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2/4(月) ニュース

2013/2/4(月) ニュース

<今日のツイートテレビニュースの話題>
                                                                                                                    Font MSP ゴシック サイズ11

2013/2/4(月) ツイートTV

1 武器輸出3原則は無視してイスラエルの戦争を支援しろ!
2 アルジェリア人質殺害事件で臭う日揮乗っ取りの陰謀
3 北朝鮮を挑発しイジメぬいて戦争を引き起こせ!
4 長銀を乗っ取って米戦略に沿うチェック企業に変えていった
5 天皇の起源:日本の三国志の卑弥呼,大国主命から聖徳太子へ






<ニュースウォッチ12:今日のニュース>
1 武器3原則は無視してイスラエルの戦争を支援しろ!

2013/2/4(月) 概要 武器輸出3原則は無視してイスラエルの戦争を支援しろ!
2013/2/4(月) ツイートテレビニュース 概要 武器輸出3原則 無視 イスラエル 戦争 支援しろ!



昭和おやじ ‏@syouwaoyaji
民間人に武器の使用を認める初の国内法。何かの伏線か? “@47news: 海賊対策で日本船に武装警備員 国交省、新法案を今国会提出へ http://bit.ly/14JvcWs ”


15時間 怒れる不動明王 ‏@goubuku_fudou
本日のお笑い報道②「北朝鮮の核実験の自制求める」、自分たちは武器三原則を無視して、米国の手先になって世界中に平気をばら撒こうとしているのに、北朝鮮にはするなというらしい。すごい国になったもんだ。安倍晋三はスーパーマンらしいな、経済対策やれば株価は上がるわ、武器輸出でも好き放題だ


7時間 きっこ ‏@kikko_no_blog
「安倍内閣は武器輸出三原則の例外措置としてステルス戦闘機F35の部品を日本国内で製造して輸出する方針を固めた」とのこと。こんなデタラメが通るなら、自衛隊を海外の戦場へ派遣して米軍と一緒に人殺しさせることも「例外措置」とか言い出しそうだな。


4時間 CrushThe☢@MextJapan ‏@ST0NES
武器輸出三原則の例外措置?政府は、おととし、当時の民主党政権が、「日本の安全保障や国際平和に役立つ場合に限り、防衛装備品の国際共同開発や共同生産に日本が参加できる」として、三原則の例外措置を認めたことも参考にして?RT @nhk_news http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130204/k10015280751000.html …


3時間 鈴木 耕 ‏@kou_1970
原発輸出では物足りず、今度は武器輸出にまで手を伸ばした安倍政権。これまで曲がりなりにも守ってきた「武器輸出三原則」を踏みにじり、米国と共同生産の自衛隊の次期戦闘機F35の部品を、輸出することを認める方向という。紛争国(イスラエル)への輸出も可能になる。「死の商人」化する安倍政権!


2時間 Mr.カトー ‏@Mrkat0
F35:三原則「例外」…政府、日本製部品の輸出容認へ http://mainichi.jp/select/news/20130204k0000e010168000c.html … 武器輸出三原則は、国際紛争当事国やそのおそれのある国への武器輸出を禁止している。⇒丸ごと開発すれば輸出先は自由に選べるじゃないか!(宗主国様が絶対許さないと思うが…orz)



F35部品製造に暗雲 武器輸出三原則が障壁 イスラエル購入計画

http://www.sankeibiz.jp/macro/news/130129/mca1301290819009-n1.htm
2013.1.29 08:18
産経新聞グループ

 航空自衛隊の次期主力戦闘機(FX)として導入する最新鋭ステルス戦闘機F35Aライトニング2への日本製部品の提供をめぐる問題が、日米両政府の懸案として浮上していることが28日、分かった。両政府は日本国内に部品製造と修理の拠点を設ける方向で協議中だが、日本政府内で、国内で製造・修理する部品をイスラエルに提供することが「武器輸出三原則」に抵触するとの意見が出されているためだ。来月の日米首脳会談でも厳しい議論になるとみられる。

 政府は昨年6月、F35について平成28年度に取得する4機分を米政府と契約、最終的に42機を調達する。FXの選定では国内の戦闘機の「生産基盤維持」も重視し、F35は最終組み立てに加え、機体の4割にあたる部品の製造に日本の防衛関連企業を参画させることを目指している。

 日米間では、両国以外でF35を導入する国にも、日本国内で製造した部品を提供する方向で調整が進められている。日本の関連企業が在日米軍や他国軍の機体を修理することも想定しており、日本はF35の「部品製造・修理拠点」と位置づけられる。
・・・・・・・・・・・・・・・



 武器輸出三原則に抵触するとの指摘は、イスラエルがF35を購入する契約を締結していることによる。イスラエルはイスラム原理主義組織ハマスと停戦中だが、戦闘が再開される恐れがあるほか、核開発を進めるイランを攻撃する可能性も指摘される。

 三原則では「国際紛争の当事国かその恐れのある国」への輸出を禁じている。政府は23年12月、三原則を緩和し、米国以外の国と装備品を共同開発・生産できるようにしたが、「国際紛争の助長回避」の原則は維持している。

 このため外務省内で「イスラエルへの部品提供は控えるべきだ」との慎重論が出ている。これに対し防衛省側は「現時点で提供国を細かく詰める必要はない」と主張している。

 米側も日本政府内の意見対立を把握。日本がイスラエルを部品提供国から除外するのであれば「部品製造・修理拠点」を韓国に置くことを検討しているという。そうなれば防衛関連企業への打撃は深刻で、機体価格のさらなる高騰を招きかねない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 米政府は、日本に拠点を置くことを期待しているが、日本政府高官は「(米国は)意見対立が長引けば見切りをつける」と危惧している。

【用語解説】F35

 米英伊など9カ国が共同開発し、レーダーに捕捉されにくいステルス性が特徴。世界で3千機以上が飛ぶ次代のグローバルスタンダード戦闘機とされるが、開発の遅れなどで日本向け(契約時)は1機102億円で当初予定より3億円上昇した。


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再生リスト:「国民の生活が第一」を支援する市民大集会 2012/9/1
http://www.youtube.com/playlist?list=PL2617FA4CFF36F3C5


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今日のイベント
原発関連:集会・イベント情報、Ustream番組表
http://2011shinsai.info/event/

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閑話休題

ツイッターの流行がわかる日刊ツイッターランキング 
http://twinavi.jp/news/daily?ref=top

今、話題の動画のランキング tweetmovie ツイートムービー 
http://tweetmovie.jp/

NAVERタブーまとめ

http://matome.naver.jp/topic/1LwS6







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<<日本 クローズアップ現代:国内の話題>
2 アルジェリア人質殺害事件で臭う日揮乗っ取りの陰謀

2013/2/4 アルジェリア人質殺害事件で臭う日揮乗っ取りの陰謀
クローズアップ現代 日本 国内問題 クロ現 アルジェリア人質殺害事件 臭う 日揮 乗っ取り 陰謀




本澤二郎の「日本の風景」(1270)

<臭う日揮社員殺害事件>



http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/52019862.html

おかしい。どう考えても不可解な事件である。アルジェリアで働いていた日本人殺害事件のことである。イラク・アフガン戦争に加担した日本は、以来、イスラム過激派に嫌われてしまっている。日本人人質作戦が表面化してもおかしくはない。だが、なぜアルジェリアで多くの犠牲者を出したのか。天然ガスプラント建設現場の外国人労働者、そこの日本人を標的にしたのか。即座に噴き上がる自衛隊法改正と防衛費増、その主役は改憲軍拡のドラを叩く安倍内閣?点と点を結び付けてゆくと、やはり諜報機関の秘密工作の臭いと、その狙いが巧妙な日本の世論操作であることも見えてくる?


<3重の網を難なく>
 2013年2月1日、アルジェリア政府は各国マスコミを現場に案内した。そこで確認できた2点に注目したい。
 一つは、砂漠の要塞のようなプラント建設現場には、実に3重の防壁が出来ていた。軍そして警察、さらに民間警備である。こんなに凄い防御壁というのも珍しい。ネズミ1匹通過できない。
 小説の世界では、砂漠の美女が美酒を大量に持ち込んで、兵士と警察官と警備担当者を眠らせる。そうして難なく目的地に到達する、ということなのだろうが、今回、こんな芸当をするはずもないし、出来ない相談だ。
 アルジェリア政府・軍・警察・警備員をコントロールする大きな力が作用した秘密工作事件であろう。お隣のマリに軍事支援を始めたフランスは、攻撃の大義を手にできる。同じくニジェールに押しかけるという米軍も?見方次第では、アフリカにおける中国とのエネルギー利権抗争の一環ともとれよう。
 昨今の中国のアフリカ資源確保は、日本のマスコミでもよく報道している。

 あわせて、日本の改憲軍拡の潮流に棹さすという1石3鳥の効果を狙ったものではないだろうか。改憲軍拡を狙うワシントンのネオコンと安倍である。うがち過ぎではあるまい。安倍は人質事件のさい、必死で「人命第一」を叫んで、国民向けにアリバイ工作をしていたのだが?おわかりか。
 自民党石破幹事長は、自衛隊法改正という名の改悪論を、手際良くぶち上げた。これは臭い。怪しいのだ。武器弾薬で人命が守れる、という理屈など今日通用しない。この世は因果応報である。悪いことをしなければ殺されることはないに等しい。
<プラントに攻撃なし>
 「自国のエネルギーを侵略・植民地資本に奪われてなるものか」との思いが過激派の念頭に強い。彼らが建設する、そんなプラント建設など無用である。そう信じているはずだろうから、爆弾の数発をぶち込んで破壊するだろう。
 どっこい、プラントは無傷だ。アルジェリア軍の攻撃で、施設が少し黒ずんだ程度である。過激派は大事に扱った。これが二つ目に判明した事実である。
 3重の防御陣地を無傷のままで潜入した犯人らは、アルジェリア人に目もくれず、もっぱら外国人の人質にこだわった。彼らには、日本人にも特別の指令が出ていたことが判明している。
 それにしてもなぜ、この時期・この日だったのか。日本から日揮最高顧問、英BPからも重役が来て重要会議が開かれる日だった。犯行をその日に特定し、彼らを殺害した。これを偶然と言えるだろうか。これもNOである。
 内部情報を手にしていた犯人らだった。あまりにも出来過ぎているではないか。
<日本人人質にこだわった犯人>
 生存者の証言から「日本人はどこだ」といった犯人の叫び声が判明している。日本人狙いでもあったのだ。日揮社員が多く働いていることを確認していた犯行だったのだ。
 一般的に日本人人質は、法外な金を手に入れることが出来ると見られている。それが理由だったのか?それだけではあるまい。
 事情通は、この事件直後に「米CIAと英MI6とフランスの諜報機関の合作だ」と語っていたが、現時点でも確かにそう読めるのである。イスラエルのモサドはどうなのだろうか。
 現地政府を手玉に取れなければ、これだけの大事は出来ない事件だった。徹底した情報管理にマスコミは手も足も出なかった。しかし、疑惑は強まるばかりだろう。
<噴き上がった自衛隊法改正>
 人命救済が最優先の場面で、右翼メディアや保守派政治家から「自衛隊活用」が叫ばれ、現行では動けない、という専門家を交えてのキャンペーンが茶の間のテレビを占拠した。
 最強の軍事大国のアメリカでも、テロに対して無力に等しい。9・11後のイラク・アフガン戦争でも勝利することが出来なかった。どうして日本が出来るであろうか。わかりきっているだろう。
<改憲軍拡への環境整備>
 狙いはいうまでもない。改憲軍拡に向けた地ならしである。筆者の目は節穴ではない。事情通のアドバイスを受けて、俄然、頭が冴えてきたようなのだ。
 安倍は自衛隊を国防軍に格上げ、戦争の出来る日本にしたい。それが美しい日本だと言い張る。それには過去についての反省や謝罪は不要である。その逆で過去を正当化させたい。安倍は皇国史観論に立っている。
 そのために参院選を勝利することが、何よりも先決なのである。これほど危険な政治家?は、戦後初めてである。中曽根でさえも、ここまでは踏み込めなかった。もちろん、岸も、である。
 正に極右政権なのだが、この点についての日本人とアジア人の認識は甘い。
 アルジェリア・日揮・官邸は結びついている。改憲政権を誕生させたワシントンのネオコン・CIAの野望は、半年後の日本改造狙いとみたい。日揮社員殺害事件は、見事にその役割を果たした。メディアは早速、都合のよい調査結果を公表して、自衛隊法改正世論を作り上げてしまった。
<怒れ!日揮社員>
 日本政府はアリバイづくりに政府専用機を現地に飛ばした。不運な日揮社員の死体と生存者を東京に運んだ。後ろめたい裏返しの手厚いもてなしなのか、それも工作を完結させるための一環だとみえそうだ。
 多くの国民は見事罠にはまった?違うだろうか。
 正直、日揮の亡くなった社員が哀れでならない。老いた母親や兄弟の悲しみの映像に誰しもが涙した。しかし、真実は20年、30年後にワシントンの公文書館でしか判明しないものか。それとも、その前にウィキリークスにすっぱ抜かれるか?
 日揮社員に怒れ、といいたい。ドンは知っている。
<ドンと最高顧問の関係>
 事情通は「日揮のドンと殺された最高顧問の間に何があったのか」と疑惑のボールを投げてきた。二人の関係が一体であれば、後者が殺害されることはなかった、というのである。

