事になり、開国倒幕派
(薩長)にしてみれば、天皇をすり替える必要に迫られた。

元治元年(1864)年7月の「禁門の変」の際、砲声と女官達の悲鳴に驚いた睦仁親王
(当時13才)は、「失神」した。睦仁親王は幼少より「虚弱体質」で、毎年風邪をこ
じらせていた。又、16才になっても、宮中で女官と一緒に「遊戯」にいそしんでい
た。睦仁親王は16才になっても、書は「金釘流」、つまりは「下手」であった。又、
政務にも無関心であった。即位前の睦仁親王に、「乗馬」の記録は残っていない。つ
まり、馬には乗れなかった。

即位後(明治天皇時代)1868年1月15日からの明治天皇

◇明治維新後の大室寅之祐の東京明治天皇(写真) 

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji2.html

明治天皇(大室寅之祐)は、家が貧しく野生児だったので、2歳の時、痘瘡(天然
痘)に罹った。その結果、口の周りに「あばた」が残った。その為、明治天皇は自身
の写真を撮られる事を好まず、わざわざ、キヨソーネに描かせた「肖像画」を写真に
撮らせて「御真影」とした。又、「あばた」を隠す為に、髭(ひげ)を生やされた。
明治天皇(大室寅之祐)は、左利きだった。

左利きになったのは、寅之祐が4歳の時、母親が離婚した為で(『大室寅之祐(明治
天皇)の出自と近代皇室について』を参照の事)、母親が息子寅之祐にかまってあげ
られる余裕が無かった結果として、左利きとなった。又、維新後の天皇は良い言葉で
言えば艶福家であった。

基本は「倒幕開国」(薩長派=目的実現の為には、「天皇暗殺」をも厭(いと)わな
い自称「勤皇派」) 孝明天皇の政策「攘夷」を180度転換。

この場合、天皇=現人神の「御聖断」(攘夷放棄と開国承諾)により、日本の開国・
近代化が実現。国策としての殖産興業・富国強兵によって、アジアで唯一、列強の地
位を獲得。

明治天皇は威風堂々、馬上から近衛兵を閲兵し、自ら大声で号令した。体重24貫(約
90Kg)の巨漢で、側近の者と相撲をし、相手を投げ飛ばしたと言う。明治天皇は、書
が「達筆」であった。又、学問にも熱心であり、教養豊かであった明治天皇は、鳥羽
伏見の戦の際、馬上豊かに閲兵した。

大室寅之祐の東京明治天皇(写真) 

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu/ishin.html

(1866年1月。当時大室寅吉。長崎にて。前の列、左から7番目の白い服を着た方。中
央のフルベッキ(外国人)の真下の左の白い服着た方が東京明治天皇。フルベッキの
真上のやや左が西郷隆盛)

◆その他 興正寺基子(SUEKO)=スヘの家柄に関する情報

興正寺(本願寺興正寺派)は浄土真宗では東西本願寺に次ぐ大宗派。

Q.スヘの父、大谷(興正寺)昭顥(ショウコウ)←この人はやはり高松松平家の血
統ですか??

A.(徳川家康→水戸頼房→高松松平頼重→女子(興正寺由常室)・・・興正寺昭顥ー
スヘ)

Q.と言う事は今の天皇家は浄土真宗興正寺派(西本願寺)の血統ですか??

A.と言う事になりますな。結論から言えば。

Q.そう言えば昭和天皇の母方の九条家も確か大谷家の血縁でしたっけ??

A.そうです。

Q.大谷(興正寺)昭顥←この人がスヘを連れて田布施の西円寺に来て親子で住み着
いたという説は?

A.正式には同じ浄土真宗本願寺派の西円寺に赴任した。

Q.高松松平頼修と言う人はいませんが頼寿(貴族院議長)の間違いですか??

A.間違いではありません。

Q.元々、大室家と高松松平の繋がりは何処から(何時から)来てるんだろう?

A.これは高松松平頼修公の出自と関係しますが、頼修公の祖先は高松頼常公(光圀
の唯一の子)であり、公式には二人の男子がありましたが、どちらも夭折していま
す。 (恐らく謀殺)これは水戸家の家督争いが関係しているますが、高松頼常公に
は死後に生まれた男子は長州藩に匿われ、育てられたためです。なお万千代君の母親
が長州藩の出身です。  

 (興正寺家) 毛利元就 ─ 女 ─ 宍戸元秀 ─ 女(小早川秀秋正室・後に興正寺
准玄室)─ 准秀昭超・・・・・・スヘ

新撰組の屯所は、西本願寺内に置かれたが、これも西本願寺が、「勤王方」と見られ
ていた事に対する嫌がらせと見張りや牽制の意味が有ったのだろう。

幕末の動乱期、慶応3年既に徳川慶喜が大政奉還を表明しているにも関わらず、幕府
に対して、「家康公以来の恩義を受けて、今日あるので末寺の門徒、僧侶による軍隊
を編成して、幕軍の指揮下に入りたい」等の申し出を行っている。が、慶応4年の戊
辰戦争の勃発で時代の潮流を感じたのか突如、厳如は妻和子の兄に当たる勤皇派の山
階宮晃親王を介して「徳川家の義は軽く、天恩の義は重く門末挙げて、勤皇に尽く
す」と言う一札を朝廷に差し出し、以後態度を急変、御所の警護や討幕運動の資金調
達に全国を走り回ったのだった。

佐幕から、勤王へ路線を変更する事で教団の組織維持を図った訳だがこの事は明治天
皇のおかあちゃんが興正寺基子(スヘ)で浄土真宗東西本願寺に影響があった人だ
が、何か路線の変更にその繋がりから影響が有ったのだろうか??

これでやっと謎が解けたね。

前に寅之祐は西円寺で生まれたとか言ってたよね。しかし、何故、作蔵の家では無く
て、西円寺なのか疑問だった。昔はお産の場所に寺等を借りる事も有ったのかと思っ
たがそう言う事は無かったらしいし。

つまり、西円寺は作蔵妻スヘの実家だった訳だ。実家で出産するのは当たり前だもん
ね。一代で財を成した作蔵が西円寺の東隣に家を建てた。そこで西円寺の寺娘のスヘ
と知り合い、恋愛して結婚した。そして、生まれたのが寅之祐、庄吉、X平だった。
スヘの父親は大谷家の血筋で、何かの理由で西円寺へ下向した。こう言う経過なのだ
ね。

◆作蔵について(人生何があるか分からない)

作蔵は22の年の21の時、スヘ(何と15歳)と結婚。寅吉(後の大室寅之祐)はスヘ18
歳、作蔵25歳の時の子。だから作蔵とスヘが夫婦仲悪かったから結果的に離婚出来、
41歳の独身、大室弥兵衛と再婚出来、寅吉が大室家の南朝神話を利用して京都明治
天皇とすり替わって東京明治天皇になる事が出来た。

孝明天皇と中山慶子の間の本当の明治天皇は流産した。だから京都明治天皇もすり替
えでしかも虚弱体質で岩倉が使った医師によって毒殺された。

一方、スヘも弥兵衛との間に一子儲けた。(スヘ24歳の時)これが本当の大室寅助だ
が虚弱体質で1歳数ヶ月で早死。それより少し前、スヘも病死。この時、寅之祐は5~
6歳だった。後世、明治天皇の女癖が悪かったのは母親の早死による女性の愛情不足
からだろう。40歳と言う異例の高齢オンナフミウエモンの娘ハナと大室弥兵衛が再婚
したから寅之祐はこの継母(ままはは)に育てられた。 さて、作蔵の職業を祖父か
ら聞いたのだが、作蔵はパワフルで海の男みたい。廻船業で明治20年、死ぬ迄その職
で有ったらしいのだが、多い時で15人位の部下を持ち2隻の船を使って、屋根瓦を屋
根にくっ付ける時に使う粘着剤の役を果たす特殊な泥(上手く日本語で説明出来なく
てスマソ)を田布施町から愛媛迄運んで(時には大坂湾迄運んだ)利益を得る廻船業
者と言う仕事で営んでいたみたい。1849年頃? その利益で既に25歳と言う若さで西円
寺の東隣斜め上チョイの所に家をぶっ建てた。 当然、刺青していて、体格は明治天
皇よりごつくて光格天皇の様に背も高かった。1849年以前は違う所に住んでいたみた
い。だから1849年以前の我が家の足取りは不明。(何処の寺の過去帳調べたらよいの
やら) 「地家」と言う所に家を建て間も無く寅吉(大室寅之祐 1850年1月10日)が
生まれた。だから地名を自分の家の苗字にしたみたい。「地家」の名前の由来は「村
の中心」と言う意味。西円寺から麻郷小(明治5年創立)に行く途中ゼンリンの住宅
地図に小さな文字で「集会所」と書かれた所があってそこが昔の麻郷村役場だった。
明治20年に作蔵の死と共に家業は百姓一筋になった。(作蔵の位牌は明治20年柳原愛
子が作蔵の葬式の時、東京に持って帰った)葬儀は西円寺。だから、作蔵の位牌も無
いし、お寺の過去帳にも作蔵の記載も無い。明治20年柳原愛子が田布施に来た(「鹿
島昇」先生)目的は作蔵の葬式の為に西円寺に来る為。帰り女官の一人が大室天皇の
秘密を漏らした事に愛子が激怒。刀で某女官を斬り殺した。 京都に帰り立ち寄り
(興正寺)、スヘの位牌も柳原愛子が東京に持ち帰ったが戦災で焼失。こちらは位牌
は無いが過去帳に記載有り。興正寺の過去帳によるとスヘの法諡は「謙徳院殿叡仁基
成大姉居士」。最高の法諡らしいのだ。(「鹿島」先生調べ)

大室寅之祐の弟、庄吉の孫、大室近祐は祖父庄吉から聞いた話として、 「わしが1
2,3歳のころ、伊藤俊輔は毎日のように家に来て兄(寅之祐)を連れだし、石城山
に登っていた」 という。 石城山の練兵場では常時四〇〇人近い兵が銃陣訓練を重ね
ており、時には近くの皇座山で鹿狩りなども行われていたから、寅之祐の士気を鼓舞
して乗馬や剣術を教えたり、同年輩の隊員と角力をとって鍛えるにも最適の道場で
あった。 このときの寅之祐との深い関係が、維新後の伊藤博文の権力を作ったので
ある。

孝明天皇暗殺の真犯人が、初代総理大臣になった伊藤博文であったのは真実である。
そして、この暗殺は南朝革命のために睦仁親王暗殺、将軍家茂暗殺とリンクしてい
た。 彼が、人斬り名人と認められたのは17才頃であるが、大物を斬殺する度に名
前を変え、幼名は利助であったが、利介、利輔、俊輔などと名前を変えてきている。
大室寅之祐(明治天皇)は、長州奇兵隊の伊藤博文の力士隊の隊士であったから、伊
藤の子分同様であった。

大室寅之祐と、殺害された睦仁親王(孝明天皇の実子)は性格も能力も全く異なり、
東京遷都のとき京都で仕えていた女官を全員解雇したのも、口封じの意味があったの
だろう。