 年に数回しか現地を訪れることがない日揮とBPの大幹部、犯行は建設企業幹部の現地入りに合わせて決行したものだ。それこそ壮大な仕掛けの中で行われた悪辣な事件だった。
 この秘密工作に沈黙する議会・政府・マスコミの日本である。


2013年2月3日7時35分記

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<世界 クローズアップ現代:海外の話題>
3 北朝鮮を挑発しイジメぬいて戦争を引き起こせ!


2013/2/4 北朝鮮を挑発しイジメぬいて戦争を引き起こせ!
クローズアップ現代 世界 クロ現 海外問題 北朝鮮 挑発し イジメぬいて 戦争 引き起こせ!




報 道男 ‏@michio_mukui
【国際】 北朝鮮 米韓軍事演習を非難 (NHK): アメリカ軍と韓国軍の合同軍事演習が始まったことについて、北朝鮮は、4日、「新たな戦争に向けた挑発だ」と非難し、3度目の核実験に踏み切る構えを重ねて示しました。 これは北朝鮮...

マッドマン ‏@madmanjapman
ズムワルト国防長官「北朝鮮がさらなる挑発行為を取らないことだ。」http://www.jiji.com/jc/zc?k=201302/2013020100464&g=pol … ←挑発してるの米国のような気も。





http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130204/k10015287391000.html



アメリカ軍と韓国軍の合同軍事演習が始まったことについて、北朝鮮は、4日、「新たな戦争に向けた挑発だ」と非難し、3度目の核実験に踏み切る構えを重ねて示しました。

これは北朝鮮で韓国との窓口機関になっている祖国平和統一委員会が、4日、ウェブサイトに掲載した論評を通じて明らかにしたものです。
この中で、今回の演習にアメリカの原子力潜水艦や韓国のイージス艦が投入されていることをあげて、「朝鮮半島における新たな戦争に向けた挑発を既成事実化している」と米韓両国を非難しました。
そのうえで、「自分たちだけが最先端の戦争手段を独占していると考えているのならば、それより大きな誤算はない」として、3度目の核実験に踏み切る構えを重ねて示し、米韓両国への対決姿勢を強調しました。


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ケリー米国務長官、日韓外相と電話会談 北朝鮮の「挑発行動」に警告

http://www.cnn.co.jp/world/35027743.html?ref=rss

(CNN) 北朝鮮が核実験を予告している問題で、米国のケリー国務長官は3日、岸田文雄外相、韓国の金星煥(キムソンファン)外交通商相と相次いで電話会談した。会談の結果、日米韓3国とも「北朝鮮が挑発的な行動を続けた場合、国際社会からの重大な結末を招く」との認識で一致した。米国務省が明らかにした。
これに先立ち北朝鮮は同日、金正恩(キムジョンウン)第1書記が国の強化に向けた「重要な決断を下した」と発表した。朝鮮中央通信は、朝鮮労働党中央軍事委員会でこの決定がなされたと伝えたが、具体的な内容は明らかにしていない。
韓国の李明博(イミョンバク)大統領は、核実験に備えるよう閣僚に指示。危機管理センターの機能を持たせている地下施設を訪れた

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<追跡!真相ゼロtoZ>
~ゼロの意味する原点の意味の原因を探り
 定量的、科学的にZの行き着く先の真相に迫る~

4 長銀を乗っ取って米戦略に沿うチェック企業に変えていった

2013/2/4 長銀を乗っ取って米戦略に沿うチェック企業に変えていった
追跡 真相 ゼロtoZ 長銀 乗っ取って 米戦略 沿う チェック企業 変えていった



UL ASG
http://ulasg.com/about

1997年 株式会社イーエムエスジャパン 設立 ISO14001コンサルティング業務開始
1998年 知識経営研究機構と合併 ISO14001コンサルティング拡大公開セミナー開始
1999年 本社を東京都中央区新川に移転
2000年 ISO9001コンサルティング業務開始
2003年 株式会社エーペックス・インターナショナルからISO事業の業務移管を受け、事業拡大
環境製品評価コンサルティング開始西日本事業所開設株式会社エーペックス・インターナショナルは、米国UL(Underwriter
Laboratories Inc.)のグループに入り、株式会社ユーエル エーペックス(現 UL Japan)となる
2006年 東京商工会議所主催の「環境社会検定試験」eco検定公式テキスト執筆に携わる

2010年 株式会社日本規格総合研究所から事業譲渡 株式会社UL ASG Japanに社名変更

本社を東京都千代田区丸の内 富士ビルへ移転

2011年 本社を、千代田区丸の内 トラストタワー本館へ移転
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株式会社パデセア
環境に関する教育を通じて、社会のひとりひとりが環境問題への意識を高めることを事業目的とします。このミッションをP.D.C.A.(Plan,
Do, Check, Act)を通じて社会に広げて行くため、社名を「パデセア」と命名しました。
http://www.pdca.co.jp/about/index.html#profile
--
代表者経歴
株式会社パデセア 代表取締役 黒柳 要次

出身: 静岡県
学歴: 広島大学工学部構造工学課程卒業
職歴: 三井造船(株)プラントエンジニアリング事業本部、(株)長銀総合研究所開発調査部、(株)イーエムエスジャパン代表取締役をへて(株)パデセア代表取締役社長

(株)イーエムエスジャパン専務取締役。広島大学工学部卒、82年三井造船(株)、87年(株)長銀総合研究所、CEAR登録環境主任審査員、環境カウンセラー


同じ場所に 食品表示検定協会も!!
東京都千代田区麹町2-12-1 グレンパーク半蔵門303

http://www.shokuhyoji.jp/

食品表示検定
 [主催] 食品表示検定協会
 [後援] (社)日本農林規格協会(JAS協会)


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買収した会社を次々とアメリカの戦略会社化とする



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EMS とは

http://www.post.japanpost.jp/int/ems/index.html

株式会社イーエムエスジャパン
http://ulasg.com/about


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吸収される日本規格総研

http://www.yusakunakao.com/isos/2010/06/


2010年6月30日
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ISMS(情報セキュリティマネジメントシステム)をはじめとするマネジメントシステム関連のコンサルティング・研修サービス事業を行っている株式会社日本規格総合研究所(JSCI、穐田正社長)が明日7月1日から、同業である株式会社イーエムエスジャパン(emsjapan、原島圭介社長)に事業統合される。JSCIの事業及び従業員はそのままemsjapanに引き継がれるとのこと。

個人的にはISMSなら釜井秀夫さん、5Sなら坂田和則さんがJSCIの看板コンサルタントというイメージを持っており、このお二人が今後とものびのびと仕事ができる環境であるならよいのだが。



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<追跡!真相ゼロtoZ>
~ゼロの意味する原点の意味の原因を探り
 定量的、科学的にZの行き着く先の真相に迫る~

5 天皇の起源:日本の三国志の卑弥呼,大国主命から聖徳太子へ

2013/2/4 天皇の起源:日本の三国志の卑弥呼,大国主命から聖徳太子へ
追跡 真相 ゼロtoZ 天皇の起源 日本の三国志 卑弥呼 大国主命 聖徳太子




イエズス会が鉄砲をもってやってきて、日本の金融マフィアの蜷川、角倉らが徳川家康らを利用し
織田信長らの軍勢を爆弾テロで殺す前までの日本の歴史は
かなり、その時、その時の中国や朝鮮の情勢が日本に強く働いていたようだ。
特に天皇の成立過程をネットで調べてみると
どうも中国を支配していた者たちがこの日本も支配しようとしたり、逃げ場所として確保したり、
逆に唐から追いかけてきた桃太郎こと藤原鎌足が天神信仰の隋の者たちを鬼として退治したりして
唐の制度で日本を統一したように、
文字通り、日本の中国地方を中心に、その時の中国の争いが反映される場所だったのでは
なかろうか?
 そして本当の日本の支配層は明治維新や戦後のアメリカが行ったように
当時の天皇を利用して陰でその天皇をコントロールし
表に現れる地元の権力者は自分達のDNAをその天皇に入れ込み
一時的に栄華を誇るものの、
裏の支配層にしっかり操られた政治を行っていたと思われる。


オオクニヌシ、出雲大社の謎

http://kuwabara03.blogspot.jp/2009/01/blog-post_27.html

スサノオの子孫の大国主命(オオクニヌシノミコト)は、出雲(島根県)を手中にしたあと、鳥取、兵庫、北陸、長野まで勢力下におさめた文字通り大国の主でした。
「命(みこと)」とは、高貴な人に対する尊称です。

ところが、高天原(=たかまがはら、神の世界)に住んでいた天照大神(アマテラスオオミカミ)が降りてきて(=天孫降臨)、国を全部譲れとせまりました。

アマテラスは、女神で皇室の祖先神とされています。
日の神として伊勢神宮にまつられています。
イザナギノミコトとイザナミノミコトのあいだにうまれました。
天照大神 【画像】

オオクニヌシはあらがいましたが負けました。

またオオクニヌシの次男も、戦いを挑んだが負け、諏訪湖まで逃げ、永遠に諏訪から出ないことで許しを得ました。

諏訪大社はオオクニヌシの次男・建御名方命(タケミナカタノミコト)をまつる神社です。

オオクニヌシはアマテラスに破れ、「現世から退き、あの世(霊界)のことをする」ことになりました。

縁結びなどもあの世の領分だから、これ以降、出雲大社は縁結びの神様として有名になりました。

◇ ◆ ◇

出雲大社には多くの謎が隠されています。

出雲大社の原型。島根県庁
まず、巨大な建物です。
「雲太、和二、京三」(うんた、わに、きょうさん)とは、平安時代の日本の三大建築物のことです。
雲太→ 出雲太郎→ 出雲大社
和二→ 大和二郎→ 大和(やまと)の東大寺大仏殿
京三→ 京三郎→ 京都の大極殿(だいごくでん、御所の建物)
出雲大社は、高さが48メートルもあり、大仏殿よりも高かったです。

なぜ、朝廷の反逆者をまつる出雲大社は、アマテラスの子孫である天皇の御所よりも、また鎮護国家の目的で建てた仏教の総本山の東大寺大仏殿よりも、大きかったのでしょうか。

それは、激しい怨念を抱いて死んでいったオオクニヌシのたたりをおそれ、御霊(みたま)を丁重にまつるためだったからです。

◇ ◆ ◇


参拝者にそっぽを向かされているオオクニヌシ
出雲大社の本殿ではオオクニヌシは、参拝者にそっぽを向いてすわっています。

参拝者に向き合っているのは、アマテラス側の5体の神です。
なぜでしょうか。

それは、表向きにはオオクニヌシをまつることにして、人々をアマテラス側の神々に礼拝させるためのシカケだからです。

これらアマテラス側の神々(御客座五神、おきゃくざごしん)は、大怨霊オオクニヌシが地上に降りてこないように見張るいわば看守の役目をしています。

出雲大社は、オオクニヌシの霊魂を地上にださせないようにするための牢獄ともいえます。 

◇ ◆ ◇

また、オオクニヌシは西を向かされているのは、西が日の沈む方向であり、死の国の方向であるからでしょう。

アマテラス側としては、オオクニヌシには、生き返ってもらいたくなく、またこの世にたたりをもちこんでほしくないので、西を向いてもらっているわけです。

* * *


向きが逆のしめ縄
出雲大社ではしめなわの張り方が反対となっていて、中から見て左側で終わっています。

出雲大社は、伊勢神宮などの他の神社とちがい「死」の宮殿であるので、シメ縄の向きもほかの神社と反対になっているのでしょう。

日本では、死者に関係するものは、向きを逆にします。
死者には、左前の白衣を着せます。

北枕にします。

屏風(びょうぶ)は上下さかさまにします。

* * *

また、出雲大社での拝礼は「二礼、四拍手、一拝」です。

ふつうは、「二礼、二拍手、一拝」です。

オオクニヌシが「死(=四)の国の王」であるので「四拍手」にしてあります。

オオクニヌシに「この世に戻ってはだめなのだ、そのかわり丁重にまつるから」ということを、何回も何回も自覚させるために、アマテラス側が多くの参拝者に死(シ)拍手を打ち続けてもらうようにしたのでしょう。

* * *

雲は太陽(=アマテラス)の敵です。
オオクニヌシが雲であることを示し続けるために、その地を「出雲」と定めたのでしょうか。

* * *

出雲大社の神官(しんかん)は、天皇家と先祖が兄弟です。

アマテラスは、長男には家督を譲り、次男は出雲大社の神官にしました。

現代の神官は第84代にあたります(= 写真)。

激しい怨念を抱いて死んでいったオオクニヌシのたたりをおそれ、丁重にまつるための措置です。

◇ ◆ ◇

オオクニヌシのような大きな犠牲者を出せば、その鎮魂のために、出雲大社のような大きな社を建て、自分の子孫にそれを守らせるなどの莫大な犠牲をはらわねばなりません。

これ以降日本の歴史においては、「和」を守ることが、重要になりました。

【cf.】井沢元彦『逆説の日本史』(小学館)


出雲大社の公式サイト

出雲大社のページ
(改稿:2010年9月、2012年3月)
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邪馬台国と卑弥呼-65  出雲国風土記と記紀神話の不一致

http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1313.html

出雲と聞けば、スサノオの八俣のオロチ退治の伝説が有名ですが、

かなり衝撃的ではありますが、「出雲国風土記」には、この話自体が存在しないのをご存知でしょうか。  よって、スサノオがオロチから救出したクシナダ姫の伝説もありません。

また、国生みの話でも、出雲国風土記では、次のような話が伝えられておりますが、

「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)は、出雲の国は狭い若国(未完成の国)であるので、他の国の余った土地を引っ張ってきて広く継ぎ足そうとした。 そして、佐比売山(三瓶山)と火神岳(大山)に綱をかけ、以下のように「国来国来(くにこ くにこ)」と国を引き、できた土地が現在の島根半島であるという。」

この神話は、古事記にも日本書紀にも記されておらず、出雲国をつくった祖である八束水臣津野命は、古事記には何の説明もなく1回名前が出るだけで、日本書紀に於いては出雲国をつくった神の名前すらでてきません。  さらに、出雲国風土記では、国譲りの話でも、国譲りを要求した高天原の武人である建御雷之男神も登場しません。


いやいや、日本書紀や古事記は自分の都合の良いように書いているだけで、スサノオのオロチ退治は出雲にあった話だといってみても、その出雲国風土記に記述がまったくなく、逆に日本書紀や古事記に書かれているのです。  神話研究家の常識では、出雲国風土記の多くの伝承の中で、記紀に共通もしくは近似性のある伝承があるかといえば、ほとんど見出せないとされています。 



この矛盾を解決するのが、実は古事記の出雲神話は、四国の阿波(徳島)を舞台にしたイツモ神話であり、出雲神話の舞台が島根県の出雲だとする常識は、過去のものとなり、封印されていた阿波東部の海岸全域に広がるイツモが最近の研究では浮上してきているようです。

まだ、私も勉強中ですが、どうも中国江南地方からやってきた海人族は、南九州、さらに北九州、四国・中国地方の瀬戸内海の島々に住み着き、淡路島・阿波にその拠点をもち、そこから力をつけながら日本全国に勢力を広げていったという感じでしょうか。

まあ、確かに、よそ者がやってきて場合、誰も住んでいない島にまず住み着くのが安全というものです。 そこで、苗族の鹿信仰と日本の島々の鹿信仰が結びついたのかも知れません。 船に乗った鹿を描いた土器が発見されていますが、これは大人しくて体の大きな鹿を食料として乗せていたのだと思います。 鹿児島、志賀島、鹿島、など、鹿の名前がついた島が多く、西日本の多くの島には鹿がいます。



邪馬台国と卑弥呼-34  苗族と鹿信仰
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1281.html
邪馬台国と卑弥呼-27  苗族の天岩戸伝説
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1274.html
邪馬台国と卑弥呼-31  苗族の結婚と日本神話
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1278.html
邪馬台国と卑弥呼-36  犬頭人
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1283.html
邪馬台国と卑弥呼-37  苗族の闘牛
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1284.html
邪馬台国と卑弥呼-54  呉服 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1302.html


今日、常識となっていますが、この中国の江南地方からやってきた海人族が、船で稲作を広めていったという事なのでしょう。


稲作伝来
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1247.html
邪馬台国と卑弥呼-51  稲作伝来-2
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1298.html


国生み神話に関しても、日本のグレートマザーであるイザナミの名を冠した式内社は、全国で徳島にしかありませんし、国譲りの建御名方命にしても、既に紹介したとおりです。


邪馬台国と卑弥呼-63  阿波 伊射奈美(いざなみ)神社
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1311.html
邪馬台国と卑弥呼-64  阿波 多祁御奈刀弥神社 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1312.html


また、阿波には、非常に古い歴史を有した由緒正しい式内社が50座もあり、記紀神話の有名どころの神様はほとんどいるそうです。
大国主命も阿波の神社に鎮座されていますし、その子供である、建御名方命や事代主神の名を冠した式内社も阿波にはあります。  特に、事代主神の名を冠した式内社は、出雲や島根には一社もなく、徳島にしかないようです。 


まだはっきりとした事はいえませんが、天孫降臨とは中国の苗族(呉・越を建国)が南九州に降り立った事をいい、その後、西日本の島々に住み着き、船で稲作をひろめてゆき、その中心となる拠点が淡路島や阿波で、そこから力をつけながら全国に勢力を伸ばした。  そして、苗族の一部である倭族がつくった滇(てん)王国は、シルクロードの南端で、ローマやユダヤの文明も伝わっており、彼らが四国にやってきたとき、そのユダヤの伝説を一緒にもってきた。 


邪馬台国と卑弥呼-45  滇(てん)王国  
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1292.html

それが、阿波(徳島)の剣山に伝わるアーク(聖櫃:日本のお神輿にそっくり)伝説となった。  何より面白いのが、ノアの箱舟がアララト山に漂着した7月17日に、剣山ではお神輿を担いで山頂に登る習慣がある事である。  

剣山アーク伝説高画質版
http://www.youtube.com/watch?v=Jy_9ZQvilZ8&feature=player_embedded#!

女性シャーマンを抱く、滇(てん)王国が、北からの漢民族の侵入を受け衰退をはじめたのが紀元100年頃なので、その時期に倭族は日本に逃れてきた。 彼らが邪馬台国の倭人であり、魏志倭人伝にもあるように、風習が中国の江南地方とそっくりであるというのもうなずける。

邪馬台国と卑弥呼-55  卑弥呼の踊り
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1303.html 

ただ、魏志倭人伝にある倭人の国とは、北九州と南朝鮮あたりで、中国の江南地方からきた人々の事であり、魏志倭人伝の言う邪馬台国は北九州である。

しかしながら、鉄利権を調整するためにつくられた、連立政権である、本当の邪馬台国(初期大和朝廷)は畿内にあり、畿内勢力におされた北九州勢力は、起死回生の手段として魏に朝貢を行った。

それに激怒した、本当の卑弥呼(神功皇后)は、北九州の山門(やまと)の女首長である田油津媛(偽の卑弥呼:起死回生のため魏に朝貢)を誅殺し、北九州を平定。 


邪馬台国と卑弥呼-11  二人の卑弥呼
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1258.html

そして国内を統一した日本は新羅征服、その時、神功皇后は子(応神天皇=仁徳天皇)を宿しており、応神天皇は北九州で生まれ、彼が大和朝廷をひらき、世界最大の陵墓である仁徳天皇陵ができた。  古事記は三巻に分かれ、神話としての応神天皇と、現世としての仁徳天皇の内容が同じなので、応神天皇(神話の世界)=仁徳天皇(現世)と考えて間違いないと思われる。

邪馬台国とは、阿波・淡路島の勢力が、三輪山ふもとの纒向に移動し、出来た連合国家であった。  その証拠に、日本最古(箸墓の数十年~100年前)の巨大前方後円墳は徳島で発見されており、ただし小型で数は物凄く多く、それが100年ほど続いた後、忽然と徳島から姿を消し、その後、近畿地方い巨大な前方後円墳が出現する。



こう考えれば、話のつじつまがあってきます。 


邪馬台国「四国・徳島」説 1/4
http://www.youtube.com/watch?v=O3fHE7Kn4Qc&feature=player_embedded 
邪馬台国「四国・徳島」説 2/4
http://www.youtube.com/watch?v=EI_4166yzs0&feature=related
邪馬台国「四国・徳島」説 3/4
http://www.youtube.com/watch?v=yna36RS39c0&feature=related
邪馬台国「四国・徳島」説 4/4
http://www.youtube.com/watch?v=geNulpaiBNw&feature=related

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中国貴州省・苗族(ミャオ族)に会いたい!その1

http://4travel.jp/traveler/emem/album/10278883/

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飛鳥時代の都と日本初の女帝・推古天皇

http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/vision/history001/yamato003.html


『ヤマト王権の歴史』の項目では、第32代・崇峻天皇(在位587-592)が蘇我馬子の陰謀で暗殺されて、日本初の女帝となる第33代・推古天皇(在位592-628)が即位しますが、第31代・用明天皇は同母兄であり崇峻天皇は異母弟でした。


推古天皇は日本史上で初めて『大王(おおきみ)』ではなく『天皇』という称号を名乗った人物とも言われますが、男性天皇である第40代・天武天皇(在位673‐686)が初めて天皇を呼称したという説もあります。用明と推古の母は蘇我稲目の娘である堅塩媛(かたしひめ)であり、崇峻の母も蘇我稲目の娘の小姉君(おあねのきみ)でしたから、古墳時代の天皇家と蘇我氏の血縁的な結びつきは非常に深いものでした。
日本の歴史時代の区分は、縄文時代(1万年以上前‐B.C.10世紀頃)‐弥生時代(B.C.10世紀頃‐A.D.3世紀頃)‐古墳時代(4‐6世紀)から飛鳥時代(6世紀末‐8世紀初頭)へと続きますが、飛鳥時代にはそれまで中華文明圏から『倭(わ)』と呼ばれていた日本列島が『日本』という国号を用いるようになります。
※服部注:中国支配下になった証拠 
 なお結局、秦一族(秦の始皇帝 ペルシャなど)から大化の改新により唐の藤原支配になり、その後、また秦支配に戻り、陰へ