さて、「できもしない佐幕攘夷」を主張し続けて政局を混乱させていた北朝系(足利
義満の後裔)の孝明天皇が、「倒幕南朝革命」を指向した薩長同盟と岩倉具視らの演
出によって暗殺されたのは、慶応2年(1866年)12月25日洛中下京区岩滝町
の堀河紀子邸であった。 同月中旬、英国軍艦に便乗してひそかに上京し、薩摩屋敷
をアジトにしていた長州力士隊の忍者集団は、品川弥二郎らの手引きで堀河邸の警備
につき、痘瘡の治った孝明帝が愛妾紀子のもとへ行幸してくるチャンスを待った。
やがて25日の明け方、便所の床下に隠れていた隊長の伊藤俊輔(博文)が、自ら愛
用の忍者刀を天皇に突き刺し殺害した後、隊士と共に悠々と堀河邸を立ち去り、待機
させておいた英国艦に乗って引き揚げた。 (便所は中二階式になっており、落下し
てくる排泄物を大きな箱で非人が受け止め洗浄する仕組みになっていた。当時、非人
の代わりに伊藤博文が潜んでいたわけだ。) こうして孝明帝が無くなると、翌3年
正月9日、孝明帝の子の睦仁親王が新天皇として踐祚した(16才)。 ところが親
王は、以前記したように以下のような資質の持ち主で、

>大室寅之祐(明治天皇)と睦仁親王は正反対の性格と体格で誰でも一目でその違い
がわかった。 >寅之祐は勇壮で体が大きく、乗馬、相撲が得意だった(もと、力士隊
にいたから当然か)。 >睦仁親王は女のように華奢で病気がちで、乗馬ができなかっ
た。 >寅之祐は達筆だったが、睦仁親王は字が下手だった。 >睦仁親王は幼時、種痘
をしたはずなのに、寅之祐の口の周りには5,6個の痘痕があった。 性格だけは父
の孝明帝に似て強情で「幕府擁護」を主張したから、岩倉らはついに邪魔者として片
づけることに決めて、7月10日猿に引っ掻き傷をつくらせた後毒殺した。 遺体は
母方の中山家に運び出して秘かに葬ったという。 官僚と政治家の情報独占がこのよ
うな事件を可能にしたと言えよう。

当時、公用で出張する伊藤博文のために英国艦隊のキング提督が軍艦乗り込みの許可
証を与えていた、といわれている。 藩政府も「林宇一(伊藤の変名)を英国艦隊乗
組仰付らる」という辞令を発して支度金として300両を与えていた。 実際、英国
艦一隻が常時馬関港(下関)に停泊しており、伊藤たちを運んでいたという。

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急死した民間研究者のメモを一部紹介します。彼は思想的には右のようです、ご心配
なく。

*孝明天皇毒殺説が定説

南條範夫母方の祖父・土肥十一郎(号 春耕で閑院宮家の侍医)の実見談では、
「慶応2年十二月五日夜半、御所で白羽二重の寝衣を敷き布団の上に横たえられた貴
人の死体を検死。 脇腹を鋭く尖った刃物で深く刺されていた。恐らく凶器は槍・
・。斜め下から上に向かって突き上げられた 格好。その四○歳位の貴人を「お上」
と断言。従って槍による刺殺説。

*陸仁暗殺の伝承 大室寅之祐(南朝末裔で長州力士隊と入れ替え長州藩の忍者部
隊)、指示者は伊藤(三 ケ月不明の時期あり)。木戸も忍者。岩倉、三条、中山忠
能、西郷、大久保も同意。 *暗殺の時期 大室寅之祐上京は、慶応三年三月。六月
二七日松平閑そう(鍋島斉正)京に入る。明治四年の条に 「四月大阪行在所にあ
り、同十七日天皇東本願寺に幸す。木戸(桂小五郎)天顔に」。  『防長回天
史』。鍋島(情報係は江藤新平だけでなく宮中にもホットライン)により教導され仕
上がる。

*大室について  田布施町麻郷が生家。田布施町の大室近祐氏(平成八年田布施町
麻郷で永眠)は次のように 語った。「祖父は明治天皇によく似ていた。わしの家は
南朝の末裔で、明治維新の時、七郷がしばらく滞在 していた。祖父の兄寅之祐は、
後京都に行って明治天皇になった」。 私自身はあまり関心がありませんが、議論の
材料として紹介します。

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大室家の人々の篤くべき証言  

大室近祐翁が逝ったあと、大室家には二人の媼が残された。一人は麻郷奥の前田 家
から嫁いで近祐翁と苦楽を共にしてきた静江(大正12年生)夫人と、いま一人 は
近祐翁の妹ヒサ子(明治44年11月18日生)さんで当年87才、故あってず っ
と大室家で暮らしてきた方である。 この二人の媼が大室家と近祐翁にまつわる思い
出をぼつりぼつりと話してくれる のだが、その中にはなんとも驚くような証言が含
まれているのでそのあらましを解 説する。

実際、大室弥兵衛の長男は、大室寅之祐で(戸籍では寅吉) あって、文久三年八、
九月、七卿が大室家に滞在したとき、三條実美らはこの寅 之祐を掌中の珠のように
可愛がり慈しんでいたという。 そのため二才年下の次男庄吉は、別府村の高城家に
預けられて別居す ることになった。この庄吉が実家の大室家に帰ったのは、慶応二
年一〇月、伊藤 俊輔が寅之祐を萩の杉家(松陰の実家)へ連れ出した後のことで
あって、翌三年 四月、寅之祐が「玉」として上洛したとさ、庄吉は一四才であっ
た。  これがもし戸簿謄本に記されている通りの生まれ年としたら、兄寅之祐の行
方 について、郡の大庄屋時政藤五郎ら宰判所役人の取調べを受け、しぶとくしらを
きり通した時、一七才ということになるから一人前の青年扱いされて、とても命 は
なかったであろう。だが実際には一四才であったから、「少年だから命は助け よ
う」ということになって実家に帰ることを許されたのである。

一、慶応三年一〇月下旬、睦仁に変身した寅之祐天皇が女性に化けて、芸者風に
装った女官たちを引連れ、西郷らと共に麻郷に帰ってきた。その中に睦仁の皇后 に
なったはずの一條勝子もいて、大室家に滞在中いつも寅之祐の側にべったりで あっ
たという。 この勝子は寿栄姫ともいったが、性慾も独占慾も強くて、 寅之祐の行く
所へは何処までもついていった。しかし彼女の子宮には欠陥があっ たのか、性力旺
盛な明治天皇といくらセックスしても子が出来なかった。そのた め異常に嫉妬心を
燃やし始めた勝子は、多くの側室に子供が生れると直ちにくの 一忍者を使い、幼児
の鼻口にぬれ紙を当て次々に殺していったという。 天皇の側室は、二八人居たとい
われ、その間に皇子、皇女は一九人いたが多く は二才までの間に死亡している。 明
治一二年、天皇の子を身寵った(実は大隈重信の胤)権典侍柳原愛子は、勝子に知ら
れることを恐れ て、病といつわって実家の柳原光愛邸に帰り、八月三一日無事男児
を出産した。 この皇子がのちに大正天皇になった嘉仁親王である。

一、明治二〇年ごろ、柳原愛子が立派な駕籠に乗り、お供を数百人も引連れ美々 し
く行列を組んで田布施にやって来た。愛子は大室庄吉を呼び出して石城山へ登 る道
案内をさせた。 

◆大室庄吉の子供たち 長男 儀作  (明治19年11月23日生) 長女 モト  (明治
4年 1月 8日生)次女 タカ  (明治 8年11月24日生)三女 ツネ  (明治11年11
月 1日生)四女 ヨネ  (明治14年10月24日生)五女 ツユ  (明治17年 6月28日
生) 次男 音吉  (明治22年 9月26日生)

一、昭和五八年(一九八三)、東京から数人のお供を連れた某宮様(高松宮か) が
大室家にやってきた。この人は髭をはやした立派な紳士であったが、近祐翁と 懇談
しているうちに次のような打明け話をしたという。 今上陛下(昭和天皇・裕仁) 
の子とされている明仁親王 (一九三三年 生)は、実は陛下のお子ではない。明仁
親王が五、六才のころ血液検査をして調べ たところ、天皇裕仁の子ではないという
ことが判明した。おそらく崇仁親王(三笠 宮)のお子であろう。もう一人の正仁親
王はどうも徳川の血統のようだ。だから、「陛下はご自 分が死ぬるまで譲位はしな
いご意志である」と語った。 その時たまたま近祐翁の次男明美(いま改名して弘樹
・1948生)の長男貴雄 (当時幼稚園児)が庭先で活発に遊んでいるのを、横目
でじ-と見ていた宮様は、 突然、 「この児を天皇家に養子に貰えないだろうか」と
言いだした。  近祐翁が、「どうしてか」と聞くと、「明仁は生来愚鈍でわやだか
ら見ちゃあお れん、宮中でもどうにかしてくれという意見が多くてこまっているの
だ。この児 (貴雄)のような良い子を連れて帰れば、陛下もさぞかしお喜びになる
だろう。私 が責任をもって継嗣にするから、是非東京に連れて帰らせてくれ。実は
このような こともあろうとかと、陛下の内諾も得て来ているのだ。是非是非頼む」
と平身低頭した。  なるほど、その頃の貴雄ははた目にもとても綺麗で利溌な良い
子であったから、 宮様が慾しがったのも無理はない。また明治天皇(大室寅之祐)
の弟・大室庄吉の 玄孫を天皇家に入れても血統上おかしくはない。筋の通った話で
ある。 そこで近祐翁は、別室に家族一同を集めて慎重に協議した。みんなでいろい
ろ話し合った 末に、「天皇家に入ると家族団らんの楽しい生活は期待出来なくなる
だろうし、 毎度の食事も一々検査せねばならないような恐ろしい所へ、可愛いい孫
をやる訳に はいかん」 という結論になって、この話を断わることにした。  だ
が、この話を断わるについて、大室家の人々には次のような部いつらい思い出 が
あったのである。  近祐翁には三人の弟と三人の妹がいたが、そのうち将来を期待
された二人の弟と 一人の妹が、天皇家のために戦争の犠牲になつている。それも単
なる戦死ではなく て、明らかに意図的に殺されたとしか思えないような死に方で
あった。

明治天皇 = 大室寅之祐 説はトンデモで、鹿島氏のデマと言われますが この本の殆
どが何かからの引用なんです。鹿島氏もここ迄集めたと感心します。 鹿島氏の都合
のよい内容だけを引用している可能性ありますが、引用部分に限れば はでっち上げ
ではない様です。 自分は鹿島氏の信者ではありませんが、執念ですね。

鹿島本の引用要約

・将軍家茂・孝明天皇暗殺?の謎  毒殺説 → ねずまさし/「孝明天皇は病死か
毒殺か」  刺殺説 → 南条範夫/「孝明天皇暗殺の傍証」(閑院宮家の侍医の証
言)  他 アーネスト・サトウ

・睦仁親王の暗殺/南朝後醍醐天皇の末裔、大室寅之祐と入替えの謎  → 三浦芳
聖/「徹底的に日本歴史の誤謬を糾す」(三浦芳聖と田中光顕との対話)  → 松
重正/「大室家の人々の驚くべき証言」  → etc...

・明治天皇の変身ぶりについての謎  → 中山忠能日記  → 蜷川新/「維新史に
これだけ裏がある」(討幕の密勅とは逆の親書を三条家で発見)  → etc...