以前は、奈良の平城京が築かれる前の不安定なヤマト王権の時代をまとめて大和時代(古墳時代・飛鳥時代)と呼んでいましたが、ここ最近は飛鳥地方に都(皇居)が置かれた推古天皇の御世からを飛鳥時代と呼んで区別しています。飛鳥時代には多くの都が造営されましたが、飛鳥地方は現在の奈良県高市郡明日香村周辺の地域にあたり、天香久山の南から橘寺以北の地を指すと言われています。
物部守屋との政争に勝利した蘇我馬子は588年に飛鳥寺(法興寺)を建立し、仏教信仰の祖と言われる聖徳太子は593年に摂津難波の荒陵(あらはか)に四天王寺を建立しましたが、崇仏派・蘇我氏が排仏派・物部氏に勝利したことによって飛鳥時代の幕が開けたとも言えます。厩戸皇子(うまやどのおうじ)とも言われる聖徳太子(574‐622)は物部氏との戦争の勝利を仏に祈願して、『この戦いに勝利すれば、必ず四天王を崇拝する仏塔(寺社)を作る』という誓いを立てました。その結果、四天王寺を建立することになりましたが、用明天皇と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の子である聖徳太子(厩戸皇子)はもともと蘇我氏と深い血縁関係にありました。


蘇我氏の権力拡大と推古天皇(額田部皇女)の登場に伴って飛鳥時代が始まりますが、推古天皇が592年に即位した豊浦宮(とゆらのみや)や603年以降に執政を行った小墾田宮(おわりだのみや)は正確には飛鳥ではありません。飛鳥地方そのものが蘇我氏の権力基盤であったとも言われていますが、飛鳥時代に造営された都(宮・皇居)には以下のようなものがあります。天皇の御所としての宮(都)が建設されることで、中国(隋)や朝鮮(百済)の外交使節を公式に接受できる場所が準備され、日本は中央集権的な独立国としての性格を国内的にだけではなく対外的にも強めていきました。
飛鳥時代に造営された都(宮)

都の名称 天皇と時代区分

豊浦宮(とゆらのみや) 第33代・推古天皇が592年に即位するまでの宮

耳梨行宮(みみなしのかりみや) 推古天皇の暫時的な滞在地

小墾田宮(おわりだのみや) 603年以降、推古天皇と聖徳太子の時代の宮。冠位十二階や十七条憲法の制定。

飛鳥岡本宮(あすかおかもとのみや) 630年以降、第34代・舒明天皇の時代の宮。火災で焼失して一時的に田中宮を設営。

後飛鳥岡本宮(ごあすかおかもとのみや) 板蓋宮が消失した656年以降、第37代・斉明天皇(皇極天皇が重祚)の時代の宮。

飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや) 643年以降、第35代・皇極天皇の時代の宮。蘇我蝦夷(そがのえみし)が建設。645年に大化の改新(乙巳の変)が起きて、第36代・孝徳天皇(軽皇子)が即位。655年に火災で焼失。

難波宮(なにわのみや, 645-655)・難波長柄豊埼宮(なにわながらのとよさきのみや) 652年以降に、中大兄皇子らと孝徳天皇が設営した飛鳥ではなく大阪にある宮。

飛鳥川原宮(あすかかわはらのみや) 655年以降、斉明天皇が一時的に御所とした宮。斉明天皇は飛鳥川原宮から後飛鳥岡本宮へと移る。

近江宮(おうみのみや, 667-672)・近江大津宮(おうみのおおつのみや) 663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた第38代・天智天皇が、667年に後飛鳥岡本宮から遷都したのが滋賀県にある近江大津宮である。天智天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も近江大津宮で即位。

飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや, 672-694) 第40代・天武天皇と第41代・持統天皇の時代の宮。壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)に勝利した大海人皇子(天武天皇)が、天智天皇・弘文天皇の拠点である近江宮(滋賀県)を離れて再び飛鳥(奈良県明日香村)の地に飛鳥浄御原宮を置いた。

藤原京(ふじわらきょう, 694-710) 奈良県橿原市周辺に造営された日本史上最初の条坊制(じょうぼうせい)の本格的な中国風都城(とじょう)である。第41代・持統天皇、第42代・文武天皇、第43代・元明天皇の時代の都で、大和三山(北に耳成山・西に畝傍山・東に天香具山)を抱える壮大な規模の古代日本の首府だった。貴族文化である白鳳文化が隆盛を迎えるが、710年に平城京に遷都し711年に藤原京は焼失する。



592年に崇峻天皇が馬子の命を受けた東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺され、593年に厩戸皇子(聖徳太子)が推古天皇の摂政となりますが、推古朝の時代には蘇我馬子と厩戸皇子が国政の主導権を握っていました。593年には、物部守屋との戦いで仏教に戦勝を祈願して寺社の建立を誓っていた蘇我馬子が、日本初の本格的な仏教寺院となる飛鳥寺(法興寺)を建設しました。飛鳥寺の建設には朝鮮半島の百済(くだら)からやってきた渡来人の技術者や仏僧が活躍したといいますが、当時の中国(隋・唐)や朝鮮(高句麗・百済・新羅)は仏教や学問などが盛んな文明の先進地でした。日本仏教に仏舎利(釈迦の骨)をもたらしたのは司馬達止(しばたつと)であり、日本最古の仏像である飛鳥大仏を制作したのは司馬達止の孫の造仏工・鞍作鳥(くらつくりのとり)でした。鞍作鳥(止利仏師)は古代日本で最も著名な仏像制作者(仏師)であり、文化・芸術・学問が隆盛していた中国の北魏の影響を強く受けていたといわれ、法隆寺金堂の釈迦三尊像を作ったことでも知られています。
聖徳太子(厩戸皇子)の中央集権的な政治改革と外交姿勢

推古天皇の時代の歴史的事件については『日本書紀』『隋書 倭国伝』などに記されていますが、聖徳太子(厩戸皇子)の歴史的な功績と法隆寺関連の伝承については『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』に詳しく記録されています。なぜ、天皇に即位していない聖徳太子に『帝』という呼称がついているのかの理由は不明ですが、現在残っている五部編成の『上宮聖徳法王帝説』は平安時代初期に編纂されたものと考えられています。聖徳太子(しょうとくたいし)という呼び方は後世に付けられた尊称(号)なので、最近では本名である厩戸皇子(厩戸王)と呼ばれることが多くなっています。聖徳太子は、天皇を中心(主権者)とする中央集権国家の整備に尽力した政治家であり、当時の新興宗教である仏教を保護して隆盛させた信仰者として知られています。聖徳太子の中央集権的な政治改革で最もよく知られているものに『冠位十二階(603)』と『十七条憲法(604)』の制定があります。聖徳太子が中国や朝鮮に対峙するための政治改革に関心を寄せるきっかけになったのは、595年に来日して政治・仏教の師となった高句麗の僧・彗慈(えじ)との出会いでした。
摂政の厩戸皇子(聖徳太子)は、603年(推古11年)に儒教の徳治主義と仏教国・百済の官位制を参考にした『冠位十二階(かんいじゅうにかい)』という位階制を制定しました。冠位十二階は儒教の『徳・仁・義・礼・智・信』の徳目を参考にした位によって臣下(豪族)を序列化するもので、天皇が直接豪族を冠位に任命したので天皇の専制権力と権威を強化する目的を持っていました。厩戸皇子は、蘇我氏・大伴氏・物部氏など出身氏族によって身分(職務)が決まる古墳時代の『氏姓制度』を、個人の能力や適性によって冠位(身分)を与える実力主義の要素を持った『冠位十二階』に変革しようと考えました。7世紀初頭の段階では、まだまだ蘇我氏・大伴氏などの有力豪族や血縁集団(氏族集団)の権力が強く冠位十二階の目指す天皇中心体制は十分に実現しませんでしたが、701年の大宝律令の制定に向けて次第に天皇の権力・権威が強化されていきました。実力・功績重視の冠位の任命の事例としては、607年に遣隋使として隋に派遣された小野妹子(おののいもこ)の大礼から大徳への昇進があります。冠位十二階によって始まる古代日本の官位制は、平城京・平安京(奈良・平安時代)で確立した律令国家(りつりょうこっか)の律令官位制として完成度を高めていくことになります。

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秦氏と京都太秦の謎

日本の歴史に大きく貢献した秦氏:八幡宮、八坂神社、稲荷神社、金刀比羅(金毘羅)さんも実は原始キリスト教など



http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=70


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天皇家と藤原氏について

http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa360442.html

天皇家と藤原氏の関係という時、日本の天皇家はどういう家系かということが問題になります。天皇家のような立場は、世界の文化上では珍しいものではなく、これは「シャーマン王」と呼ばれるもののヴァリエーションになります。

しかし日本のシャーマン王家・天皇家は非常に特殊なわけで、どこが特殊化というと、成立発端の時点で、すでに相当に大きな民族のシャーマン王で、初期は世俗王もかなていて、その後、世俗王でなくなってからも、非常に長い期間、家系が永続したことと、シャーマン王として君臨する民族の人口が、莫大なものだったということです。現在では、1億2千万になっています。

人口数万とかの部族のシャーマン王はいるのですが、人口1億を超える民族のシャーマン王は日本にしかいないのです。(ヨーロッパの王家も、シャーマン王家的要素はあるのですが、西欧では、霊的・精神的な中心は、ローマ教皇が古くからいるので、シャーマン王家としては、非常に弱いものになるのです)。

天皇家と藤原氏は、血縁的に見れば、また遺伝子的に見れば、区別がありません。平安時代の中期・後期になって来ると、天皇家の当主と藤原の氏の長者の当主は、天智・天武などの血をどれぐらい受け継いでいるかという点では、同じになります。天皇と藤原の娘の子である天皇が藤原の娘の子を次の天皇にしてゆくということな繰り返したので、天皇家固有の「血」などはなくなったのです。

日本では、天皇に弓を引くことは、ある程度の教養があればできないことだったのです。「古事記」「日本書紀」で、天皇は、天照大神の子孫で、日本を統治するため天から派遣された天の子孫だと書いてある訳です。奈良時代や平安時代初期に、この記述を反復して伝える文書が多数できあがり、人々もそう信じていたので、藤原氏が幾ら権力を握っても、天皇に取って代わることはできなかったのです。

天皇家が世俗王家であれば、藤原氏も取って代わることができたかも知れませんが、シャーマン王家で、「霊力」を持っているのが天皇なので、霊力などない藤原氏には、取って代わることができなかったというのが事実です。

また、藤原氏が、「成り上がり者」だという事実は、奈良・平安を通じて常識でした。藤原不比等が権力を握っても、彼の死後,別の氏族が有力になっていれば、藤原氏の特権性はなかったのですが、不比等に劣らず、政治謀略に長けた、藤原四兄弟を不比等は残したので、彼らが、四つの家に分かれて藤原氏の優越性を作った後、通常の氏族では、太刀打ちできなくなったのです。

しかし、大伴などの古代の名門に比べれば、藤原氏は、不比等が恐るべき有能でしたが、その祖先は、名門などではありません。中臣鎌足が有能であったのは有名ですが、それ以前はというと、記録がありません。飛鳥時代に、中臣勝海という人物がいたとされますが、こういう人物はいなかったという説もあります。鎌足で名を挙げ、不比等で権力を掌握しましたが、鎌足以前は、中臣という氏族は無名であって、実は、氏族としてもなかった可能性が高いのです。

少なくとも、こういう二つの大きな理由(天皇家はシャーマン王家であったと、藤原は成り上がりであった)から、藤原氏は、天皇家にとって代わることはできないし、せず、変わりに、外戚として権力を掌握し、それも代代外戚として、シャーマン王家の外戚家系としての地位を占めたのです。