・纂輯御系図の謎(さんしゅうおんけいず・北朝のルーツに当る貞成親王を「父不
祥」 と記載。有栖川を総裁に任命。明治10年元老院発行)  → 長島銀蔵/「皇統
正史」

・明治天皇の奥さんが何故に昭憲皇太后?  → 原敬/「原敬日記」

個人的に次ぎの項目を加筆すると鹿島本の続編ができそう。 大いにもり上げましょ
う。

1)有栖川宮家最後の嗣子、栽仁親王急死で司法解剖の謎 2)有栖川宮熾仁親王の
息子、出口王仁三郎・大本教弾圧の謎3)旧官弊中社に南朝の皇子、旧別格弊官社に
南朝の功臣が多く祀られている謎 4)明治神宮の神社紋の謎(明治神宮の祭祀はだ
れ??) 5)踊る宗教と神道天行居など多くの宗教本部が石城山麓に集まってる謎
(226事件前に石城山の神社に集まった将軍たちはだれ?他はだれ?)

その他情報

俺の爺ちゃんが天皇の医療団の一人だったのだが、当時の天皇(つまり明治天皇ね)
から色々と品を頂戴したのだけど、その中に「長 ●●●家系譜」(●は塗り潰され
て分からない)と言うのが有るんだ。透けて見ると「大」の文字が最初にくるので、
こちらで話題の大室家の系譜かも知れない。どうせ嘘だと言われるでしょうけど・・

◆長州大室家系譜?

Q. 大室と先生の弱点は大室寅之祐の父、大室弥兵衛から南朝光良親王迄の大室家の
家系図が欠落してる点で、もし宜しければ詳しく教えて下さい。

A. 私には価値がよく分からない。本物かどうかも分からない。そもそも、天皇から
拝領と言う事すら眉唾もの。ただ、天皇からの拝領品の中に一緒に収まっていただけ
なんです。他にも山県有朋やら伊藤博文やらの手紙も幾つか有りましたけど、こちら
は公共の機関に譲渡しています。 系譜は江戸時代初期詳しく言えば初代「麻郷某」
死去年(1616年)からみたいです。ただ、文政年間(大室)から幕末にかけては故意
かどうか削除されています。一応、幕末の記録帳に、「長 大室虎(ママ)之祐」と
書かれている様です。昔の字体だから、よく分からないです。こう言った史料は何処
で見て貰えば良いの? (初代の頃は「大室」では無い違う苗字になってます。)

やはり、旧字体ですから何と書かれているのやら。ただ、南朝云々と言う話があるそ
うですが、初めの由来書?(「由緒書」と大文字で書かれています)には、

南朝後○○天皇ノ●●●(中略)忠臣北畠師親息女●●●(中略)ト光良親王ハ敵地
に進ム。(以西ハ北朝ナリ)消息知レズ。系譜ハ元和弐年ノ始祖「麻郷(後ニ●●ト
改メ)」ヨリトシ、後裔ノタメニコレヲ残ス。(○○はここだけ旧字体なので分かり
ません。●は削除されています)

この事?ですか???(「鹿島昇」先生の本より)

この時、96代後醍醐天皇が北畠師親の娘源親子に生ませた王子・征東将軍宗良親王の
曽孫、光良親王も城内に居たが、師成親王と共に乗船して周防へ下向した。船内には
熊毛郡の住人で余田村(柳井市・・・・

系図はその後も続いていますが、うーんどうなんでしょう。書いてあると申せば書い
てある様ですし、無いと申せば無い共。兎に角、読み辛いのです。しかし、「長 大
室虎之祐」 の隣には、「省(ママ)吉」(国賊ノ名ヲ改メ) とあります。こちら
も横枠にごちゃごちゃと書いてありますが、読めません。

先程、父に聞きましたが、正確には天皇からの拝領物では無く、曾祖父が医師を辞し
た時、伊藤博文(?)から長年の功績に報いて色々な品々を頂戴したそうで、それは
天皇の御意志でもあったそうです。それと系図については、曾祖父がさる高官から命
じられて作ったそうです。それが不要の長物となったので、返却されたと言う話で
す。その時に「処分する様に」と言われたそうですが、折角の記録で有るからと一緒
に締まっておいたそうです。この事は先程聞いて初めて知りました。

私は日本史に疎い方でして、皆様より関心の度が無いのです。お話から歴史の裏の部
分を証明する資料なのかも知れませんが、私には蚊帳の外の話しでして。叔父からの
話でも、「昔は天朝様にお仕えしており色々な物を下賜して下さった」 と言った程
度の話しか聞いておりません。資料についても色々と考えてみますね。それと横枠に
朱字で、 「故アッテ抹・・・(中略)●●ニ京●●●●●家ノ●子トナ・・・」と
やたら長く文章が書いてあります。(●は読めないだけで削除文字ではありません)
追加(年号)ニ京闕生名倭人家ノ養子トナル>>作蔵の妻が長男虎吉、次男省吉、幼い
二人の子を引き連れて、作蔵と離婚。後、作蔵の元妻が大室弥兵衛と再婚。つまり寅
之祐は「地家」家から大室家(京闕生名倭人家)の養子となった訳。書きたいのは
山々なんですが、私には読めません。

系譜の最後に、

「明治三十二年六月 改  ●●●●●」(●は自分の曾祖父の名前なので削除しま
す)と書いて有るのは読めますが、どうやら表紙など一部を改めらしく、内容の殆ど
は昔の字体です。素人の自分には読めません。大室と言う姓ですが、他にも記してあ
るのかも知れませんが、幕末の大室さん以外は分かりません。正直見てみないとわか
りませんよ。滲んでいますので。ただ、「虎(ママ)之祐」と言うのは間違い無く書
いてあります。他にも朱字で書かれている箇所がありますが、そちらの方が詳細に書
いてあります。後、この後も大室家系図は続いています。此処から派生して色々な系
譜となっているみたいです。一応、自分が受け継ぐ事になっていますが、まだ親父の
物なので公開については相談してみますね。  

1400年、南朝系の皇子光良親王が大内弘茂に連れられて麻郷にきた時、周坊はこんな
状況だった。

大内義弘(弘茂の兄)は幕府の依頼により南北朝の和解を周旋した。義弘が南北朝の
間を取り持ったのは、彼が南朝の徒党と近い関係に有るのを見込まれたからである。
南北朝末期や室町時代の南党は土地に固着しない賊党的乃至海賊的稼業を行って渡世
する外無くなり、南大和の天険に出入りしながら広い連絡を各地と保った様でる。当
時、内海の海賊も漸く大内氏の統御に入りつつあり、明徳の乱(1391年)後は、紀伊
・和泉の賊党も同様の関係に入って来たのでる。南北朝の合一も、大内氏の豪強も、
その不可解と見られる反幕的画策も、共にこうした反逆児的な南党と結びついた因縁
を無視出来ないと思われる。(福尾猛市郎『大内義隆』日本歴史学会編)

尾張家の「玉」は桂宮家分家の広幡氏。水戸藩の「玉」は有栖川宮。長州藩の「玉」
は山階宮。島津藩の「玉」は中川宮なれど、朝廷、幕府、さらに明治政府も翻弄した
「悪玉」。紀州藩の「玉」は北朝では伏見宮家。南朝では浅利氏。徳川幕府の「玉」
が日光宮こと東武皇帝

高松八幡宮で王政復古の大号令が発せられたと言う鹿島説は本当の事。(昔、爺さん
に聞いた事有る)それと何処だか忘れたが島津久光の軍が進駐した場所も有った。西
郷隆盛や三条も一時宿泊し、滞在した跡が麻郷には今も残っている。

>>法号の記載のあったお寺は西円寺なの? それとも違う寺かなあ?(先生に質問)

現在は京都興正寺(浄土真宗興正派)に有り。

本名「興正寺基子」(こうしょうじ-すえこ)。始めは末子、季子、後に基子。興正
寺(浄土真宗興正寺派)門主一族の出身。位牌は不明で無ければ「謙徳院殿叡仁基成
大姉居士」等と最高級の名前は贈られ無い筈。位牌は明治20年に東京に持ち去られ戦
災で消失? 但し興正寺には過去帳は残っており、スヘ様の存在と法諡が判明。

大室庄吉(近祐氏の祖父)が奇兵隊所属の力士隊に大室寅介と言う名前で参加してお
り、明治維新後、奇兵隊の残党として下関宰相に投獄されていた事が判明。(『萩東
照宮文書』)

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調査結果

寅之祐の弟庄吉の長男儀作 次男音吉 儀作の長男近祐  近祐の長男照明 次男弘
樹 弘樹の長男貴雄。近祐の息子徳川(大室)恒孝、庄吉の娘ヨネ、ヨネと橋本卯太
郎の間の子橋本龍伍、ヨネの胤違いの息子和田恵三郎、和田恵三郎の娘迪子。

以上 田布施町戸籍課 

 (天皇家)光格天皇の弟 仁孝天皇(真実は光格天皇と仁孝天皇は兄弟ですら無
い)

光格天皇の息子孝明天皇 慶子が流産した明治天皇1 豆腐屋の息子替え玉明治天皇2
大室寅之祐の明治天皇3 大隈重信の息子大正天皇 、昭和天皇 秩父宮(二人とも
母は貞明皇后、父は大室寅之祐明治天皇) 高松宮(母、松下トヨノ、父は大室寅之
祐明治天皇)東久邇宮稔彦の息子三笠宮崇仁。(母は貞明皇后 )

三笠宮寛仁  桂宮 は三笠宮崇仁の息子。(北朝)(ただし高円宮の実父は細川護
貞)

(大室は南朝)

以上 田布施町戸籍課 

情報を整理すると

高松宮が昭和58年8月に田布施町に居た事が証明されれば、大室=明治天皇の疑惑は
一気に高まると断定して良い訳だな。そして、その真偽を知っている者は、当時の宮
内庁職員、田布施町役場職員、及び政府首脳。此処迄、情報は狭められた訳だ。

橋本の家の系図誰か教えて 

大室寅之祐の弟、大室庄吉の女(むすめ)大室よねが、サッポロビール常務 橋本卯
太郎の家に居候して女中になる。此処からが、始まり始まり。 既に卯太郎には本妻
 真都(マツ)の間に4人の男の子と1人の娘が居た。明治39年、卯太郎が大室ヨネに
お手付きして出来た子。それが橋本竜伍。(5男だから竜伍。竜伍の下に1人の弟と1
人の妹あり) 竜伍は東大を主席で卒業した後、吉田内閣で大臣3回経験。龍伍の長
男が橋本龍太郎。

話を整理してみる。(ややこしいので)

1、明治天皇と松下豊子の間の子が高松宮。

2、高松宮の双子の妹(山本静山尼)の方はやはり父明治天皇、母松下豊子。(だか
ら山本静山尼は高松宮に似てる)静山尼は戸籍では高松宮より10歳年下になっている
がこれはウソで宮と同じ年。尼は5歳にして入山し、8歳の時得度、23歳で第十世門
跡。しかしこれはウソで高松宮日記より、15歳まで、宮中で、「やすこ」という名前
で生活していたのである。 だから宮の日記から、この書き方から山本静山尼の存在
をずっと以前から知っていた。5歳で離ればなれになった妹のことなんてほとんど記
憶にないから。つまり尼は15歳にして入山し、18歳の時得度、33歳で第十世門跡。79
歳ではなく89歳でこの世を去った。(もちろん奈良県で)

3、さて、話は変わって今度は三笠宮崇仁の話。、(三笠宮の父は東久邇宮。)との
一致により)テイメイ皇后と東久邇宮の間の子が三笠宮崇仁。で双子の妹の晴子さん
も父母同様。今現在も京都に在住。三笠宮晴子さんは別名、糸子とよばれていた。
(京都で)

4、大正天皇(リベラル)の母は柳原愛子だが父は大隈重信(リベラリストおよび反
薩長の)。原敬が暗殺され大隈が病気にかかり大正11年には死亡するが大正10年に昭
和天皇が摂政として即位。このころから(大正10年)大正天皇の権力が弱まり、昭和
天皇の権力が増大した事からも考慮。

高松宮日記ですがここに出てくる尼さんは三笠宮の双子の妹ではなくて高松宮の双子
の妹と考えて間違いない。自分の日記に北朝の(まったく血筋の違うアカの他人)人
のことが書かれるわけがないから。同時に大正天皇に関してですが、原武史の大正天
皇と言う本を読めばわかりますが、昭和天皇、秩父宮、高松宮に関しては明治天皇を
中心とする勢力が書いた書によく出てくるんだが、三笠宮と大正天皇はほとんど出て
こない。三笠宮がキゲンが悪くなって怒ったのはこのことでようは血統が違うから。
大正天皇も明治天皇の子ではない。子供の頃も成人してからも大正天皇のところへ明
治天皇がほとんどあっていない。自分の父(孝明天皇?・)を殺した岩倉が風邪をこ
じらせ自宅で寝込んでしまったとき明治天皇がわざわざお見舞いに行くため、岩倉家
にわざわざやってきたほどなのに。

>>明治10年頃の宮中の勢力分布が未詳のため大正天皇の実の父に関しては保留。

中丸の真実のともしびを消してはならないを読めばわかりますが、当時、大隈重信派
と岩倉派が政治をにぶんしていたそうだ。大隈派の方が力があって岩倉派の堀川辰吉
郎は宮廷を追われてしまった。そう、堀川とは岩倉のぎりの妹、堀川紀子の「堀川」
か???。だから堀川辰吉郎は岩倉と追放された千種任子につかえた女官「千草」
(43歳で死去。)の間の子で千種任子(88歳で死去)の方はなるほど、宮廷を追われ
ていなくて69歳までつかえていた。

>>だけど千種(千草)が二人い たとはすぐには信じられないのであるが。

このあたりが中丸の証言と食い違いを見せるあたりで千種任子(88歳で死去)は、辞
官し、移り住んだ先は京都の堀川御所ではなく東京新宿区砂土原町なわけです。そこ
で88歳まで生きた。千種任子のどこを調べても「堀川」御所なんて出てこないわけで
す。だから岩倉と堀川御所に追放された「千草任子」(43歳で死去。)の間の子が堀
川辰吉郎といえる。

三笠宮晴子は今も生きていて御所で、いとこと呼ばれていた。山本尼の方はやすこと
呼ばれた。

一部紹介します

2ちゃんねる 日本史板「大室寅之祐が明治天皇になったと言える勇気を持とう(復
活版){このスレ開いて>>1にあるURLをクリックすると880レス読めます。}」と
「大室寅之祐が明治天皇になったと言える2」を読んで見て下さい。内容は衝撃的
で、橋本龍太郎の祖母の父、大室庄吉の兄大室寅之祐が明治天皇になったと言うもの
で、2000年8月の雅子様懐妊の真相は実は橋本龍太郎の長男橋本竜の長男を雅子様、
皇太子さまの間の子としてこっそり養子にしようとして失敗した・・・等凄い事が書
かれておりマスコミタブーも有り衝撃的でした。一度目を通して見て下さい。

>> じゃあ、明治天皇は130年以上も前の話だから、一度余所に置いといて、2000年8
月の雅子様ご懐妊、騒動は何だよ。 TBSの報道番組(ザ スクープ)で産婦人科医が
出て来て、「妊娠4週目でレントゲン検査して胎児の姿が確認出来ず。(公式な宮内
庁発表) と言う事は、有り得ない。雅子様は妊娠しておられ無い!!」と泣きそうな
顔で話していたのを、テレビで観たぞ!! 一説には、橋本龍太郎の長男、龍の長男を
雅子様、皇太子様の間の子と言う事にし、株価上昇に利用しようとしたが、雅子様が
余りにも嫌がられるので失敗したと言われている。この情報の出所は、何と宮内庁で
は無く、首相官邸と言うでは無いか!!! 当時、小渕は「2000年8月に太陽が、二つ昇
る」と言った事は、有名だけど一つは景気の回復。もう一つは、??? 小渕が橋本と共
犯で、雅子様ご懐妊騒動仕掛けたと伝えられるが???? もしこれが事実なら、大変な
事だぞ!! 橋本は大室と遠い親戚だから、佐藤栄作に自民党公認にして貰って26歳の
若さで初当出来たと言うじゃないか。

>>大体、2000年8月の御懐妊騒動って何だ?

>>そりゃそうだろう。雅子様もまさか自分が妊娠もしていないのに、2000年8月に自
分の子供が生まれて来るなんて夢にも思っていなかったのだから。(小渕発言後、自
分が2000年8月に子供を出産する予定になっていた事を知って、雅子様は部屋に引き
籠もり成され、皇太子さま以外の人間とは口もきかなくなって、人間不信になられた
一連の騒動の事。)

◆何故、今、皇室は大室でなければいけないのか?

熊沢家は今の当主が確か娘2人で実質断絶に近い状況にあるし、今の皇室見ると、常
磐会を中心とする、島津家および久邇宮家と大室寅之祐東京明治天皇を中心とする南
朝大室天皇家(寅之祐の弟庄吉の子 儀作の子近祐の子徳川恒孝の子皇太子さま)と
2つある。此等に自民党の権力が複雑に絡み合っているからさ。

政府自民党の支持基盤は3つあって1、郵便局、2靖国、3医者なんだけど、3の医療会
の票田を作ったのが武見だったり厚生族の橋本龍伍だった。(大室寅之祐東京明治天
皇の弟大室庄吉の娘大室ヨネと橋本卯太郎の間の子が橋本龍伍) 2の靖国及び神社
本庁のボス(つまり自民の票田)は村上正邦だったが、歴代総理が靖国万歳なのは明
治天皇を奉る事で靖国の票田を自民党が押さえると言う意味合いも有る。(つまり、
遺族会の票田)自民党に右翼が多いのはその為で、突き詰めたら大室明治天皇の血統
が130年以上続いているから、熊沢家を奉じても何の得にも金にも成らん。だから北
朝の孝明天皇に触れる事は出来ても南朝の明治天皇の歴史に触れ難い。明治天皇の息
子が昭和天皇でなくなってからまだ14年しか経っていないから明治天皇の歴史はそれ
程古くないから共言える。

さて、橋本龍太郎の頂上作戦の話をしなければいけない。先、書いた通り橋本龍太郎
の父龍伍は大室寅之祐明治天皇の姪、大室ヨネの息子であるから本質的には南朝なの
かも知れないが、大室ヨネが女性で有るから橋本天皇(半分南朝、半分北朝)とす
る。で、今、日本を裏で実質的に動かしている5悪は、1.曽根綾子 2.正田巌(日銀
を影で動かしている男美智子様の兄、(弟?) 3.美智子皇后 4.橋本龍太郎 5.橋
本久美子だが、今上陛下はまだ14年しか経っていないので権力はそれ程無い。広飲み
屋にも権力はそれ程持ってない。議員歴39年の橋竜こそバリバリ権力持っていて、常
に雅子様の御懐妊騒動を引き起こした主犯がこいつ。 (続き) 一度目は皇太子さま
が結婚なされて3年目の1996年、丁度、橋本内閣の時、自分の孫。(橋本龍太郎の2女
厚子の子)を養子にしようとして失敗。この時はマスコミに公にはならなかった。そ
れより前に自分の娘長女の寛子を皇太子さまと結婚させたかったが、その野望は失敗
した。(皇太子さまも寛子もお互い反対したから)

二度目は2000年8月に雅子様が子供を生む予定で流産したが、(小渕内閣の時)この
時は長男龍の長男(2000年8月生まれ)を皇太子さまの養子にしようとして失敗。雅
子様が公の場に出てこなかった。

三度目は先ず、橋龍の娘隠し子の和子が妊娠した。これが橋本と小泉の総裁選挙の少
し前位の時。これに合わせる様に皇居に人工受精の装置が運び込まれ、南朝大室広飲
み屋(小泉・森派・安倍・岸派を中心とする自民党右派(右翼)のタマ)のおたねを
某女に人工受精させ、今度は北朝今上陛下(宮沢派・河野派・吉田・麻生太郎─三笠
宮(信子)秋篠宮・今上北朝派)のおたねを使い某女に人工受精。で、広飲み屋の胤
で人工受精した女は先ず、女の子を孕む。だ・か・ら小泉を中心とする右派(右翼)
から皇室典範の女帝改正論が急に勢いずく。しかし、この女が流産したから右翼から
女帝論が急速にトーンダウンする。

北朝今上派としたら今上が那須に行って東京に帰って来た所で、男子が誕生すると言
う計画で、麻生太郎が「皇位は男子に限る」と言ったのはその事。イギリスのマスコ
ミに今上の胤使って某女に人工受精して男の子を孕んだとの情報が漏れる。

一方、橋本の娘和子は女の子を妊娠してこちらが先行した。12月の最後迄、女の子か
男の子かともめていたのは北朝三笠宮天皇今上一派(麻生)と橋本天皇の頂上対決で
マスコミも男の子と言う事で準備してた。12月に入って少し長引いて最後に橋龍の権
力によって和子の娘を愛子とした。広飲み屋は最後、部屋のドアを怒って蹴って出て
行かれたと言う。最後に小泉が「女帝は慎重に検討する」と言い出し、みんなが唖然
とする。つまり後ろ向きな発言に変化。

佐藤・竹下・橋本派が敬宮愛子・岸・安倍・森・小泉自民党右派(ウヨ)が南朝広飲
み屋支持、吉田麻生三笠宮秋篠宮・明仁・宮沢・河野麻生派が今上陛下派、と考えた
ら分かり易い。小泉・橋本・麻生の3大決戦に皇室も巻き込まれていたと言う事。そ
して戦いはまだ続いて、今度こそこの3大勢力が、雅子様に男子を産むと言う事で凌
ぎを削り、女帝改正には皆が消極的であると言う。2~3年後か?に最終決着が付く筈
だ。

年次 事績

天保8(1837)年

9月29日 徳川慶喜(よしのぶ:幼名は七郎麿)、水戸(徳川)斉昭(なりあき)の七
男として誕生。

弘化4(1847)年

9月 徳川慶喜、第12代将軍・徳川家慶(いえよし)の命により御三卿の一つ、一橋家
を相続。

嘉永3(1850)年

1月10日 寅吉(後の大室寅之祐=東京明治天皇)誕生。

嘉永6(1853)年

6月3日 黒船(ペリー艦隊)来航。 6月22日 将軍・家慶薨去。徳川家定、第13代将軍
に就任。

安政5(1858)年

この頃、宮崎鉄雄の養父・敬治誕生。 4月23日、 彦根藩主・井伊掃部頭直弼(かも
んのかみ-なおすけ)、大老職に就任。慶福(よしとみ)を井伊が推して将軍継嗣と
し、将軍継嗣を争った慶喜は江戸登城停止処分を受ける。 7月16日 将軍・家定薨
去。安政大獄が開始され、慶福は家茂と改名し、第14代将軍に就任。