天皇家と藤原氏は、互いに巻きついた二本のつるのような関係で、天皇家がシャーマン王家、藤原氏は、外戚家で、世俗王の地位を藤原氏が独占したのです。この関係はずっと続くのであり、武士が権力を握って、世俗王の立場に立ち、藤原氏が世俗権力を失った後も、藤原氏は、シャーマン王家の外戚家としての地位に留まり、天皇家と藤原氏は、先に述べたように、互いに絡み合う、二本の蔦のような関係にあったと云えます。

天皇家はあくまでシャーマン王家ですが、血で見れば、藤原氏と天皇家は同じようなものだということになります。違うのは、天皇家はシャーマン王家で、元々霊的に不可侵なのですが、藤原氏が自己の権力保身のため、天皇家をますます不可侵にしたので、鎌倉、室町、江戸と幕府が世俗王の地位についても、天皇家を廃することはできず、戦後、GHQも廃することができなかったのです。

ここ半世紀はともかく、1400年にわたって、藤原氏と天皇家は、シャーマン王家とその外戚家として、互いを支えてきたのだとも云えます。

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大化の改新の詔の創作は、森先生や、遠山先生によって見破られて数年たつ。


2008年にテレビが取り上げていたんだね。
ところで、わたしも2007年から主張し続けてきた。
例の大化の改新から~天智天皇までの分析が済み、ほぼ完全な形で図表化も終了した。
一応ある学会(結構認知されている)に投稿も済んだ。
誤植がひとつあって、
(重要な字の間違い「妹」と「姉」を間違って打ち込んだようだ。
早速明日にでも訂正を連絡してしてもらう。
下の動画は、すでに、言いつくされている内容だが、
ポイントは
大宝律令のコピー(文章を抽出し丸写し)の改心の詔、
評という行政区分の隠蔽、
蘇我氏など、悪役つくりである。
悪役にされた地元大王がいたのだね。
まだほかにもあるが下の動画では、このあたりで十分お分かりになるだろう



Le mystère de l'histoire Japonaise_vol.41 投稿者 abricot5725


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http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/re1.htm

◆縄文人の航海術
 
 『記紀』は、神代を神話として正史と区別して書いてある。そして、神話のもっとも古い部分では、日本の国のことを「大八島国(おおやしまのくに)」と呼んでいる。
 
 神話ができる時代に、すでに日本が島国であるという認識があったといえる。ここでいう島とは、淡路島、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、そして本州をさす。すでにこれらの島々を自由に行き来する航海術が発達していたと考えられる。
 
 縄文時代中期の大規模集落跡である青森市の三内丸山遺跡からは、いろいろな出土品に混じって、ヒスイが出土している。この時代のヒスイはすべて新潟の糸魚川で産出したものであると分かっており、三内丸山遺跡と糸魚川の間の地域ではヒスイはほとんど発見されていない。同遺跡からは船のオールも発掘されていることから、かなりの航海術をもって、そんな遠くまで行き来していたと察せられる。
 
 
 
◆縄文式土器の文様
 
 縄文式土器のような「文様」の装飾がある土器は、世界でも珍しいという。ただし、縄文人がわざわざあの文様をつけたのには理由がある。単に装飾のためではないのだ。
 
 その第一の理由は、土器の耐久性を高めるため。土器は粘土を焼いて作るが、粘土の中に空気が混じっていると、 途中で割れたり、たとえ出来あがっても割れやすくなってしまう。そこで、焼く前の土器に縄をぐいぐい押しつけて、粘土の中の空気を追い出したわけだ。
 
 そして第二の理由は、すべり止めのためだ。土器は魚や動物の肉を煮るために使われたが、脂肪分が表面についてすべりやすくなる。しかし、土器の表面にざらざらした文様があれば、持ちやすくてすべりにくい。あの文様が取っ手がわりにもなったというわけだ。
 
 
 
◆日本誕生の神話
 
 混沌の中から天と地が分かれ、天は高天原(たかまがはら)とよばれて多くの神々があらわれ、そこに住まい始めた。
 
 そこにイザナギとイザナミという男女の神が、天浮橋(あめのうきはし)から天(あめ)の沼矛(ぬぼこ)を下ろして、「こをろ、こをろ」と海中をかき回し、それを引き上げたところ、矛先からしたたり落ちた潮水が固まって「オノコロジマ」ができた。
 
 イザナギとイザナミの二神はオノコロジマに降りていって、そこでエッチをした。そうして生まれた子どもが、淡路島、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、そして本州だった。
 
 八つの島からなるので、「大八島国(おおやしまのくに)」とよび、こうして日本が誕生した。
 
 
 
◆邪馬台国は架空の存在?
 
 学者さんたちの間では、「邪馬台国は存在しなかった」、すなわち邪馬台国は架空の存在であるとする説が有力になっているという。しかし、今では、邪馬台国そのものを生業(なりわい)にしている人たちが多くいるものだから、どうも、言いたくても言えないらしい。その説の論拠はおおよそ次のようなものだ。
 
 そもそも邪馬台国を紹介している『三国志』は史実を性格に記す歴史書ではなく、司馬仲達をたたえる書物を書けという命令によって執筆されたもの。朝鮮半島を平定し、晋の基礎を築いた司馬仲達だが、その威光をもっと拡大するため、邪馬台国のような存在が必要となった。
 
 そこで、彼の威光は海を渡って邪馬台国という国まで及んだ、その邪馬台国から貢物を持ってやって来たという話は格好の材料となった。当時の敵だった呉にプレッシャーをあたえる意味でも、日本の南方の国から貢物があるという話が必要だった。だから、邪馬台国はまったく架空の存在である、と。
 
 
 
◆紀元前660年に即位した?神武天皇
 
 神武天皇は『古事記』『日本書紀』が創作した架空の天皇とされる。その「神武東征神話」は、おおよそ次のような内容。
 
 ―― 日向の高千穂にいた神武天皇が、あるとき東征を思い立ち、瀬戸内海を軍船で進み、河内の白肩津に上陸。生駒山を越えて大和に入ろうとしたが、その地の豪族・長髄彦の抵抗にあい進めなくなった。
 
 そこで、紀伊半島を迂回し、熊野から大和に入り、長髄彦を征伐した。その戦いは不利な形勢だったが、金色のトビが神武の弓にとまり、その光のまぶしさに敵がひるんだため、劣勢を挽回できた。そして、紀元前660年、橿原宮において初代天皇として即位した。――
 
 なぜ紀元前660年かというと、『古事記』『日本書紀』の編纂に際しては、中国の辛酉革命の思想、すなわち「1260年ごとの辛酉の年に革命が起こる」という説をとり入れ、推古天皇の辛酉の年(601年)から単純に1260年さかのぼった年を神武天皇即位の年と決めてしまったから。このころは、日本はまだ縄文時代だ。
 
 
 
◆日本武尊の「草薙の剣」
 
 日本武尊(やまとたけるのみこと)は、神話に登場する人物だが、彼が関東地方の敵を平定するため、相模から船に乗って房総半島に向かったときに暴風に襲われた。
 
 いよいよ船が危うくなったとき、妃のオトタチバナヒメが、「私が海に入って海の神を鎮めましょう。あなたは必ず任務を果してください」と言って、海中に身を投げた。
 
 そのとき妃は、「さねさし さがみの小野にもゆる火の 火中(ほなか)にたちて 問ひし君はも」という歌を残していった。
 
 これは、「焼津で火攻めに遭ったとき、その火の中で、あなたは私を心配してかばってくださった。その面影を抱いて、私は海に入ります」という意味だ。
 
 日本武尊は首尾よく敵を平らげ、足柄山にもどってきた。そして、そこから相模湾を見下ろし、海に沈んだオトタチバナヒメを偲んで、「吾妻(あづま)はや」(わが妻よ)と三度呼びかけた。それで関東地方(東国)のことを「あづま」と呼ぶようになった。
 
 また、彼が使っていたという剣が現存している。そして、この剣にはさまざまな物語が遺されている。
 
 父・景行(けいこう)天皇の命令で相模国(神奈川県)に遠征した日本武尊は、敵にあざむかれて、野原の中に入ったところ、野に火をつけられて、あやうく焼き殺されそうになる。
 
 そのとき、出征にあたって、叔母の倭比売命(やまとひめみこ)から与えられていた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で草を薙(な)いで助かり、逆に敵を焼き殺した。
 
 このことによって、この剣を「草薙(くさなぎ)の剣」とよぶようになり、その後、この地を焼津(やいづ)と言うようになった。
 
 日本武尊が亡くなると、妃の宮簀媛命(みやずひめのみこと)が草薙の剣を祀り、これが熱田神宮の由来となった。草薙の剣は、三種の神器として、歴代の天皇に受けつがれる皇位のしるしとなり、今なお熱田神宮に現存している。焼津の地名ももちろん残っている。
 
 
 
◆熊野に残る徐福伝説
 
 今からおよそ2200年前、新宮(和歌山県)の海浜に徐福の一行が上陸した。徐福は、秦の始皇帝の命令により、蓬莱の国にあるという不老不死の仙薬を求めて渡来した漢方士だ。中国の調査でも、徐福は実在の人物とされ、彼が生まれた村も発見されたという。彼がやってきたころの日本はというと、縄文時代から弥生時代に移り変わるころで、ようやく稲作が始まったばかりだ。
 
 徐福は「天台烏薬(てんだいうやく)」という薬木を見つけたが、この地の温暖な気候と穏やかな人々が気に入り、ずっと住み続けたいと思った。またその一方では、始皇帝の圧政から逃れ、多くの技術者と3000人の男女を連れ、自らの理想郷を創るために中国からやってきたという説もある。その後、地元民との触れ合いのなかで、農耕や漁法、捕鯨、紙すきなど当時の最新技術を伝えたという伝説が残っている。
 
 このような伝説は日本各地にあるが、熊野地方にはとくに多くの伝承資料が残っている。現在徐福公園となっているところには徐福の墓があり、熊野三山に準じて信仰を集めた阿須賀神社には徐福の宮がある。この宮は、幕末に描かれた新宮本社末社図にも見られる。
 
 
 
◆磐姫伝説
 
 仁徳天皇の皇后、磐姫(いわのひめ)はひどく嫉妬深い女性として、『古事記』『日本書紀』に描かれている。『万葉集』にも、磐姫の作とされる、天皇を慕う情熱的な歌が載っている。彼女は、天皇が侍女や妃を宮殿に入れることを許さず、何かしらの気配を感じ取ると地団駄を踏んで口惜しがったという。
 
 ところがある時天皇は、美しいと評判の黒日売(くろひめ)を宮中に召し上げた。しかし黒日売は皇后の嫉妬をおそれ、船で故郷に逃げ帰ろうとした。船出を嘆いた天皇が歌を詠んだところ、磐姫はひどく怒り、黒日売を船から追い下ろさせ、陸地を徒歩で行かせた。
 
 またある時天皇は、磐姫が留守の間に、八田郎女(やたのわきいらつめ)と結婚した。それを知った磐姫は宮中に戻ろうとせず、山城国筒木の宮に籠(こも)ってしまった。仕方なく天皇は、自ら磐姫を迎えに行ったという。
 
 
 
◆仏教伝来
 
 仏教は、538年に百済の聖明王から欽明天皇に伝えられたとされるが、これ以前から渡来人の間で私的に信仰されていた。
 
 欽明天皇が聖明王から献上された仏像をご覧になって、「私も、この柔和な面立ちの仏像を拝んでみたらどうであろうか」とおっしゃった。
 
 これを聞いた開明派の蘇我稲目は喜んで、「西の諸国は、みなこれを礼拝しています。日本の国だけがどうして背くことができましょうか」と答えた。
 
 しかし、国粋派の物部尾輿と中臣鎌子は、「わが国において帝位にある者は、つねに天地国家の百八十の神々を、春夏秋冬、祀り拝むのがお仕事です。今になって外国の神を新しく拝むならば、日本のカミの怒りを招いてしまいます」と申し上げた。
 