万延元(1860)年

3月3日 桜田門外の変(井伊大老、暗殺される)

文久2(1862)年

7月1日 一橋慶喜、朝命により将軍後見職に就任。 7月6日 長州藩、長井雅楽(う
た)の航海遠略策を放棄し、尊攘(尊皇攘夷)に鞍替え。慶喜をあてにして倒幕路線
を進み出す。

文久3(1863)年

4月20日 幕府、朝廷に対して、5月10日を攘夷期限と上奏。 5月10日 長州藩、この日
より馬関(下関)において、米・仏・蘭艦を砲撃開始(攘夷実行)。 7月2日 薩摩
藩、薩英戦争に敗北し、開国に路線転換。 8月18日 薩摩・会津両藩、幕府と連合し
て公武合体派クーデターを起こし、長州系尊壊派を追放。

元治元(1864)年

1月 将軍・家茂が老中と共に薩摩藩の開国論に反対し、上洛して壊夷を主張。慶喜も
変節、これに賛成、中川宮邸において、島津久光(薩摩藩)・松平慶永(福井藩)・
伊達宗城(仙台藩)と口論し、参線会議が解体。慶喜、将軍後見職を辞して禁裏御守
衛総督を拝命。(しかし、慶喜は慶永と共に密かに将軍家茂の暗殺を計画。この後、
薩摩藩も孝明天皇を暗殺しなければ、開港不可能と考え、横浜鎖港を通告された英国
もこれに同意したと思われる) 。7月19日 蛤(はまぐり)御門の変 。7月24日 第1
次長州征伐(征長の役)。 8月5日 四国(列強)艦隊、馬関を砲撃。

慶応元(1865)年

5月10日 英国公使パークス、木戸・井上と会談。 8月 伊藤博文・大室寅之祐(当時
寅吉)等が長崎のフルベッキの下へ行く。(翌慶応2(1866)年1月か2月頃、記念写
真を全員で撮る?) 。

慶応2(1866)年

1月12日 薩長同盟成立(敗北者同志の同盟)。 6月頃 寅之祐(当時は大室寅吉)、
行方不明となる。(田布施町麻郷の村人が手分けして探索) 。 6月7日 第2次長州征
伐開始。慶永はしきりに反対するも、慶喜はこの戦いで大室寅之祐に関する支配権を
求めた(鹿島曻説)。 6月17日 英国公使パークス、島津久光・西郷吉之助(隆盛)
等と会談。 6月20日 将軍家茂、第二次長州征伐で大阪に到着後、朝廷差向けの医師
と称する者に毒殺される。(大坂城内に引き込み役がいた筈であるが、犯人は慶喜・
慶永らしい)。 12月25日 孝明天皇、堀河紀子邸において、伊藤博文に刺殺される。
岩倉が便所の箱番を買収しておいた。(刺殺では無く、毒殺されたとの説もあり)

慶応3(1867)年

1月9日 睦仁親王、践祚(京都明治天皇)。幕府、大量の軍艦・輸送船を購入。横浜
で歩兵・砲兵・騎兵の訓練を開始(約5000人)。幕府に金がなくロッシュ公使を通じ
て仏国から生糸輸出権を抵当として借款を受ける。将軍慶喜、内政・外交全般にわ
たって、ロッシュ公使の助言受ける(通訳は渡辺歌女)。 3月頃大室寅之祐(当時寅
助)が『萩』から京都へ上洛。 6月16日 島津久光、山県・鳥尾に対して、西郷を萩
に行かせると約束する。 6月23日 大室寅之祐(当時、寅助)の教育係・鍋島直正が
入京し、寅助を半年余教導。 6月24日 仏国公使ロッシュ、小笠原長行と会談。 6月
25日 英国公使パークス、小笠原と会談。 7月 使番、地蔵菩薩・鬼子母神の尊像を預
かる。この仏像は京都睦仁の遺体であろう。同日、中山慶子5ヶ日の宿下がり(『明
治天皇紀』) 。(7月8日、幼帝・睦仁親王(京都明治天皇)、手に軽傷を負い、伊
良子光順らの侍医が膏薬を貼る。これが毒入りで京都明治天皇は毒殺される)。 10
月13日 薩長両藩に倒幕の密勅が下る。将軍慶喜、朝廷に対して大政奉還を上奏。坂
本竜馬・中岡慎太郎、西郷等に暗殺される。王政復古の声と共に全国的デモ「エエ
ジャナイカ」始まる。その人数は500万人と言われる。 10月下旬、 寅吉が芸者連れ
て田布施の麻郷に帰ってくる。(寅吉を寅之祐と改名。)通史の王政復古の大号令と
は、田布施町麻郷の井神(地家の隣の)の高松八幡宮での事で、三条実美(さねと
み)も同席。 (午後の小御所会議も同様)

慶応4(1868)年

明治元(1868)年 1月13日 鳥羽・伏見で幕軍2万と薩長軍4千の兵が戦うも、薩長軍
の「錦旗」により(もちろん幕軍の方も錦の御旗たっていたが)、幕府側は戦意を喪
失し惨敗。

 1月15日、正式に大室寅之祐が「明治天皇」として御所に向かい入れられる。(そ
れまでは、上洛した時京都薩摩藩邸で寅之祐待機)三条等、勤皇派の公卿等も京都御
所に復帰) 。 「奇兵隊の天皇、来る正月上中旬内に御元服」と言う手紙を引用
(『明治天皇紀』)。『中山日記』に「寄(奇)兵隊の天皇」とある。睦仁親王(京
都明治天皇)は既に暗殺され、大室寅之祐(東京明治天皇)が正式に明治天皇となっ
た。 4月1日 アーネスト=サトウ、「睦仁(大室寅之祐明治天皇)」に会う。(京都
・(大室寅之祐)睦仁東本願寺にあり。誠に御強壮(『木戸日記』)

(慶応4(1868)年)

 大政元(1868)年 6月15日 輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)、諱
(いみな:本名)を陸運(むつとき)と改め、奥羽越列藩同盟(北日本政府)の「東
武皇帝」に即位。

 慶応4年6月15日を以て、「大政」元年と改元。 8月に慶喜と中川宮(1863年にす
りかわった水戸斉昭の息子の中川宮朝彦)が大室寅之祐明治天皇新政府に対しクーデ
ターを計画したが失敗。


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<追跡!真相ゼロtoZ>
~ゼロの意味する原点の意味の原因を探り
 定量的、科学的にZの行き着く先の真相に迫る~

5 信長を殺せ!天皇家と家康と金融マフィア蜷川の爆弾テロ

2012/9/28 信長を殺せ!天皇家と家康と金融マフィア蜷川の爆弾テロ
追跡 真相 ゼロtoZ 織田信長 殺せ 天皇家 徳川家康 金融マフィア 蜷川 爆弾テロ


赤穂浪士の吉良殺しの説明補足付き






“八切止夫論”への糸口
 “銀本位制と金本位制との争い”という発想↓
【◎】 八切止夫氏の「本能寺の変」論を鳥瞰する(草稿から)


http://www010.upp.so-net.ne.jp/ya-fuian/13_framepage.html


八切止夫氏の「本能寺の変」論とは何だろうか? 一般に、その主著『信長殺し、光秀ではない』というタイトル名から、漠然と〝持ち前の反発精神から、単に定説を弄んでいるに過ぎないのだろう〟と思われているのではなかろうか。
 ところで、八切氏は「本能寺の変」について何冊もの本を出している。通常の作家であれば、一、二冊書けばそれでもう十分、となるのであろうが、八切氏は違った。氏は自分自身を納得させようとするかのように、何度も懲りずにトライした。そうであるがゆえに、氏の論述内容は 錯綜し、多くの読者は八切氏の所説を一点に絞り込めぬため、その論点構造を捉え損ねているのではなかろうか。
 『歴史読本<完全検証 信長襲殺>』(1994.07)を見ると、氏の「本能寺の変」論は〝家康犯人説〟に分類されている。また、鈴木眞哉・藤本正行共著『信長は謀略で殺されたのか』(2006.02)でも〝八切止夫氏が真犯人としたのも家康で、齋藤内蔵助に依頼して信長を殺させたとしている〟と八切説を総括している。
 この項目は本来は、この『ノート』が扱う範囲を超えているけれど、八切氏の「本能寺の変」論を総体的に論述される方が現れそうにないので、ここに一項を設け、鳥瞰的に述べさせてもらいます。導入として次の一文を引用します。
【テキスト】『徳川家康は二人いた』(1970.10)
この物語は、単なる読物ではないからそうすらすらとはゆかない。ここでひと息いれていただきたい。かつて私の書いた『信長殺し、光秀ではない』は自分のみた目から、これまでの史料といわれたもののでたらめさをつき、絶対に光秀ではないことを解明したものだったが、続の『謀殺』は春日局と江与の方の対立をエリザベス女王とメアリ・スチュアート女王との対決において信長殺しを説こうとしたものである。『信長殺し、秀吉か』では信長の弟の有楽の立場から、織田一門はあくまで秀吉こそ本能寺の変の黒幕ではないかとみていたのを書いた。だからすぐ続けて、この『信長殺し、家康か』〔『徳川家康は二人いた』の当初のタイトルであったらしい〕でしめくくりをつけねばならなかったが、これを書くと従来の徳川家康像が一変してしまうので、書き出してから二年経過してしまい、途中明智光秀の立場で、『正本織田信長』をエンタテーメントとして、これまでの総ざらえのように判りやすいものを書いた。
八切氏の主著『信長殺し、光秀ではない』は〝信長殺しは光秀ではない〟ことを論証づけるものであって〝では、誰が信長を殺したのか〟については論じられていない。ただ一箇所、ケネディー暗殺事件を述べている箇所で〝誰が家康なのかは、州警察か連邦検察しか判っていないのだろうが・・〟という字句がそれと判らぬように忍び込まされているだけである。たしかに、八切氏は〝信長殺しの真犯人は、徳川家康である〟と書いた。けれども、これは低次(認識)レベルでの叙述であって、八切氏の本当の狙いはそれではない。「本能寺の変」勃発の本質は【銀本位制と金本位制の争いである】というのが八切氏の積極的な主張であった。このことは幾つもの本で述べられているにもかかわらず、一般読者も〝八切論〟論者もこれを捉え損ねている。
 以下、極めて煩雑になるので、八切氏が「本能寺の変」について、どのように述べていったのかを年譜的に整理してみたい。
「反骨」(『話の特集』1967.06。2ページの文章)
 春日局の権勢の一端を示しつつ、その姻戚関係を略述する。具体的には、春日局とその父(齋藤内蔵助)、内蔵助の母(蜷川道齋の妹)、蜷川一族の本家としての角倉家である。この姻戚関係が何を意味するかはここでは明らかにされていない。仄めかされているだけである。八切氏の秘めた狙いはここにあるのだが、論者たちは一向に気づかないらしい。

『信長殺し、光秀ではない』(1967.08)
 信長殺しに係わりのある諸実体として以下の存在が考察の対象にされる。
(1)御所の女御 (2)宮廷勢力 (3)信長の妻である奇蝶 (4)家康と齋藤内蔵助の連係プレイ (5)イエズス会(オルガンチーノ)。
そしてこれらの諸実体について次のように述べられる。
これらが共同謀議をするわけではないが、結果的にはそうなってしまい、信長殺しの直接の実行兵力は、齋藤内蔵助の指揮する丹波亀山衆。内訳は、丹波船津桑田の細川隊(指揮者は加賀山隼人正)、福知山の杉原隊(指揮者は小野木縫殿助)、亀山内藤党(指揮者は木村弥一右衛門)と認定される。
この本の中では、信長殺しの下手人として、可能性のある人物(実体)を列挙したのであって、いわば「本能寺の変」考察の〝土台作り〟となっている。だからこの本の中では、その当時の客観的な諸事象が記述され、〝疑念性のある諸実体〟が列挙されているだけなのである。

『信長殺しは、秀吉か』(1967.12)
 先に引用した文にあるように、この本では、
信長の弟の有楽の立場から、織田一門はあくまで秀吉こそ本能寺の変の黒幕ではないかとみていた
ことが述べられる。つまり、この本に盛り込まれている内容は、有楽斎が四十年の余りもかけて調べ上げ、心血を注いで書き上げたもの、という設定になっている。最後のほうで有楽斎の死が述べられ、次のように締めくくられる。

・・・正伝院如庵居士。と名を改めた有楽の骨壷は、えい(妻)の壺と一緒に、塔頭の墓地へ改めて埋葬された。
 京都所司代は板倉勝重から、その伜の重宗の代になっていた。だが、かねて先代からの申次ぎでもあったのか、有楽の死が伝わると、すぐさま所司代役人がきて、有楽の残していった書き綴りの文書は一切押収していった。そして直ちに早馬によって、江戸城へ、そのまま厳封したままで送り届けられた。
 徳川家康が死んで五年目になっていた。二代将軍秀忠は、眼を暗く光らせ、声を吃らせ気味に、
 ・・・なに、なんとかいてあるぞ。
と、気になるらしく、せかして革文筥をあけさせた。ひったくるように腕をのばして、有楽の書き残していった綴りを掴みとった。が、ぱらぱらと、めくったきりで、
 ・・・信長殺しは、秀吉か・・・か。これはいい。すぐさま権現様(徳川家康)ご霊前にお供え申し、直ちに火中に投じてしまえ。といい、ふふっと、異様な笑いを響かせた。
 ・・・つまり織田有楽が、四十年の余りもかけて調べあげ、心血を注いだものも、そのときの徳川家からみれば、一笑にしか値しなかったようである。
『謀殺<続、信長殺し、光秀ではない>』(1968.06)
 この本は、おそらく『信長殺し、光秀ではない』の中で、〝〔この春日局については〕<正説・徳川夫人>という本で解明するつもりである〟と予告された本であろう。先の引用文にあるように、
春日局と江与の方の対立をエリザベス女王とメアリ・スチュアート女王との対決において信長殺しを説こうとしたものである。

『正本織田信長』(1968.11)
 先の引用文にあるように、エンタテーメントとして、これまでの総ざらえのように判りやすいものとして書かれた。

「稲葉佐渡守」(『戦国宿六列伝』収録、1969.09)
 おそらく、この作品の中で初めて八切氏の狙いが披瀝されたのではないかと思う。初出掲載誌紙が判らないのでなんともいえないが、この本が発行される数ヶ月前に『日本経済新聞』あたりに掲載されたものであろう。
次のように八切氏の「本能寺の変」論の核心部分が述べられている。

室町御所はなやかりしころ、今の大蔵大臣の仕事を世襲でもつ者に、「蜷川」という家があった。その蜷川大和守道齋の妹が、美濃の名家(土岐の家老の名門)の滅びたのを幸いに齋藤姓を名乗るものに嫁した。
 この長男が内蔵助。蜷川一族には京の銀を一手に握るという角倉がいたから、信長が京へ進出する時には重宝がられ、その金融方をした。しかし、信長の勢力が伸び、金ぐりが楽になると、齋藤内蔵助は軽く扱われ、金融がへたな明智光秀へ、軍さ目付けに廻されていた。ところが上方はもともと銀本位制なのを、信長は金本位制に通貨の切り替えをし一本だてにしようとした。
そこで切り替えられて銀の値打ちが下落したら大損をする吉田神道や角倉一族が、内蔵助に軍資金を出し、これに家康や秀吉、そして細川忠斎らが加担して、「六月二日の本能寺クーデター」を敢行させた。しかし秀吉が天下を取ると、天正大判小判は作ったが、これは貨幣としては強判流通させず、勲章代わりに諸大名に配るにとどめた。

『徳川家康は二人いた』(1970.10)
 先の引用文に〝すぐ続けてこの『信長殺し、家康か』でしめくくりをつけねばならなかったが・・〟とあるように、当初のタイトルは『信長殺し、家康か』であったらしい。しかし、家康の生い立ちから書き始め、村岡素一郎の『史疑徳川家康』に沿った内容になっている。肝心の“本能寺の変”は埒外になっている。本来、この本は〝本能寺の変究明の書〟の系列には属さない。ただしこれは私の主観的判断であって、八切氏にあっては〝信長殺し〟論の枢要に属する。この本の要点を単純化して図式的に記すと次のようになる。
 徳川家康は松平元康になりすまし、信長に従属する形で従っていた。
→ところが本能寺の変の起る直前、この秘密(徳川家康と松平元康は別人)が信長の知るところとなった。
→天正十年五月、信長は上洛するや〝一左右次第ご出馬〟と触れ回っていた。
→家康は〝一左右〔八切氏はこの語を「一掃」と解釈された〕されるのは自分であろう〟と驚愕した(〝成りすまし〟が発覚したと直観した)。
→慌てた家康はこの絶体絶命のピンチを乗り切ろうと齋藤内蔵助(蜷川=角倉一族)らと共同謀議を謀る決断をした。蜷川・角倉氏側からの働きかけもあった。
 
この〝事態=発覚〟が八切氏の〝信長殺し〟論の中で大きなモメントとして位置づけられる。私が〝この本は本能寺の変究明の書の系列には属さない〟と位置づけるのは、こうしたプロット展開を信(う)け入れることが出来ないからです。

「信長殺しの犯人は家康」(『日本裏がえ史』に収録された節文、1971.07)
 この本は『歴史読本』に連載された作品を時系列に並べた本である。判明する限りでは、ほとんどが『歴史読本』(1966.05~1967.08)に連載されたものだが、ここで紹介しようとしている肝心の「信長殺しの犯人は家康」の節文が『歴史読本』に見当たらず、初出誌が判らない。あらたに書き下ろされた可能性もあるのでとりあえずこの場所に置いた。
 この節文がどういう趣向(論点)の叙述なのかは
小見出し【<本能寺の変 ><光秀にはアリバイ> <夫殺しの悪女> <家康と松平元康は同一人か>】
から想像して頂きたい。<夫殺しの悪女>とは信長の内室である奇蝶(齋藤氏)のこと。<家康と松平元康は同一人か>という小見出しがあることから判るように、上記の『徳川家康は二人いた』(1970.10)を踏まえた論述になっている。

◎『織田信長殺人事件』(1972.12)
 これまで、示唆的に述べられてきた諸実体の具体的な諸相が叙述されている。『信長殺し、光秀ではない』で犯人の可能性ありとして数え上げられた諸実体について、もう一歩踏み込んで描かれた作品といえる。諸実体として、齋藤内蔵助、徳川家康、細川幽斎、その他。

『若き日の明智光秀』(1973.07)
 「本能寺の変」論の総括として次のように語っている。
蜷川一族の中の角倉了意が、大坂城攻略の際の功によって、角倉船とよぶ朱印船を一手に握って、安く入手した金を海外で高価に売って、貿易独占したのは知られているけど、信長殺しの真因たるや、実は銀本位制と金本位制との争いだったことは、これまで書くべきかどうか迷って未発表にしていたのだが、この<若き日の明智光秀>の末尾をかりて、はっきりさせておきたいと思う。
 だからもし、京在住の篤学者で、蜷川、角倉、吉田の家系を調べようとする方は、日本にもロスチャイルド家にも匹敵する大財閥があったことをよく研究してほしいものである。
光秀にしても、やはり(北条早雲や斎藤道三のような)変革の意思は有ったのだろう。でなければ第十五代将軍足利義昭の猶子になってまで、あわれ何日間だけの征夷大将軍になどなりはしなかったろう。が、光秀には、斎藤道三や北条早雲のごとき組織票もなく、これといった地盤がなかった。唯、光秀としては、「天皇制護持」という旗印だけで世直しを意企したにすぎないのである。が当時は、そうした権威よりも、足利体制が作りだした銀本位貨幣制度の動揺期だった。

(上の文の中に〝未発表にしていた〟と書かれているが、捉えかたの趣旨は既に作品「稲葉佐渡守」の中で示唆されていた)。

『八切日本外史』(1975.04)
この本の中の「銀の為にはなんでもやる」の節は次の叙述から始まる。
「これまでの銀本位制が金に取り代ったら、蜷川一族は破産するしかない」と親族会議。
「なんとかせな、わやくちゃでおす」となり、蜷川財閥の総裁である道齋は、妹の子で北国攻めの武勇で鳴り響いていた、美濃三人衆の稲葉一族の姪を嫁にしている齋藤内蔵助をよび、
・・・主君信長へ弓をひくのやで気いすすまんは判るが、一族の死活問題でおす」と説得した。惜しみなく軍資銀をだし、かねて銀のクツワをかませてある細川幽斎らを引き合わせた。
以下、八切氏が心に描く〝真実の像〟が腹蔵なく語られる。先に引用した『若き日の明智光秀』の示唆的文章をもう一歩掘り下げた叙述となっている。ある意味で、極めて図式的な叙述になっているので、判りやすいといえる。八切氏の「本能寺の変」論の核心が述べられている。

(ここに引用した節文の初出は「日本列島東西金銀対決」(『歴史読本<特集=東西対決の日本史>』1974.07)である)。

『信長殺し、家康』(1976.05)
先の『徳川家康は二人いた』と重なり合う部分の多い作品である。純粋な「変」論の系統には属さない。理由は『徳川家康は二人いた』と同じ。
以上、年譜的に鳥瞰してみた。八切氏は当初から「本能寺の変」勃発の真因を〝銀本位制と金本位制との争い〟と捉えていた。この観点から『信長殺し、光秀ではない』は書下された。読者はこのことに留意しなければならない。このことに気付けば、同書(講談社版)の232ページに引用されている「蜷川家古文書」が単なる引用でないことが判ると思う。ここに八切氏の秘められたネライが埋め込まれている。

八切氏の認識構造を描くと次のようになる。先頭に(従来の「本能寺の変」にまつわる諸言説を超克したところの)【銀本位制と金本位制との争い】が据えられる。ここから、八切氏の「本能寺の変」論が流出する。

「本能寺の変」勃発の真因は〝銀本位制と金本位制との争いである〟(結論)。
その実体として蜷川・角倉一族(銀本位制護持派)があり、対立するところの織田信長(金本位制への転換を意図する変革派)が措定される。
信長の〝金本位制移行への策動〟を阻止するために、蜷川・角倉一族は縁者である齋藤内蔵助に白羽の矢を立てる。
彼等は齋藤内蔵助だけでなく、徳川家康、細川幽斎らにも働きかける。
天正十年六月二日、『信長殺し、光秀ではない』で列挙された諸実体が期せずして共同謀議の様相を帯して、「本能寺の変」が勃発した。