 これをお聞きになった天皇は、日本の神々の怒りに触れては大変と、拝仏は取りやめ、その仏像を稲目に預け、勝手に京都あたりでの流布を試みてみよとお命じになった。
 
 
 
◆とことん対等外交
 
 隋の煬帝が怒ったという、「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」の手紙は有名だ。中国の文献に記録された“日本からの手紙”が原文で残っている稀有な例。たいていは、皇帝が喜ぶように役人によって改ざんされるのが常だったからだ。
 
 いずれにしても、当時の東アジアにおいて、中国の皇帝に対等に渡り合おうとする気概を持ったのは日本人だけだった。なお、聖徳太子が二度目に煬帝に送った手紙は、次のような書き出しだった。
 
「東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に白(もう)す」 
 
 このころ、「天皇」という称号が確立した。隋との国交が開始されるまでは、日本の外交は朝鮮との間にあるだけだった。朝鮮の「王」に対し、日本は格上の意識から「天王」としていた。ところが、隋には「皇帝」がいた。「皇」とは「王」の上に君臨するものと分かった。そこで、日本は「天王」をただちに「天皇」に変更した。

 
 
 
◆聖徳太子が引越しした理由
 
 聖徳太子が活躍した時代は、飛鳥が政治の中心地だったことから、飛鳥時代とよばれる。その時代の文化も飛鳥文化とよばれ、法隆寺がその代表とされる。しかし、法隆寺があるのは飛鳥ではなく、そこから西北に16キロ離れた斑鳩(いかるが)だ。これはなぜなのか。
 
 『日本書紀』によれば、推古天皇13年(605年)、聖徳太子は、それまでの住まいだった飛鳥の上宮を引き払い、斑鳩に移り住んだとされる。そこで斑鳩宮を造営し、607年に法隆寺を建立している。
 
 この突然の引越しの理由については、いくつかの説がある。一つは、冠位十二階の制定が603年、十七条憲法の制定が604年で、これ以降はとくに聖徳太子の政治面での成果が見られないことから、政治の第一線から身を引いた、すなわち、蘇我馬子との政争に敗れたとするもの。
 
 二つ目は、そこまででないにしても。何らかの理由で蘇我馬子と不仲になったとするもの。聖徳太子は馬子の娘と膳(かしわで)氏の娘の二人の妻を娶っていたが、斑鳩は膳氏の本拠地だ。片方の妻のもとに身を寄せたというのは、蘇我氏との関係が悪化したことは充分考えられる。
 
 三つ目は、むしろ積極的な理由によるもので、難波に近い場所に移転し、対外交渉を推進しようとしたというもの。
 
 どれが本当の理由なのか、今となっては皆目分からないが、『天皇記』『国記』などの歴史書を編纂したのが620年だから、その後も文化事業に注力していたのは間違いない。
 
 
 
◆富本銭は最古の貨幣?
 
 富本銭よりも前、少なくとも天智天皇の時代以前に銀貨がつくられたことが分かっており、現物もわずかながら出土している。形は不ぞろいながら、重さは10グラムに統一されているため、一部の貴族たちの間で取引されていたものとされる。
 
 ただ、当時の銀は高価であり、それ自体が物品価値をもっていた。一方、富本銭は、現在の通貨のように、それ自体の価値は低く、国家が通貨の価値を保証することによって流通するお金だった。
 
 前者を「物品貨幣」といい、後者を「名目貨幣」という。したがって、富本銭は名目貨幣としては日本最古ということになる。
 
 
 
◆天智天皇の決意
 
 7世紀の朝鮮半島は、高句麗・新羅・百済の三国に分かれていた。隋の煬帝は何とか朝鮮半島を傘下に治めようと、高句麗に遠征したが失敗、それが原因で隋は滅びてしまった。隋を倒した唐は、まずは新羅と結託して百済に攻め入り、これを滅ぼした。その滅亡の日には、王城があった山の断崖から3000人の官女が白馬江に身を投じたという。そして唐と新羅の連合軍は、さらに高句麗も滅ぼした。
 
 これを見た、わが天智天皇は、祖国回復を求める百済の残党と行動を共にし、唐に対抗することを決意した。日本と百済が友好関係にあったこともあるが、何より日本はずっと新羅を憎んでいたからだ。かつて朝鮮半島にあった日本の領土、「内宮家(うちつみやけ)」と呼ばれていた「任那(みまな)」を新羅に奪われてしまったのだ。
 
 あの聖徳太子も新羅征討を企てたほど、歴代天皇にとって任那奪還は悲願だった。その新羅が今度は友好国の百済を、唐と組んで滅ぼしてしまった。天智天皇の怒りは心頭に発したのである。それからもう一つ、いずれ新羅も唐に滅ぼされ、次は日本の番だという思いもあっただろう。
 
 天智天皇は大規模な援軍を送り込み、朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)で唐・新羅連合軍と戦った。結果は大惨敗。戦いの後、天智天皇は唐の侵略に恐れおののいた。そのため、都を内陸深く近江に遷し、各地に城を築いた。しかし、けっきょく唐は攻めてこなかった。なぜだろう。
 
 それは新羅が唐に抵抗し、がんばったからだ。唐の保護国のようにはなったが、あれほど憎かった新羅が結果的には唐の防波堤になってくれたのだ。
 
 
 
◆壬申の乱
 
 天智天皇の死後、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と息子の大友皇子(おおとものおうじ)が後継者を争って、古代最大の争乱といわれる壬申の乱が起きた(672年)。当時は父の後をその子供が継ぐというルールが確立しておらず、兄弟相続も見られたことが戦いの一因となった。
 
 天智天皇も当初は、白村江の戦いから大津宮への遷都などの苦難をともに乗り越えてきた弟の大海人皇子を皇位継承者として認めていた。しかし、大友皇子が成長すると、やはり我が子がかわいくなり、しだいに大海人皇子を遠ざけるようになった。
 
 大海人皇子は暗殺を恐れて、病床の天智天皇に、皇位に野心のないことを示すため出家の意志を告げて、大津宮から100kmも離れた吉野に引きこもった。それでも、世間は「虎に翼をつけて野に放ったようなものだ」と、大海人皇子を野放しにした怖さを噂しあったという。
 
 天智天皇の死後、大友皇子は弘文天皇として即位し、吉野攻めの準備を始める。それを知った大海人皇子は、東国からの大友皇子への支援ルートをさえぎるため鈴鹿関をふさぎ、自軍を組織する。大海人皇子への信頼・同情や弘文天皇への反発もあり、中小豪族や没落した中央豪族などが大海人皇子方についた。不破関から近江に入り、大津宮を襲った。
 
 戦いは1ヶ月で終わり、大友皇子は自殺した。大海人皇子は都を飛鳥に戻し、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位して天武天皇となった。
 
 
 
◆大化の改新はなかった?
 
  『日本書紀』によれば、大化の改新の始まりは、645年、中大兄皇子が中臣鎌足らと組んで蘇我入鹿を飛鳥板蓋宮で暗殺し、父の蘇我蝦夷の屋敷を襲って自殺させたこととされている。
 
 その翌年の正月に出された改新の詔は、(1)公地公民制の原則、(2)行政区画、軍事、交通制度の制定、(3)班田収授法、(4)新税制の4条からなり、中央集権国家にむけての第一歩をしるしたものだ。
 
 ところが近ごろの研究では、この大化の改新はなかったのではないかという説が有力になってきている。その根拠は、詔が、その後に出されたものに比べてあまりに整いすぎていること、後の701年に出された大宝律令の条文に酷似していること、とくに第2条にある「郡」の表現はこの時代には使われていなかったとされる。
 
 公地公民もこの時期から実施された形跡もなく、けっきょく、大化の改新はなかったわけではないが、後世にかなり脚色されて『日本書紀』にまとめられたのではないかという。
 
 
 
日本史年表①
  
【先土器時代】
 
1万年以上前の日本列島は大陸と陸続き(氷河時代)。
南方からナウマン象、北からマンモス。
群馬県の岩宿遺跡
打製石器
土器はまだ使っていなかった。
 
 
【縄文時代】
 
約1万年前~紀元前3世紀頃
縄文土器
打製石器・磨製石器
弓矢の発明、貝塚
竪穴住居・土偶
青森県の三内丸山遺跡
 
住居の作り方や墓地が共同であったことから考えて、身分や差別はなく、貧富の差もなかった。
 
 

 

 
  
【弥生時代】
 
紀元前3世紀~3世紀ころ
大陸から米づくりの技術が伝わる
鉄器が伝わる
青銅器が伝わる
静岡の登呂遺跡
佐賀県の吉野ケ里遺跡
貧富の差、身分の差
「むら」から「くに」へ
 
倭人、分かれて百余国、楽浪郡に入貢するものあり(「漢書地理志」)
 
57年
奴国王が後漢の光武帝から金印を授かる
 

 
150年
このころ国内に大乱
 
188年
卑弥呼が邪馬台国の女王に
 
239年
邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送る
 
247年
卑弥呼、狗奴国と戦う
まもなく卑弥呼没し、壱与女王となる
 
266年
倭の女王壱与、晋に使を送る
 
 
【古墳時代】
 
285年
漢字が中国から伝わる
 
350年
このころ大和朝廷が国内をほぼ統一
古墳文化
 
391年
任那に日本府を設ける
 
478年
倭王武、宋に遣使、安東大将軍の号を受ける
 
512年
大伴金村、任那の4県を百済に与える
 
538年
百済から仏教が伝わる
 
562年
任那の日本府が滅ぶ

 
【飛鳥時代】
 
574年
聖徳太子の誕生
 
587年
蘇我氏が物部氏を滅ぼす
 
589年
隋が中国を統一
 
593年
聖徳太子が摂政となる
 
594年
仏教興隆の詔
 
 
 
603年
冠位十二階を定める
 
604年
十七条の憲法を定める
 
607年
小野妹子を隋に送る
奈良に法隆寺を建てる
 
618年
唐が中国を統一
 
622年
聖徳太子が死去
 
626年
蘇我馬子が死去


 
630年
遣唐使の派遣
 
643年
蘇我入鹿、山背大兄王を殺す
 
645年
乙巳の変
 
646年
大化改新の詔
 
663年
白村江の戦い
 
667年
大津宮に都を移す
 
668年
中大兄皇子が即位、天智天皇となる
  
670年
庚午年籍を作る
 
671年
天智天皇が死去
壬申の乱
 
673年
天武天皇が即位
 
684年
八色の姓を制定
 
694年
持統天皇が藤原京に都を移す
 
701年
大宝律令の制定
 
708年
和同開珎がつくられる
 
 
【奈良時代】
 
710年
平城京に都を移す
 
712年
「古事記」ができる
 
713年
国ごとに「風土記」の編纂を命じる
 
718年
養老律令が出される
 
720年
「日本書紀」ができる
 
723年
三世一身の法が出される
 
724年
聖武天皇が即位
 
729年
長屋王の変
 
740年
藤原広嗣の乱
 
741年
国分寺・国分尼寺の建設が始まる
 
743年
墾田永年私財法が出される
大仏造営の詔
 
752年
東大寺の大仏ができる
 
754年
鑑真が来日
 
 

 
 
756年
聖武天皇が死去
東大寺正倉院ができる
 
757年
橘奈良麻呂の乱
 
759年
鑑真が唐招提寺を建立
「万葉集」ができる
 
 

 
 
764年
恵美押勝の乱
 
765年
道鏡が太政大臣禅師となり権力をふるう
 
766年
道鏡が法王となる
 
770年
道鏡が下野に流される
阿倍仲麻呂が唐で客死
 
781年
桓武天皇が即位
 
784年
長岡京に都を移す
 
 
【平安時代】
 
794年
平安京に都を移す
 
797年
坂上田村麻呂が征夷大将軍になる
 
804年
最澄と空海が唐に渡る
 
805年
最澄が天台宗を伝える
 
806年
空海が真言宗を伝える
 
810年
蔵人所を設置
 
816年
検非違使を置く
 
842年
承和の変
 
858年
藤原良房が摂政となる:人臣摂政の初め
 
874年
このころ国風文化
 
887年
藤原基経が関白になる
 
888年
阿衡の紛議
 
894年
遣唐使を停止する
 
901年
菅原道真が大宰府に流される
 
 

 
 
902年
荘園の大整理
 
905年
「古今和歌集」ができる
 
935年
平将門の乱・藤原純友の乱
「土佐日記」ができる
 
960年
中国に宋が起こる
 
974年
このころ「蜻蛉日記」ができる
 
995年
藤原道長が右大臣となる
このころ「枕草子」ができる
 
1000年
定子が皇后、彰子が中宮となる
 
1010年
このころ「源氏物語」ができる
 
 

 
 
1016年
道長が摂政となる
 
1017年
藤原頼通が摂政となる
 
1051年
前九年の役
 
1053年
頼通が平等院鳳凰堂を建てる
 
1060年
「更級日記」ができる
 
1069年
後三条天皇が荘園を整理
 
1083年
後三年の役
 
1086年
白河上皇が院政を開始
「大鏡」ができる
 
1105年
藤原清衡が平泉に中尊寺を建てる
 
1129年
鳥羽上皇が院政開始
 
1156年
保元の乱
 
1159年
平治の乱
 
1167年
平清盛が太政大臣になる
 
 

 
 
1175年
法然が浄土宗を開く
 
1177年
鹿ケ谷の陰謀が発覚
 
1180年
源頼政が以仁王お奉じて挙兵
福原に遷都
源頼朝が伊豆に挙兵
源義仲が信濃に挙兵
頼朝が鎌倉に入る
 
1181年
平清盛が死去
 
1183年
木曽の源義仲が平氏を攻めて京都に入る
このころ、「保元物語」「平治物語」ができる
 
 

 
 
1184年
源義仲、征夷大将軍となり、のち敗死
一の谷の戦い
源頼朝、公文所・問注所を設置
 
1185年
壇ノ浦の戦い:平氏が滅びる
源義経が鎌倉に入れず腰越状を書く
源頼朝が全国に守護・地頭をおく
 
1187年
源義経が藤原秀衡を頼る
 
1189年
源義経が討たれる
源頼朝が奥州を平定
 
  

 
⇒目次へ
【奈良時代】
 
◆「平城京」は何と読む?
 
 平城京は、唐の都・長安をまねてつくったとされる。しかし、長安は羅城(らじょう)といって、都市全体が高い城壁で囲まれていた。同じように唐をまねた朝鮮やベトナムの国々は羅城となっているが、日本はそうなっていない。ただ、「京城垣(けいじょうがき)」という境界を示す垣根は存在したようだ。
 
 これは、決して城壁の建設費用をケチったわけではなく、中国・朝鮮・ベトナムなどの国々が陸続きで、いつ他民族に侵略されるか分からないという危機意識があったのに対し、島国である日本にはその心配がなかったからだといわれている。
 
 ところで、この「平城京」は、奈良時代には「へいじょうきょう」ではなく、「ならきょう」と読まれていた可能性がある。平城と書いて「なら」と読ませている例が多数見られるからだ。ほかにも「乃楽」「寧楽」なども「なら」と読ませており、これらは平安時代になって「奈良」に統一されたらしい。
 
 
 
◆藤原不比等が大出世した理由?
 
 藤原氏繁栄の礎を築いた藤原不比等は、大化の改新の功労者・藤原鎌足の次男とされているが、皇族中心の政治の中枢にあって、その成功ぶりは尋常ではない。
 
 そこでウワサされたのが、不比等は天智天皇の御落胤であるというもの。しかも、『大鏡』の第5巻には、
 
「天智天皇は鎌足をたいそう気に入り、自分の目をかけた娘をひとり下げ渡された。その娘は、天皇の胤を宿していた。(中略)天皇は鎌足に
 
『男なら鎌足の子とせよ。女ならばわが子としよう』
 
とお約束された。そして生まれたのが男だったため、鎌足の子とされた。(中略)天皇の皇子である方は、右大臣にまでなられた、藤原不比等の大臣でいらっしゃる」
 
と、はっきり記されているという。
 
 
 
◆『万葉集』について
 
 『万葉集』が、いつだれによって編集されたか正確には分かっていない。序文も跋文もなく、同時代のほかの文献にも『万葉集』について書かれたものがないからだ。作歌年月が明記されている歌で最も新しいのは、天平宝字3年(759年)正月一日の大伴家持の作だ。したがって、今の形の『万葉集』が759年以降に成立したのは間違いない。それでは、それ以後のいつであるかとなると、平安時代初期まで下る説もあって定かではない。だいたい奈良時代の末と見る説が有力だ。
 
 編者についても、橘諸兄とする説、大伴家持とする説、橘諸兄と大伴家持であるとする説がある。『万葉集』は全20巻からなるが、巻々によって編集様式がさまざまであることから、一人の手で集中統一的に編集されたとは考えられない。しかし、巻第十七から巻第二十までが家持の歌日記のような形になっていることや、巻第十六までにも家持の父・旅人やその周辺の人々の歌が多いことから、最後にまとめあげたのが家持だとするのが有力となっている。
 
 「万葉」の意味については、「万(よろず)の言(こと)の葉」(多くの歌)とするものと、「万代・万世」(多くの時代にわたる)とするものの二説に大別される。しかし、「葉」を「言葉」の「葉」の意味に用いるようになったのは平安中期以後であるのに対し、「葉」を「代」「世」の意味に用いた例は、上代の文献にしばしば見られ、また中国の用例にもあるため、今では後者の説が定着している。
 
 『万葉集』に収められている歌は4500余首で、歌われる土地が全国に及び、記名のある作者約480人で、天皇から庶民まであらゆる階層にわたっていることから、和歌の集大成を試みた国家的事業だったと考えられる。
 
 表記は、漢字の音と訓を表音的に用いた、いわゆる万葉仮名でなされている。万葉仮名は、日本が固有の文字を持たなかったために、中国から渡来した漢字を日本語の表記に応用したもので、この表記法によっている。そのため、平安時代にはすでに読解がむずかしくなり、久しく忘れられていたが、和歌の復興とともに、勅撰集と考えられて尊ばれるようになった。
 
 
 
◆『古事記』はいつ出来た?
 
 712年に出来上がったとされる『古事記』。その編纂にかかわったのは稗田阿礼とされる。しかし、稗田阿礼という人物は実在したかどうか不明なのだ。そして、『古事記』ができたのは、実はこれより100年後あたりではないかとする説がある。
 
 その理由は『日本書紀』にも『続日本記』にも『古事記』ができたという記録がまったくないこと、それから、『日本書紀』にはゴマンとある写本が、『古事記』だと1371年ころに写されたものが最古で、それまでの写本が一切見当たらないこと。
 
 だから、太安万侶が亡くなって100年後くらいに、私の家に伝わっている古文書がありますと持ち出した人がいて、それを元に書かれたのではないか、という。なぜ100年後かというと、当時の仮名遣いとピタリ一致するから。
 
 
 
◆光明皇后
 
 皇后は、古代には「おほきさき」と呼ばれていた。律令時代以後は「皇后」と書き、その次に「后」と「夫人」を置いていた。そして、日本で初めて人民出身の皇后となったのが光明皇后(第45代聖武天皇の皇后)だ。
 
 日本の皇室は、古代においては濃厚な血族結婚であり、皇后はつねに皇族から出た。ところが聖武天皇が皇太子だったころ、藤原不比等の三女・安宿媛(あすかべひめ)を夫人にし、十数年後に皇后とした。
 
 前例のないことだったため、宮廷でも異議があったらしく、天皇はわざわざ長い詔勅を出して弁明している。安宿媛の女性としての魅力にくわえて、どうしても皇后の地位に昇進させたい慈悲、聡明さを備えていたのだろう。
 
 そして光明皇后が天皇にあたえた精神的影響力はたいへん大きかった。皇后は天皇に仏教を尊信することをすすめ、天皇は、日本の各地に七重の塔を持つ国分寺と国分尼寺を建立した。さらには、この小さな島国に、唐にも天竺(インド)にも存在しない三国一の大伽藍・東大寺を建立した。この世界的大事業には、朝鮮や中国からのみならず、インドのバラモンやトルコ人まで参加した。
 
 もっとも、莫大な国費を使うものであったため、事業を始めるに際し、天皇は慎重をきわめた。カミとホトケの関係もあった。まず天平14年(742年)に橘諸兄を伊勢神宮に遣わして、この寺を建てる神勅を乞うた。また宇佐八幡宮にも勅使を出して、応神天皇の霊の託宣を得た。そのうえで天平15年10月15日に着手することを発表、天平勝宝4年(752年)に大仏開眼供養を迎えるまで10年を費やす大事業だった。
 
 
 
◆大仏さまの災難
 
 奈良東大寺の大仏の開眼供養が行われたのは、752年4月9日のこと。ところが、現在に至るまでの千年以上の歴史の中では、大仏様にもずいぶんご苦労があったようだ。
 
 まず最初の災難が、源平争乱のさなかの1180年。大仏もその戦火に巻き込まれ、東大寺もろとも焼け落ちてしまう。火をつけた犯人は平重衡の軍勢とも、般若寺の僧兵ともいわれるが、はっきりしない。
 
 後に源頼朝によって大仏は再建されたが、再び災難がやってくる。戦国時代まっただ中の1567年、今度は松永久秀の軍勢によって焼き払われてしまう。誰も大仏のことを気にかけている余裕はなかったから、百年以上後の1692年になってようやく再建された。
 
 というわけで、現在、我々が見ている大仏様は、三代目ということになる。ただし、台座の部分だけは、奈良時代に造られた時のままだそうだ。ありがたい、ありがたい。
 
 
 
◆続けられた長岡京建設?
 
 天武系が断絶してしまった平城京は、天智系の皇族にとっても不運な都だと考え、新都建設にふみきった。
 
 しかし、785年、新都の造営長官だった藤原種継が暗殺された。天皇の弟の早良親王が関係しているとして捕らえられたが、早良親王は無実を主張して断食をし護送中に憤死した。
 
 その後、天皇の身内が相次いで亡くなり飢饉や天変地異も頻発したため、早良親王の祟りだと噂され、不安にかられた桓武天皇は和気清麻呂らの進言もあって、793年に長岡京放棄を決定、789年に再び新京を着工したとされる。
 
 ところが、長岡京の離宮跡の建物群の建設作業が790年前後にも続いていたと推定され、早良親王の祟りを理由とするにはつじつまが合わないところがある。
 
 
 
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【平安時代】
 
◆なぜ、蝦夷征伐?
 