八切氏の「本能寺の変」論はこのような認識構造をなしている。つまり、『信長殺し、光秀ではない』、『信長殺しは秀吉か』、『謀殺』で論じられているのは、以上、五つの(認識)レベル(階層構造)のうちの一番最後の第五層にあたる、ということを押さえておかなければならない。八切氏の「変」論への批判・解体作業はここから始まる。
 <1,2,3>の論点構造を視野に入れず、〝八切は信長殺しの真犯人を徳川家康と考えた〟と要約しても、およそ無意味なのである。
 では、どこから〝銀本位制と金本位制との争い〟などという発想が出てきたのか? その認識の根拠は二つある。一つは「蜷川家古文書」。もう一つは戦前の中国国民政府による幣制改革への視点である。
 それともう一つ、これは憶測になるが岩生成一氏の『鎖国』(中央公論社、日本の歴史<14>、1966。現在は中公文庫)に教えられたものがあるだろう、ということ(→岩生成一氏の『鎖国』)。
◎ 「本能寺の変」に興味のある方は一度、訪問してみてください。

→“本能寺の変”=“検地反対一揆”説 「本能寺・妙覺寺襲撃の謎」
→小林芳雄様のホームページ      「資料 本能寺の変」


 :八切止夫氏の「本能寺の変」論を鳥瞰する ↑
◎ “銀本位制と金本位制との争い”という発想

八切止夫氏の“本能寺の変論”の核心は「変」勃発の本質を“銀本位制と金本位制の争い”と捉えたところにある。このことを述べた『若き日の明智光秀』を読んだ時、私は少なからぬ衝撃を受けた。その後、小葉田淳氏の『金銀貿易史の研究』(1976)を読み、八切氏の論点に大きな誤認があることを教えられたのだけれど、それでも“こういう発想はどこから来るのだろうか?”という問いはずっと生き続けた。よく判らないままになっていたのですが、最近になって、こうした発想から創作された作品が『犯罪雑誌』(創刊号、1948.06)に載っているのに気づいた。この作品との出合は私の“八切止夫探究”全体にとって大きな転機となった。
「シルバー殺人事件<上海実話>」(筆名:大木栄三)この作品(二ページ分)の出だしの部分を取り出しておきます。

「シルバーラッシュって御存知ですか? これからお話しようと思う、美人ダンサー殺害郵送事件は、まずこの時代的な背景から説明しなければなりますまい」
と語りだしたのは、上海で長年新聞記者をしていた岡崎順平で、彼は当時を追憶するように、眼を細くしながら、
 「・・・昭和九年の夏・・・丁度中国では蒋政権が一応確立され、政府の英断で銀本位制が金本位制に切換えられるといった、政治的にも経済的にも大きな胎動期にありました。だがこの画期的な経済政策の断行で、中国銀貨の価値がグングン下り始めたことはいうもあでもありません。上海の為替相場は、大洋と呼ばれる一ドル貨幣が、銀本位当時には日本圓一圓五十銭で取引されていたものが、金本位になって見る見る一圓四十銭、三十銭と崩れ終いにはパーパーの一圓まで下落したのですが、その上良貨の中国銀貨に目をつけた人間が、秘かに銀貨の回収をはじめ、一ドル相場を一圓二十銭から三十銭に引上げる操作をやったので、中国銀貨はドンドン日本にも流入しはじめました。上海で一ドルを一圓十銭で買って日本に持って来れば二十銭から三十銭のサヤ稼ぎになる。廿銭として一千ドルで二百ドルで二百圓、五千ドルなら一千圓、いまでこそインフレで、千や二千の金は何の役にも立ちませんが、当時一千圓といえば、上海で享楽本位な生活を半年は続けられたものです。勿論、表面的な国際信義から日本にも「銀貨輸入禁止令」といったものもあったのですが、長崎や神戸の税関などでは、(臭い?)と睨んでも表面にさえ現品が現われなければ見て見ぬ振りで黙認していたようです。だから密輸入は物凄い勢いで増えて行き、女でも一人でも、三千枚から四千枚のドル銀貨を身につけて運んだものです。一ヶ月も航海もすればたちまち銀成金になりました。密輸の方法ですか? 主に銀貨入れの穴を一面作ったチョッキを着物の下に着込んで運んだようです。長崎などは、銀貨専門に買う仲買人が、上海航路の船が入港すると、ドッとタラップに駈け付けて、降りて来る密輸入者と契約を結び、税関を済ませて取引に移る、といった具合で、ちょうど最近の東京や大阪駅などでよく見るヤミ屋風景と全く同じなのです。少し前書きが長過ぎたようで、退屈されたかと思います。そろそろ本題に入りますかな。(以下略)
【写真:「シルバー殺人事件」、『犯罪雑誌』1948.06掲載】
ここで扱われている国民政府による幣制改革は、一般には忘れ去られているが、専門家にとってはとても興味の湧くテーマであるようです。私たち素人には把握不可能な事象と考えられます。とりわけ“香港上海銀行(現HSBC)、サー・フレデリック・ロス(英、ユダヤ人)”が関わっているらしいとなるとなると、素人にはもうアウトです。“公式見解”として『蒋介石秘録<11、真相 西安事件>』がある。この事象には次の事項が係っている。
中国の銀行(中央銀行/中国銀行/交通銀行)
中世のマニラ交易による大量の銀流入以来、中国では銅貨にかわって銀貨が流通していた。当時、中国は世界に比類のない銀保有国だった。中国のほかに銀本位制をとっていた国にアルゼンチンがある。
上海租界・・・英系の香港上海銀行(現HSBC)
サー・フレデリック・ロス(英、ユダヤ人)
1934年から1941年までの八年間に、米国が中国から買い入れた銀の量は合計で5億7180万2000オンス(1万6210トン強)。当時の購入金額にして2億6266万ドルにのぼった。米国が中国から買った銀の総額は邦貨にすると9億円以上。その前後で日本があげた貿易黒字の最高額(1939年、6億5800万円)をゆうに上回る。
この項目に書き込んだデータはほとんどが【検索】(複数)による。ある識者は次のように語る。
〝この幣制改革の問題の本質とは、1941年12月8日の開戦より何年も前から、日本と米・英は見えない戦争を始めていた、ということ〟〝これらの大方は忘却の彼方に葬り去られてしまった〟。
インターネット【検索】その他を整理して年譜を作ってみた(→年譜)。そこまでしなくていいんじゃないの、といわれる方がおられるかも知れないが、“八切止夫探究”をするというなら年譜をつくってニラメッコぐらいはしておきたい。
(2007.1.10)


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1168 信長殺しは秀吉か 18
織田信長の弟 織田有楽の執念

http://rekishi.info/library/yagiri/scrn2.cgi?n=1168


「おりゃ、天正十年六月二日に、なんで皆と一緒にドカーンとぶっ飛ばされてしまわ
なんじゃろか‥‥生きよう、生きたいと望んどったが奴がドカンと建物ごと宙にとば
されて爆死‥‥織田信長の弟ゆえ、なまじの敵の手にかかるは無念至極と、刀を咥え
て石垣の上から飛び降りようとしていた自分は、爆風に煽られて濠の中へ転落。そし
て、これから‥‥死に損なった身を、『おりゃ、死神に見放されてしもうたんじゃ』
と、ひたむきにそれでも生き抜いてきた。
 唯一の『生きるめど』は『誰が信長を殺しくさったか?』という存念にかかってい
た‥‥借銀をし、時には施しを受けるように秀吉から貰えばそちらに味方し、家康か
ら誘われれば、そちらへもついたものだ。つまり信長殺しの謎を解こうという自分へ
の掟のために、その経緯を捻出するために、まるで遊び女のように転身と身売りもし
た。

 だが、悔いてもおらん。恥じてもおらん。人それぞれに、生きとし生きるには、何
ぞの目標がのうては、やりきれたもんではないわい」
有楽は、えいの骨壷に向かって、あけくれ愚痴をこぼすようになった。本当のところ
は、
(‥‥おまえが去年の大坂城冬の御陣で首なし屍体になった時‥‥おりゃ寂しゅうな
って一緒に死んでしまいたかったんじゃ)
と言いたかったし、そんな甘えもしたかった。
 だが、それでは(男の沽拳にかかわる)と辛抱した。もちろん、そう話しかけてす
ぐさま。
「そうでござりましたかえ、嬉しや」
とでも云ってくれそうものなら、そりゃ見栄などはらずに口に出したかもしれない。
 しかし、骨壷の中からそんな返事が出てくる筈もない。
だから有楽は言わない事にしてるまでの事である。
というのは、何しろ近頃では、建仁寺の大山門どころか、境内の松の木にまで、
「臆病有楽。腰抜け有楽」
といった落書きの木札がぶら下げられるからである。全く当人としては、やり切れな
さすぎた。

 これは(判官贔屓というのか、弱者への憐れみなのか)
昨年の合戦では大坂城の総大将だった織田有楽が、今度は開戦の一ヶ月前に城を出て
しまい、ついに秀頼母子を棄て殺しにして、そ知らぬ顔で茶道に明け暮れするのが、
<卑怯者><腰抜け>と、京坂の者達に不快がられての結果らしい。
 正伝院まで忍び込んできて、投石する者も夜毎に増えだした。
「お身が危のうござります。大和の御領国へなりと、ひとまずお引取りなされませ」
 寺では、とても保護しかねると、建仁寺の方丈から勧告されてきた。
だが、えいの骨壷を抱えて、今更古女房の佐紀の許へ戻れるものでもない。だから領
国はこの際、生き残りに伜どもに兄、弟と分け隔てなどすまいと考え、
「おりゃ、織田信長という、あまりに高名な兄をもったばかりに、すぐ比較され、腰
抜けじゃ、弱虫じゃと云われる‥‥だが、一つ兄弟で、なんでそんな差があろうかや
‥‥信長は織田の家門の上り坂を上っていったからこそ豪そうにみえ、このおりゃは、
下り坂を降りてきたから、そないに見えるきりじゃ‥‥だいたい今度は大阪城へ入ら
なんだは、信雄とも相談の上で決めた事じゃわい。なんで、このおりゃだけを責める
事がある。
 第一、己れの女ごが首を飛ばされて死んだ所へ、又行けるほど、おりゃ情強(じょ
うごわ)ではないわえ‥‥どいつもこいつも誤解ばかりしくさる。もってのほかじゃ」
と、大和芝村一万石を上の織田左衛門佐長政、下の弟の織田大和守尚長(ひさなが)
には大和柳本の一万石を、それぞれ公平に分配してしまった。だから、気が澄んで大
いに満足をした。
 しかし、二万石の領国を、きれいさっぱりやってしまっては、建仁寺を出ていく所
もない、仕方ないから、旧縁を縋って山岡道阿弥を頼って江戸へ下る事になった。
 堀美作守邸の濠越しの角地に、すぐさま屋敷を貰えた。
なんせ上方へ行けば、腐るほど居る茶人も東国ではまだ珍しいから、そこですっかり
評判になった。
「数寄もの有楽」
と、今度は云われるようになり、諸大名が揃って茶事を習いに寄って来るから、まず
九鬼長門守の水手屋敷前の掛橋が、
「数奇屋橋」
と呼ばれるようになり、次いで有楽の邸前の小さな土橋も、
「有楽橋」
と誰が名づけるともなく、そんな言い方をされた。
 日々に茶湯に通う者が多くなって、この界隈では人の出入りが目立つようになり、
「有楽町」
と、その辺りが呼ばれるようになった。
 なにしろ、これまで茶湯には縁などなかった旗本八万騎までが、大坂夏の陣も終わ
って世は泰平になってしまったから、
「やる事がないで、茶でも習おうかい」
と目白押しに入門してきた。しまいには、
「有名な織田信長の弟とは、どない男じゃろ」
と、女までが競って有楽橋を渡ってきた。
 だから、頗る大繁昌をきたした。しかし、有楽にとっては痛し痒しだった。なにし
ろ、一時は、つい憶劫になって革文筥の中へしまいこんだままになっているものの、
「『信長殺し、秀吉なりや』の草稿を、あのままにもしておけぬ。精根込めて、もう
一度始めから手直しをせにゃなるまい」
とは、あけくれ思う。だが、筆をとる際というものがない。
 それに、わざわざ建仁寺にまでやってきて、勝手に一人でまくしたてて帰っていっ
た長宗我部盛親が、大坂城を枕に討死するとは云っていたが、落城前の五月七日に城
を脱出した。
 そして巧く生き延びていてくれたらよいものを、不甲斐なくも十一日に捕えられて、
十五日に京の三条河原で首を斬られている。だから盛親以外の人間で、当時の事に明
るい者を、もう一度見つけ直して、
(はたして秀吉は兄信長に忠義者で、信長殺しとは違うかどうか)
そこのところを確かめ直す必要があった。
 とはいうものの、又調べ直しをやるからには、先立つものは、これは何と言っても
銭である。
「止むを得ん、資金稼ぎじゃ」
と有楽は入門料稼ぎに、どしどし弟子をとって茶湯を教えた。
 しかし、もともと有楽は死んだ信長に初めて相伴させられた時、「苦い」と思った
ように、あまり茶は好きなものではない。
 そりゃ、まあ、日に四服や五服なら建仁寺の如庵の頃だって、啜っていたのだから、
飲んで飲めぬ事もない。
 しかしである。信長殺しを改めて調べ直す資金稼ぎに、どんどん入門をとっている
と、とてもじゃないが日に何杯ではすまされぬ。
 あまりに繁昌するのも善し悪しで、日に何十杯どころか、時には百杯も飲まされて
しまう。有楽は下風で眼を白黒させながら
「まことに結構なお点前でござる」
とか、ぐい、ぐいと我慢して飲み終え、商売ゆえ、
「この服加減‥‥実によお立ててござった」
と言わねばならない。たまったものではない。
 それに、江戸では茶湯指南で思いもよらぬ銭が、しこたま稼げはしたが、肝心な信
長殺しの手掛かりを見つけるには、やはり京へ戻らねば、何ともなるものではなかっ
た。
「困った。どないしようぞ」
と焦り過ぎたのが原因か、ついに有楽は倒れた。腹の病である。現代なら胃腸疾患は
精神障害からと診断されるが、当時の事なので、
「お茶の飲みすぎではござるまいか」
という本道(ないか)の看立てになった。
 有楽自身も苦っぽい茶を、おくびをしながら苦しそうに、
(銭を持って、早よ、京へ行かずばなるまい‥‥)
と、呻くようにも訴えた。

 門人どもは、
「さて、あちらには身寄りの伜の殿達が大和の国には居られるんで、そんでじゃろ」
相談し合った結果、有楽を駕に乗せて上方へと送った。
 しかし、大和へは行かずに、有楽は京へ止まって、そこで病の身を養っていたが、
木枯らしの吹きすさむ十一月の末、有楽は胃袋から吐き出した真っ黒な血の中に顔を
突っ込んで、そのまま息を絶やしていた。
 なにしろ、えいの死後は女人を近づけていなかった。そして、いつも一人で書き物
の綴りを覗き込み、家来の者も遠ざけていたから、誰にも見取られず、有楽は一人ぼ
っちで、えいの骨壷に向き合ったまま死んでいったのである。
 元和七年(1621)十二月三日の雪の降る日。東山の邸から運びだされた有楽の
遺体は、茶毘にふせられてから洛北の建仁寺へ送られた。
「正伝院如庵居士」
と、名を改めた有楽の骨壷は、えいの壷と一緒に塔頭の墓地へ改めて埋葬された。
 京都所司代は、板倉勝重からその伜の重宗の代になっていた。
だが、かねて先代からの申次でもあったのか、有楽の死が伝わると、すぐさま所司代
役人が来て、有楽の残していった書き綴りの文書は一切押収していった。
 そして直ちに早馬によって、江戸城へそのまま厳封したままで送り届けられた。
徳川家康が死んで五年目になっていた。
 二代将軍秀忠は眼を暗く光らせ、吃らせぎみに
「なに、なんと書いてあるぞ」
と、気になるらしく急かして革文筥を開けさせた。
 ひったくるように腕を伸ばして有楽の書き残していった綴りを掴み取った。が、ぱ
らぱらとめくったきりで、
「『信長殺しは秀吉』か‥‥これはいい。すぐさま権現様ご霊前にお供え申し、直ち
に火中に投じてしまえ」
と云い、
「ふふ‥‥」
と異様な笑い見せた。

‥‥つまり織田有楽が四十年の余もかけて調べ上げ、心血を注いだものも、その時の
徳川家からみれば、一笑にしか値しなかったようである。
 誰にしろ往々にして、人間が生涯かけてやった仕事というものは、当人はいくら頑
張ったつもりでも、他人からは、全く無視されたり笑いとばされる結果にもなりかね
ないものである。
 なにしろパスカルでさえ、
「真実を言うことは、言われる側には有益かもしれない。だが、それを言ったり書い
たりする者には、きわめて不利益である。なぜならば、真実を探求する者は、とかく
世間からは厭われてしまうからである」
と云っている。やはり人間の一生などというものは、有楽のように誤解され通すか、
さもなくば、もっと空虚なつまらんもので終わってしまうものらしい、と考えさせら
れる。



後記

 この作品は読みやすい小説体にしたから文献出典は省略した。原典根拠の判りたい
方は講談者刊<信長殺し、光秀ではない>を併読してほしい。なお、右拙書に対して、
日本歴史学会高柳光寿先生は「歴史読本」十一月号に、
「徳川家康は臣水野勝成に、光秀の所有していた槍を与えた事がある。その時、家康
は勝成に『光秀にあやかれ』と言った。これは家康は光秀を主殺しとして扱っていな
い事を語るものである。もし主殺しとして扱っていたら、主殺しにあやかれとは、自
分を殺せという事でなくてはならないのである。光秀を主殺しとするのは江戸時代の
儒学からであり、その最初と思われるのは光秀を主殺しにする事によって、光秀と争
って利を得ようとした秀吉であろう」
と述べられている。ご高説通りであろう。
つまり、
「信長殺しが誰か」という事が解明されたのは江戸の家光時代に入ってからであり、
「誰か、が判った」からこそ、儒者はこれを「光秀」にしてしまったのである。
 機会をみて徳川家光から逆解明の書き下ろしをしたい。が、大衆小説ではないから、
答えは読まれる方にお任せしたい。
 だから、この物語は「臆病、腰抜け」と、永遠の汚名を背負った為に、「大坂冬の
陣の総大将」であった事実さえ、歴史家に認められていない哀れな男への挽歌なので
ある。「有楽」「有楽町」と口にするとき、人間それ自体が、いかに虚しいものか判
っていただければと想い、後記とする。






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ツイートテレビからのお願い


※寄付と「買って支援」のお願い
アマゾンから買って支援
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服部順治 ‏ @JunjiHattori

原発再稼動を停めようと佐賀県庁にのりこんだ山本太郎さんを
刑事訴訟した京都の行政書士の方が
なぜか半年近くも経った今頃、下記のビデオを見て、
その行政書士は幸福の科学の信者ではない、とのことで
「名誉毀損及び名誉感情侵害行為」で
慰謝料 45万700円を支払うように
こんどは私を訴えてきました。
(^_^;)

どうも小沢一郎さんと市民との対話という番組に出て
「裁判所もおかしい」と言った直後に告発している感じです。
(^_^;)

この行政書士と戦うためにも
裁判の費用が必要です。
左記の寄付欄より、
みなさんからのご支援をよろしくお願いいたします。


口座名 ツイートテレビ

■郵便局からの振込みの場合
口座 ゆうちょ銀行
記号 10090 
番号 98084911

■銀行からの振込みの場合
口座 ゆうちょ銀行
店番 008 普通預金
口座番号 9808491







ツイートテレビの中継/取材/講演などの要請の場合

 ツイートテレビもこれからUSTREAM中継やこのようなツイートテレビのやり方、ブログの作り方などのお話をさせてもらったり、取材要請があれば内容に応じてUSTREAM中継などもやってここで紹介させていただこうと思います。
 2人いっしょで中継時間、講演時間1時間あたり3000円で、実費の交通費も別にいただければありがたいかと思います。
 ツイートテレビのホームページのコメント欄で非公開コメントにチェックを入れていただき、メールアドレスや取材場所、時間(できれば午後3時以降)、お話の内容などを書いて送信していただければ、ご相談に応じます。
 よろしくお願いいたします。





主に日本の話題の元ネタ(^_^;)
歴史の真実の宝庫:八切止夫デジタル無料作品集
(次世代の人達と共有し戦争を繰り返さないために)

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東京新聞(日本で一番、真実を伝えてくれる新聞)
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日本語イラン ラジオ(アメリカ、ヨーロッパの負の側面を日本語で解説するイラン側のメディア:盲信はしない(^_^;))
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人民日報日本語版(中国から見た、日本の政治社会状況などがよくわかる(^_^;))
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中国国際放送 日本語版(アメリカ、ヨーロッパの負の側面を日本語で解説する中国側のメディア:盲信はしない(^_^;))
http://japanese.cri.cn/index.htm

ロシアの声 日本語版(ロシアの国営放送で建前としてのロシアの現状がよくわかる:盲信はしない(^_^;))
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ロシア トゥデイ Russia Today(アメリカ、ヨーロッパの負の側面を抉り出して見せてくれるロシア側のメディア:盲信はしない(^_^;))
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Dprogram.net(従来のプロパガンダに対抗するためのサイトでプログラムで縛られた人を解放する? (^_^;))
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動画リンク
アメリカの「ウォール街を占拠せよ!=Occupy WallStreet」の理解のため




おすすめのガイガーカウンター(線量計)は何でしょう? 
真宗大谷派 常福寺でやってるサイトで専門家の人のお奨めです。
http://johukuji.nanaoarchive.com/top/?p=1191
1万円台では
SOEKS-01M ホットスポットなどを探すにはいい。ただβ線も測ってしまうので高めの数値を表示。正確に数値を測るにはアルミの遮蔽版が必要。
なお2011年12月だとエステー化学のエアカウンターがいいようだ。(群馬大学の早川教授もおすすめ(^_^;)
その時、必ず9800円の定価に近いロープライスを選択して買うべきです(^_^;)
でも今からだと2/3発売で性能のいいエアカウンターSを待って、7800円で買ったほうがいいかも
3万円台では
手軽に正確な値を出すのにお奨めはDoseRAE2だけど、今だとエステー化学のエアカウンターがいいようだ。
(東京都からの貸し出し用で採用している機種だけど0.30μSv/h~2.50μSv/hふらつきあり)
私も「放射線測定器 Dose RAE2を買って」 (^_^;)
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