 坂上田村麻呂がはじめての征夷大将軍に任命されたのは797年のことだ。しかし、はるか遠い地の蝦夷が京に攻め上ってくるなどありえなかったのに、なぜ蝦夷をやっつける必要があったのか。これについては、司馬遼太郎さんが次のように述べておられる。
 
 「こんにちいうところの東北地方(陸奥と出羽)は、日本海地方の多くは古くから農業地帯になっていたが、内陸や太平洋岸には、縄文以来の狩猟・採集のくらしをする人々が多かった。大和朝廷はこれを不安とし、ひたすら農業と定住を勧めたが、これを不快とする反乱がたえまなく、とくに桓武天皇のときに多発した。その鎮撫の総帥として宮廷武官の坂上田村麻呂がえらばれた」
 
 桓武天皇は、8世紀以降、蝦夷開拓を積極的に推し進め、多賀城などの軍事拠点を造営し、次第に北への支配地域を拡大していった。そして、蝦夷最大の拠点だった胆沢(いさわ)(岩手県水沢市)を攻略するため遠征軍を派遣したが、思わぬ反撃にあい、以後、3次にわたる大遠征を余儀なくされた。
 
 第1次の遠征は789年、紀古佐美(きのこさみ)を征夷将軍とする5万2800余人の軍が派遣された。対する蝦夷軍は、族長アテルイが率いる千数百人。圧倒的に劣勢のはずの蝦夷軍が、神出鬼没の戦術によって朝廷軍を撃破した。
 
 第2次の遠征はその5年後に派遣され、朝廷は10万の兵を投入した。坂上田村麻呂はこのとき副将軍として参加している。しかし、その大軍をもってしても蝦夷の抵抗を打ち崩すことができなかった。
 
 そうして801年、第3次遠征では、田村麻呂が征夷大将軍となって4万の兵を率いた。そして、ようやく蝦夷を平定し、アテルイを降伏させた。そして、新たな拠点となる胆沢城を築いた。
 
 降伏したアテルイは京に連行されるが、田村麻呂は朝廷にかけあい、彼に官位をあたえ蝦夷支配の責任者に任じてもらうつもりだった。しかし、田村麻呂の意見は受け容れられず、朝廷はアテルイを処刑した。和睦に応じたアテルイをだまし討ちにしたのだ。
 
 
 
◆清少納言について
 
 『枕草子』の作者である清少納言。この呼び名は本名ではなく、一条天皇の中宮・定子に仕えたときの女房名とされる。「清」は歌人として有名だった父・清原元輔の姓「清原」の略称、「少納言」は、当時の慣習で夫・父・兄など近親者の官名からきているが、誰が少納言だったかは不明。生没年も不祥だが、966年ころの出生ではないかと推定される。
 
 若くして橘則光(たちばなののりみつ)と結婚し、一子・則長(のりなが)を生んだが、則光とは離別、その後宮仕えに出仕、後に藤原実方(ふじわらのさねかた)と再婚したが長続きせず、晩年には藤原棟世(ふじわらのむねよ)と結婚して小馬(こま)という女子を出産したらしいという説が一般的だ。
 
 晩年には父・元輔の旧邸があったところで、定子の御陵にも近い月輪(つきのわ)(今の京都市東山区今熊野町)に住み、60歳近くで没したのではないかといわれる。後世の説話として、零落した晩年生活であったとか、地方を流浪したとか伝わっているが、これは美女、才女の流浪伝説にすぎないと考えられる。
 
 清少納言が、定子に出仕した時期は、993年ごろ、定子18歳、清少納言は28歳のとき。当時は定子の父、関白・藤原道隆の全盛期であり、明るく聡明な定子の庇護のもとに、才能を十分に発揮した清少納言にとって、宮中生活は意にかなうものであったようだ。
 
 道隆が没し、道長の世となった後は、後身のない定子の後宮はにわかにさびれたが、清少納言は献身的に定子に仕えた。
 
 宮廷を辞去したのは、定子が24歳で崩御した後、ある期間の服喪を終えてからと考えられる。約10年間の宮仕えだった。
 
 
 
◆清少納言が仕えた中宮・定子
 
 清少納言が、一条天皇の中宮(皇后)定子に始めて出仕した時(正暦4年ころ)、定子18歳、清少納言は28歳だった。定子は、中関白と称せられた藤原道隆を父とし、漢詩人として名高い貴子を母として誕生した。正暦元年(990年)に一条天皇の後宮に入内し、中宮となった。
 
 清少納言が始めて出仕したころは、中関白家の全盛期で、定子の宮廷生活も華やかに賑わい立つ日々だった。定子は生来のすぐれた資質に加え、父の明るい性格や母の学才を受けついで、周囲の人間をひきつけずにはおかない人柄だった。その並びない才色で、一条天皇の寵愛を一身に受けた。
 
 しかし、長徳元年(995年)に道隆が死去すると、その栄華は一転した。政権を掌握した道長の圧迫を受けて、兄の伊周や弟の隆家は失脚させられた。伊周が大宰権師として京を下るに際し、定子はみずから髪を下ろして尼となった。さらにその年に母も亡くなり、身辺は失意と悲しみに包まれた。それでも天皇のご寵愛は続き、内親王と親王を出産した。長保2年に皇后となったが、内親王を出産した翌日、後産のため24歳の若さで死去した。
 
 清少納言は、道長の世となった後も、献身的に定子に仕えたが、定子が亡くなった後、ある期間の服喪を終えてから辞去した。
 
 
 
◆命懸けの遣唐使
 
 630年に第1回が派遣された遣唐使は、全部で18~20回任命されたが、実際に派遣されたのは13回ほどだった。船団は初期が2~3船、のち4船となり、「四(よ)つの船」ともいわれた。
 
 遣唐使のおもな目的は、国際的な地位の確立と文物の導入にあった。当時の中国は東アジア世界の中心で、日本にとっては世界の大半といってもよいほどだった。その中国に対し、日本を文化的にすぐれた国だと印象づけることも重要な外交課題だった。
 
 白村江の戦い以来、関係が悪化していた新羅との席次争いでは、大伴古麻呂が新羅の上位になるよう強く抗議したこともあるという。
 
 日本に持ち込まれた文物は、遣唐使みずから朝貢貿易の形で所持金と唐の下賜品で買い求めたものもあるが、多くは同行した留学生・留学僧が長年かけて収集したものを持ち帰った。たとえば、吉備真備は兵学・音楽・暦学関係の多数の文物を、大和長岡らは法制の知識を伝え、空海・最澄は新しい仏教を導入力した。
 
 しかし、遣唐使の航行には多くの犠牲をともなった。朝鮮半島西岸を進む北路は比較的安全だったが、新羅と対立しだしてからは、五島列島の福江島から東シナ海を横断する南路、または石垣島から東シナ海を横断する南島路をとった。
 
 季節風の知識もなく、海流を乗りきれるだけの船体構造の知識もなかった。逆風や強い海流によって難破漂流し、死者・行方不明者が多数出た。まさに命がけの使節であり、往復とも無事だったのは、およそ半分だったと考えられる。
 
 894年に遣唐使となった菅原道真は、唐の衰退と航海の危険を理由に遣唐使の一時停止を提案し、ゆるされた。その後唐は滅び、遣唐使も廃止された。
 
 
 
◆井真成の無念
 
 2004年、中国の古都・西安で遣唐留学生「井真成」の墓誌が発見された。19歳で母国を後にし、彼の地で最新の制度や文化を学び続け、ようやく彼を迎える船が日本を出港したのは16年後だった。しかし、彼は帰国の途につく直前に亡くなった。享年36歳だった。
 
 皇帝(玄宗)は彼の死を悼み、尚衣奉御(しょういほうぎょ)を追贈した。墓に刻まれた文言からは、立派に成長した彼の姿が偲ばれる。望郷の思いを果たせなかった彼の無念はいかばかりか。また、帰国を待ちわびていた家族の哀しみはどれほどのものであったか。あらためて彼の冥福を祈りつつ、墓誌の訳文をご紹介する。
 
「公は姓は井(せい)、通称は真成(しんせい)。国号は日本で、才能は生まれながらにすぐれていた。そのため命を受けて遠国へ派遣され、中国に馬を走らせやって来た。中国の礼儀教養を身につけ、中国の風俗に同化した。正装して朝廷に立ったなら、並ぶものはなかったに違いない。だから誰が予想しただろう、勉学に励み、まだそれを成し遂げないうちに突然死ぬとは。開元二十二年(734年)正月●日に、彼は官舎で亡くなった。三十六歳だった。
 
 皇帝はこれを傷み、しきたりに則り栄誉をたたえ、詔勅によって尚衣奉御の官職を贈り、葬儀は官でとり行わせた。その年の二月四日に万年県の原に葬った。夜明けに柩を乗せた車を引いてゆき、葬列は赤いのぼりを立てて哀悼の意を示した。真成は、遠い国にいることを嘆きながら、夕暮れに倒れ、人気(ひとけ)のない郊外の墓で悲しんでいる。
 
 彼は言う。「死ぬことは天の常道だが、哀しむべきは遠方であることだ。身体はすでに異国に埋められたが、魂は故郷に帰ることを希(こいねが)う」
 
 
 
◆平安貴族のトイレ
 
 日本史にトイレが登場するのは古墳時代から。しかも水洗式が登場した可能性もあるという。藤原京では、通りの側溝から屋敷内に水の流れを引き込み、それでトイレを流した。そのあと流れていく先は、もとの側溝。したがって、水が少なくなる時期はえらいことになった。政府は、雨の日に囚人を動員してその清掃にあたらせたという。
 
 ところで、平安貴族が使用していたトイレは、実は「オマル」だった。といっても、「樋筥(ひばこ)」とか「虎子(おおつぼ)」「清筥(しのはこ)」とよばれる木製の箱で、多くは漆が塗られ、なかには紫檀地に螺鈿(らでん)をちりばめたようなものもあったとか。
 
 貴族たちは、用を足したくなったら、「オマル」係の女官を呼びつける。彼女らは樋洗(ひすまし)とか須麻志女官とよばれ、彼女らがオマルを持って現れると、御簾で周りを取り囲み、その中で用便をした。終わったら樋殿(ひどの)とよばれる場所に運んで中身を捨て、オマルをきれいに洗った。
 
 外出のときもオマルを持った女官が従い、いつどこでも用を足すことができた。その昔は、人間がトイレに行っていたのではなく、トイレのほうが人間のところにやってきていたのだ。
 
 
 
◆がんばった紀氏
 
 紀氏はもともと紀州の紀ノ川沿いに勢力をもっていた豪族だった。早くから大和朝廷と結びつき、中央貴族として活躍していた。藤原京と平城京には紀寺という氏寺も残している。そして、奈良時代の末、紀氏を母とする光仁天皇が即位するころ、紀氏の勢力は最盛期を迎えた。
 
 ところが、9世紀半ば、藤原氏とのあいだに事件が起きる。文徳天皇の皇太子の座をめぐる争いだ。文徳天皇が即位したとき、天皇には4人の皇子がいた。第一皇子の惟喬(これたか)親王の母は紀氏の出身であり、しかも天皇最愛の皇子だったことから、紀氏は惟喬親王が皇太子となるのを大いに期待した。
 
 しかし、文徳天皇は生まれて間もない第四皇子・惟仁(これひと)親王を皇太子に決めてしまった。惟仁親王の母は藤原良房の娘だった。政権独占をねらう良房が文徳天皇に強い圧力をかけたのだった。
 
 惟仁親王が清和天皇として即位して後は、惟喬親王の伯父だった紀有常は22年間も昇進できなかった。さらに866年に起きた応天門炎上事件では、藤原氏のライバルの貴族たちが犯人として捕えられ、紀氏の有力者も連座させられた。これによって紀氏は最後の力も失ってしまう。
 
 中央政界での望みを絶たれた紀氏は、「文学」に生きる道を求めた。905年に出来上がった日本最初の勅撰集『古今和歌集』の選者には、紀貫之、紀友則が名を連ねた。また撰集された歌の2割が紀氏一門によるものだった。
 



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服部順治 ‏ @JunjiHattori

原発再稼動を停めようと佐賀県庁にのりこんだ山本太郎さんを
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なぜか半年近くも経った今頃、下記のビデオを見て、
その行政書士は幸福の科学の信者ではない、とのことで
「名誉毀損及び名誉感情侵害行為」で
慰謝料 45万700円を支払うように
こんどは私を訴えてきました。
(^_^;)

どうも小沢一郎さんと市民との対話という番組に出て
「裁判所もおかしい」と言った直後に告発している感じです。
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この行政書士と戦うためにも
裁判の費用が必要です。
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なお2011年12月だとエステー化学のエアカウンターがいいようだ。(群馬大学の早川教授もおすすめ(^_^;)
その時、必ず9800円の定価に近いロープライスを選択して買うべきです(^_^;)
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3万円台では
手軽に正確な値を出すのにお奨めはDoseRAE2だけど、今だとエステー化学のエアカウンターがいいようだ。
(東京都からの貸し出し用で採用している機種だけど0.30μSv/h~2.50μSv/hふらつきあり)
私も「放射線測定器 Dose RAE2を買って」 (^_^;)
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